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第5話
翌日の宵には天高く星が瞬いていた。あれが金星か、と真弓は神祇官 の入り口にたたずみながら、空を仰ぐ。
この時代の人々は星よりも月を愛している。月の神があの有名な月読なのに対して、星の神は無名な上に悪神だ。
美しいのに、なぜ悪にしたのだろうと思いながら、真弓は首を戻して隣の冬明を眺めやった。
彼は口をへの字に曲げて神祇官の殿舎を凝視している。
祈年祭の会場は、大内裏の南東に位置する神祇官だ。すでに入口には篝火が焚かれ、多くの官人たちが集まっている。
青い褐衣 姿の随身や、退紅 、白帳 といった衣を着た下級官人がせわしく雑用に走っていた。真弓たちは参加する側なので、特にすることはない。
「もうすぐ始まりますよ」
冬明に耳打ちしても、返事はない。ただ興味深げに、まっすぐ人々の動きを見ているだけだ。
殿舎には諸国からはせ参じた神官が神酒や御饌 といった捧げものを奉じている。奥には顔を御簾で隠された帝の姿もあり、儀式用の青色袍がのぞいていた。
殿舎の前には、白い砂利が敷かれた空間が広がっている。その中心には御台が造られ、四方にひときわ大きい篝火が焚かれていた。
周囲には祭りを楽しみにしている者たちでひしめき、すでに前方の席は埋まっていた。
真弓は冬明をつれて、やや後方の席に座した。
狭い席で祭りの開幕を待っていると、にわかにまわりの雑談がぴたりと止んだ。
笏拍子の弾ける音が会場に響き渡り、次いで火焔太鼓を打ち鳴らす音がとどろく。
御台には檜扇を持った三人の巫女が並んでいた。
「花の都を振り捨てて、くれくれ参るは朧げか、かつは権現御覧ぜよ、青蓮の眼をあざやかに」
白い小袖に紅の長袴を穿いた彼女たちは、今様を吟じながら御台で舞い始める。
篝火からは火の粉が舞い上がり、空気に溶けて消えていった。
「金の御嶽にある巫女の、打つ鼓、打ち上げ打ち下ろしおもしろや、われらも参らばや、ていとんとうとも響き鳴れ、響き鳴れ、打つ鼓、いかに打てばか、この音の絶えせざるらん」
初めて見る、古の時代の祭り。
真弓は御台にくぎ付けになっていたが、ふと冬明はどうなのだろうと隣を打ち見た。
彼の黒檀のように澄んだ目には、朱色の炎がうねる様子がそのまま映り込んでいる。視線は一切逸れることなく、御台へと結びつけられていた。
「……すごい」
冬明の薄い唇が上下し、飾り気のない素直な感想がこぼれ落ちた。
「そうですね」
真弓も小さく返事し、前を見据えた。
巫女たちの舞が終わると、諸国の神官による帝への挨拶になる。
神官の数は多いので、挨拶もそれなりの長さになる。観客たちには退屈しのぎに酒が振る舞われた。
土器を白く濁った酒で満たし、口をつける。平安の酒は甘い。
「冬明は、酒を飲んだことはあるのですか」
土器を持ったまま止まっている冬明に問うと、彼は少々困った面持ちになった。
「飲んだことはあるが、よくわからない。俺を酔わそうとする坊主どもが飲ませてきたが、飲むとその後の記憶がなくなってしまう」
「つまり、お酒は弱いのですね。飲んで大丈夫なのですか」
「もったいないから俺が飲む」
土器の盃をしばし睨み、冬明は一気に飲み干した。咽仏が上下したかと思えば、彼の顔に紅が走る。
冬明が口の端を手の甲でぬぐうので、真弓が手巾を渡していると、背後から知った声がかかった。
「おや、お前が噂の源冬明か」
一顧すると、提子を持ち、すでに赤ら顔になった時文がいた。
武官である彼は朱色の袍をまとい、背中に平胡籙を負っている。被っている冠は真弓たちとは異なる巻纓で、右側に太刀を佩いていた。
「時文、仕事ではなかったのですか」
「いや、今は休憩。俺の担当は夜がもっと更けてから」
冬明は突然現れた男を遠慮なく不審がり、真弓に訊いた。
「なんだこの者は。真弓の知り合いか」
「紹介します。彼は私の乳兄弟で、兵衛府で働いている橘時文です」
人懐っこい笑みを浮かべた時文は、軽く一礼すると提子を掲げた。
「どうも。二人とも、酒は足りているか。たくさんもらってきたから飲めよ」
時文は遠慮なく真弓の土器を奪い、なみなみと酒を注ぐ。次に冬明の土器に手を伸ばしたが、彼は土器を後ろにやって取られまいとした。
「俺は酒はいらん。お前たちが飲め」
「ほう、冬明はお酒に弱い、と。主上に反抗する気概があるわりに、かわいい弱点をお持ちなんだな」
時文は顎に手を添えて半目になった。言葉こそからかっているものの、声色には馬鹿にする様子はない。
時文にとって、いつも仲間としている会話と同じ調子なのだろう。
冬明もそれを察しているのか、特に怒ることなく片手で時文を追い払うそぶりをした。
「真弓、この無礼な乳兄弟をどうにかしろ。だいたい、お前に乳兄弟がいるとは思わなんではないか。屋敷に一人でいるというから」
「俺は母上、ようは真弓の乳母が儚くなった時に、俺の父親の家に戻ることになってな。それからはたまに酒を飲みに真弓の屋敷に行くくらいの付き合いをしている」
時文の説明を聞いた冬明は、「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
確かに、乳兄弟の存在を黙っていたのは良くなかったかもしれない、と真弓は反省する。
「隙ありだ」
横を向いた冬明の手から、土器がかすめとられ、気づくと時文の手の中にあった。
いつの間に、と真弓が冬明ともども目を丸くしていると、時文はまたもや土器に酒を注いだ。
酒があふれんばかりになった土器が無理やり冬明に返され、唖然とするしかない。
「冬明、俺が真弓と仲良くしているのが気に入らないんだろ。仕事中も今もべったりくっついて」
頭上からにやついた声が降ってくるのに対し、冬明は土器を持ったまませせら笑った。
よく見ると土器を支える指が震えている。
これは時文に耐えているのか、単に土器を持つのが辛いのか、真弓には見分けがつかなかった。
「くだらん。誰もそんなことは言っていない。だいたい、べったりなどしていない」
否定する冬明に構わず、時文は追い打ちをかける。
「氏姓も違うのに同じ年ごろの男が、一緒の屋敷に住むかね。なかなか、楽しそうではあるが」
「べったりかどうかはわかりませんが、一緒に食事をとっていますよ。一人で食べるよりはるかにおいしくなりますしね」
真弓が口をはさむと、時文は納得とばかりに頷いた。
「なるほど。だから最近のお前は元気なんだな。だとよ、冬明──あっ」
気づくと、冬明は土器に満ちた酒を一気飲みしようとしていた。彼の顔は頬だけでなく鼻先や首まで朱が回っている。
この状態で飲めば倒れるであろうことは、簡単に予想がついた。
「だめですよ、無理に飲もうとしてはいけません」
真弓は冬明から土器を奪い、勢いのまま酒を飲んでしまった。喉がかっと熱くなり、腹の底が気持ち悪くなる。
「あーあ、別に冬明が飲まないなら俺が飲もうと思っていたのに」
もの惜し気に時文がこぼすのを無視して、舌で口まわりをなめる。
「お酒が弱い人が一気に飲めば、死ぬことだってあるんですよ」
『冬草草紙』の物語を進めて動かしている身からすれば、登場人物がうっかり死んでしまうことが一番怖い。
今までなんとかうまくやっていたのに、こんなところで終わりなのはあんまりだ。
「真弓、目がなんだか変だぞ。なんだか虚ろだ」
冬明に指摘されて初めて、視界がぼやけているのがわかった。
彼が何重にもなって見え、周囲の音が反響して聞こえる。
まずい、と直感した瞬間、身体が前に傾き、したたか頭を打ち付けて意識が途切れた。
身を起こすと、見慣れた殿舎の廂に寝かされていた。身体には朱色の袍が広げてかぶせてある。首元の首紙は外され、襟元を緩められていた。
「冬明……」
傍らには脇息にもたれる冬明の姿があった。
どこからか汲んできたのか、水の入った壺が盆に載っている。
彼は壺の中をすくい、水を満たした土器を真弓に押し付けてきた。
「起きたなら水を飲め。気を失ったお前に飲ませようとしたが、なかなか飲んでくれなかったのだ」
身を起こして土器を受け取り、ゆっくりと飲む。ささくれだっていた喉や胃の腑が、冷たく癒されていく。
真弓は土器を盆に置き、冬明に頭を下げた。
「迷惑かけて申し訳ありません」
「まったくだ。酒を一気に飲めば死ぬなどと自分で言っておきながら、飲み干すやつがどこにいる」
冬明はつんと鼻先をそむけ、大仰にあぐらをかいている。すっかり機嫌をそこねさせてしまったらしい。
「……心配したではないか」
ふいに小さく付け足された言葉を、真弓は聞き逃さなかった。
理解するとともに頭のもやが晴れていき、目頭が熱くなる。
「ありがとうございます。冬明は私なんかに気を配ってくださるのですね」
生まれてこのかた、家族からは決してかけられなかった言葉。
それを、あこがれの人物がかけてくれた。
ぶっきらぼうでもいい、ぞんざいな言い方でもいい。ずっと誰かに心を遣われることを期待していた。
涙が出そうになったが、すんでのところでこらえる。
この場で泣きだしたら、事情を知らない冬明を困惑させてしまう。
「そういえば、なぜ私はここにいるのですか。冬明が運んでくださったのですか」
とりいそぎ話題を変えたが、脇息にひじをついた冬明は指先をはたはたと動かして己の頬を叩いているだけである。
しばらくの間どもって、彼は嘆息してから開口した。
「……が、用意させたんだよ」
「え、誰がですか。よく聞こえませんでした」
訊き返すと、冬明は舌打ちして語りだした。
「兄上がこの場所を用意させたんだ。お前が倒れたことを時文が上に伝えたら、儀式の一旦を終えて休まれていた兄上に話が通じたようでな。急いで内裏の殿舎にお前を運ばせて、水やらなにやら持ってきたんだよ。……俺はなにもできず着いてきただけだ」
「そうだったのですね。まさか主上にこんな気遣いをしていただけるとは思っていませんでした」
冬明の奥歯から軋む音がしている。よく見れば、彼が歯噛みしているのだった。
「後で兄上……主上に礼を言っておけ。俺も、その場でだが礼を言った」
「冬明が主上に礼を言ったのですか」
「俺をなんだと思っているんだよ。俺は人の道に反したことはしたくないし、借りをつくったら返す主義だ」
予想外のことに驚くしかなかった。ややもすると、冬明も帝への感情を改めつつあるのかもしれない。
彼は眉間にしわをよせながら、巻き上げられた御簾の向こうを遠望していた。
「悔しかったんだ、兄上が蔵人たちにてきぱきと命じているのに、俺はなに一つできなかった」
──ああ、この人は私のことを本気で心配してくれたのか。
胸が苦しくなって声を出すのもやっとになる。
「気にすることではありませんよ。私たちはあくまで侍従ですから、誰かに命令できる立場にはありません。それに、冬明は内裏で働き始めて、そう月日も経っていないではありませんか」
「慰められると余計に惨めだ」
「もういいではないですか。私は、冬明に心配してもらえただけで十分です」
「……そうか」
やっと納得したのか、冬明が背に負っていた影が薄くなった気がした。真弓は安堵し、彼に倣って廂の先を眺める。
空では高く上った月が光を惜しげもなく降り注がせ、あたりには星の輝きが散らばっていた。
内裏を囲う門のはるか遠くから、祭りの喧噪が波のように聞こえて耳を打つ。にぎにぎしいぶん、内裏の殿舎は静寂だった。
「俺が感情に任せて祭りを断っていたら、見られなかった景色だ。この空を目にできたのは真弓のおかげだ、礼を言う。そして、申し訳なかった」
刹那、素直に礼を述べられて面食らったが、真弓は首を横に振った。
「いえ。主上の命令とはいえ私も冬明を騙すような真似をしてしまいましたし、お互いさまです。ちゃらにしましょう」
「ちゃら、か」
味わうように反芻していた冬明だったが、おもむろに腰を上げた。
「明日、温泉には行くんだろう。それならもう帰ろう。十分、俺は祭りを楽しむことができた。真弓、お前は牛車の中で寝てもいい。俺が御帳まで運んでやるから。ほら立て」
まだ身体が重かった真弓は、冬明に差し伸べられた手を迷いなくとった。
「では、お言葉に甘えて」
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