4 / 15

第4話

 御所での仕事は昼過ぎには終わる。退朝した真弓と冬明は、その足で都の寺へ向かった。  寺は粗末なもので、低い小柴垣に囲まれた本堂はほとんど掘っ立て小屋である。敷地内に一つの小屋が付設されており、格子窓から湯気があふれ出していた。  牛車から降りて光景を眺めた冬明は、素直に驚きを表していた。 「俺がいた寺とは比べものにならないくらいだ。坊主はいないのか」 「お坊さまはここに住まず、別の庵から通って来ているのかもしれませんね」  現在の神社も寺も、神主や僧がその場に住むということは少ない。  二人は小屋に入り、風呂がやっているのを確かめて衣を脱ぎ、湯帷子(ゆかたびら)に着替えた。  袍の下には下襲や単などの重ね着がある。一番下に着ているのは下着である白い小袖だ。  真弓はなにも考えないよう脱いでいたが、どうしても最後の小袖を脱ぐのをためらってしまう。一時でも裸になるのが、単純に気恥しかった。  一方の冬明はすましたまま手早く脱いでいる。見る間に白い肌があらわになっていき、真弓は背を向けた。  小馬鹿にした声が後ろからかかった。 「恥ずかしいのか。口吸いは平気だったのにおかしな奴だな」 「それとこれとは別でしょう。口吸いは不意打ちでしたから」  小袖を脱ぎ、ぱっと湯帷子に袖を通す。前で帯を締めてから、ゆるゆると真弓は振り返った。 「寒い。早く入ろう」  湯帷子の薄い生地からは、肌が透けて見えている。  冬明の背に窓から差し込む陽光があたっているせいで、白い湯帷子はすっかり透明になり、身体の輪郭が目にも明らかだった。  自然と真弓は彼の裸を想像してしまい、己の耳が熱くなるのを感じた。 「誰もいないようだな」  風呂には先客がおらず、二人はそろって木製の長椅子に腰かけることができた。  顔から汗が吹き出すのがわかる。帷子から伸びる腕にも汗の水玉が浮き、床へとこぼれ落ちていった。  隣の冬明は白皙の面を薄紅に染めている。湯帷子が汗で張り付き、彼の肌色を濃くしていた。 「蒸し風呂というのは、面白いな。あたたかく、そして熱い。寺での適当な水浴びが残念なものに思えてくる」 「あの山の水は綺麗だとよく聞きますが……私にはぜいたくに思えます」 「冷え切った水なんて、何度も浴びるものではない。身体だけでなく、心の臓まで冷えるのがオチだ」  横を向いた冬明の鼻先から一滴の雫がしたたる。 「寒さは、人を傀儡子(くぐつ)にする。身体の動きをぎこちなくさせ、思考すらも奪う」  真弓の頭に、舞をしていた稚児たちの姿がよみがえった。彼らもまた、毎日冷たい水をあびているのだろうか。  冬明はつぶやくように付け加えた。 「それに、綺麗な水ほど己の顔がよく映る。映ってしまう」  熱かったはずの首の後ろが、うすら寒くなった。  寺で常に女のなりをしていた冬明は水浴びをするたびに、化粧をした自分の顔を目にしなければならなかったのだ。  僧に蹂躙されもてあそばれた記憶を思い出す引き金にすらなったに違いない。 「冬明の顔には、白粉も紅もいりません」  真弓はどうにか力づけようと試みたが、冬明によって一笑に付された。 「それくらい綺麗だとでも言いたいのか? 下手なお世辞を言うのはたいがいにしておけ」 「……嘘では、ないのですが」  否定したものの、冬明の耳には届かなかったらしい。  彼は手巾をもてあそびながら、そっけなく「なあ」とこぼした。 「真弓は今まで、どうやって一人で生きてきたんだ?」  腹の底をかき混ぜられた心地がして、言葉に詰まった。  藤原の君は、最初から一人であったわけではない。周囲に母や乳母、乳母子の時文がいた。 だが、『冬草草紙』自体には時文しか登場せず、母と乳母の存在はほのめかされるだけである。この二人がいつ死んだのかも不明だ。 ──わからないなら、話を作ってしまおう。  真弓は少し考えて、開口した。 「母は……私が十二の時に死にました。父も母も私が生まれてから、ほとんど関わりを持とうとしませんでした」  真弓が両親からの愛をもうのをあきらめたのが、ちょうど小学校を卒業するころ──十二の時だった。  それまでは少なくとも、真弓の中で両親は「生きて」いた。  しかし思春期を迎えたせいなのか、突如として二人の存在が消えうせた。  いくらこちらから愛を贈り、返してくれるのを待ち望んでもかなわないなら、期待するだけ無駄だと悟ったのだ。 「父も母も、私を愛することはしませんでした。私など、二人の中では些末で矮小なものだったのでしょう。それから私は、彼らからの愛を期待するのを諦めました」  口に出して改めて、自分の哀れさを思い知る。 「諦めれば、それは楽です。ですが代わりに、無味になります」  諦めた日から、真弓から感情は抜け落ちた。なにをしても楽しくなく、涙すら出ない。  そんな時、『冬草草紙』の宮の源氏と知り合った。  ──そう。あなたと出会った。 「私は一人でしたが、冬明と会えていくぶんか感情を取り戻したと思うのです。あなたのおかげですよ」  黙りこくって耳を傾けていた冬明が、吐息とともに吐き捨てた。 「お互い、恵まれんな」  その通りだと思った。  だが冬明と似た人生を送ってきたことを、ほんの少し幸せに感じないでもなかった。 「そろそろ水を浴びましょうか」  長椅子から離れ、部屋の隅に置かれた大きい桶の前に座る。  水面を苦々しく凝視していた冬明だったが、彼は決心したらしく一度に水を被った。 「……あたたかい」  髪から水をたらしながら冬明が言うので、真弓は吹き出した。 「蒸し風呂の中に置かれた水があたたかくなるのは当たり前でしょう」 「そうか」  こちらを向いた冬明の顔は楽しげだった。  真弓も笑み返し、真似をして一息に桶の中身を被った。  確かに、あたたかかった。  それから祈年祭の前日まで、真弓と冬明は寺の蒸し風呂に通った。  普通の風呂と違って蒸されることで、身体から悪いものが抜け出ていったのか、真弓の身体はすっかり軽くなっていた。  一方で、冬明に祈年祭の参加を頼まねばならない時機が近づいていた。  翌日に祈年祭をひかえた日、真弓は清涼殿の隅で書き物をしている冬明にいざり寄った。 「冬明、明日になにがあるかご存じですか」  彼はこちらを振り返らないまま、硯に筆をひたし、ふちで墨を調節していた。 「なにって、温泉の出る神社に行くんだろう」  当然とばかりに返され、真弓は罪悪感と恐怖にかられる。なにより冬明に真実を伝えることで、嫌われるのが怖かった。  少々うろたえつつ、本当のところを告げる。 「明日あるのは、大内裏での祈年祭です。豊穣を神に祈るお祭りなのですが、冬明、このお祭りに参加してはくれませんか」  手が止まり、筆が置かれる。  冬明の首がぎこちなく周り、鋭利な視線で真弓を一刺しした。 「お前、俺のことを騙したのか」  心臓が縮みあがる。 「……そう、ですね。主上から頼まれたのです、冬明とともにお祭りに参加してほしい、と。仲直りするきっかけにしたいとのことです。ですが、あなたは素直に頷かないと思ったので、手前嘘をついてしまいました」  朱色の衣に包まれた腕が組まれる。彼は諭すように懇々と言った。 「前に俺が言ったことを忘れたのか? 兄上……主上と仲良くする気はさらさらない。今後もだ」  散々痛感していたが、冬明の決心は固い。  真弓は何度も首を縦に振り、「ですが」と切り込んだ。 「仲直りをするかしないか、は冬明の自由です。私は、別にしなくても良いと思っています。それが、冬明の意思なのですから」  強制される仲直りには意味などない。  仲直りできなかったとて帝が真弓に責任を擦り付けるとは思えなかったし、第一に帝はそんな人物ではない。  膝の上で握りこぶしをつくり、真弓は宣言した。 「これとは別で──私が、冬明とお祭りに出たいのです」 「俺と出て祭りがおもしろくなるのか? 出たくもない奴といたって興ざめするだけだろう」  冬明が腕をほどき、ふたたび筆をとろうとする。これ以上、聞く話はないとでも言いたげな動きに、真弓はかぶりを振って身を乗り出した。 「なぜ興ざめすると決めつけるのですか。冬明はお祭りに参加したことはないでしょう? 風呂と同じように、案外おもしろいかもしれないではありませんか」  風呂での一幕を思い出したのか、冬明の喉から「ぐ」と声ともつかないうめきがもれた。  彼の中でも、初めての風呂はおもしろく楽しかったらしい。 「風呂は潔斎のためでした。それに、温泉に行こうというのは本当です。お祭りの翌日に行く予定でした。でも、どうしても冬明が参加したくないのなら、結構です。あなたに嫌な思いはさせたくない」  途中まで進んでいた帝の命令だったが、本人がこれほどまで拒絶するなら、致し方ない。  真弓が背を向けて立ち上がろうとした折、「なあ」と弱々しい声がかかった。 「温泉に行くのは本当だったのか」  持ち上げかけた膝を戻し、冬明の方へと腰を据え治す。 「本当ですよ」  答えると、彼は気まずげに口を結んで、目線を下に落とした。 「どうされましたか」 「どうもしないさ」  冬明がなにを考えているのかわからない。  真弓は『冬草草紙』と相対する時と同じように、彼を「観察」した。じっくりと思考し、考察し、己の結論を脳内に書きだす。  冬明の瞳からは、期待していた、行きたかった──そんな思いがありありと読み取れた。 「温泉には行きましょう。この約束を嘘にはしたくありませんから」  温泉に行こうと提案した時の冬明を、真弓は忘れられない。  知らないものを知った、幼子のような顔。あの顔に嘘はつけなかった。  少しの間の後、頭をもたげた冬明と視線がかち合った。 「なら……俺は祭りに出てやる」 「いいのですか」 「祭りに出ない、と言って肩を落としたお前と温泉に行きたくない。どうせなら、参加した祭りの文句でも言いながら温泉に入りたい」  思わず口が開けっぱなしになった。  それほどまでに温泉を楽しみにしていたのかと思うと、自然に口角が上がってしまう。 「ありがとうございます。お祭りなど、温泉での話のタネにでもいたしましょう」 「絶対だぞ」  冬明は念を押すように真弓の胸をこぶしで軽く叩くと、また机に向かった。  ──よかった。  真弓は明日の祈年祭に一人胸を躍らせた。

ともだちにシェアしよう!