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第6話

 夜更けに真弓は夢を見た。  気づくと実家のダイニングテーブルの席に座っていて、隣には兄が、前には両親がいた。  テーブルには鍋があり、中身はぼんやりともやがかかっていて、なにが入っているかわからない。だが、三人とも気にせず食べては笑っていた。  真弓も鍋を玉杓子で取って口に運んだが、味がまったくしなかった。 「■■、奥さんとはうまくやっているか。孫も元気にしているか」  兄に問う父の言葉にノイズがかかっている。聞き取ろうとして、やめた。ノイズの下にあるのは兄の名前だろうと察しがついたが、彼の名前がなんだったか、一切思い出すことができなくなっていた。  おまけに、父と母の名前すらもわからなくなっている。 「■■が建てた家は立派ね。この前もお邪魔したけど、お風呂が本当に広かったじゃない。リビングもここの何倍も広くてびっくりしちゃった」  母が褒め、兄は意気揚々と答える。 「頑張って建てたんだよ。これからローンが大変だけどさ。今年初めて、嫁とは別々の正月になったけど、あっちものびのびできるって言ってたよ」 「いい奥さんだよな」  うっすら、この景色には覚えがある。いつだかの正月、結婚して遠くに住んでいた兄がめずらしく実家に戻ってきた時だ。  記憶の断片をつかみ、真弓はこれから母が言うことに対して身構えた。 「真弓」  突然、ダイニングに静けさが訪れた。  母が真弓に話しかけるなり、父と兄の顔から笑顔が消えた。 「一人暮らしはどう」  真弓は大学進学とともに家を出ている。帰ってくるのは盆と正月だけだ。 「……ぼちぼち」  興味を持ってくれない相手に、これ以上話すだけ無駄だ。  小さいころは元気よく答えていただろうが、もう大人だ。それくらいわかる。  母は続けて訊いた。 「一人で暮らしていて寂しくない?」 「ちっとも。大学の研究室にいる時間の方が長いし」  嘘ではない。研究室には晴樹や他の学生もいて、しょっちゅう質問に訪れるので、退屈とは縁がなかった。  記憶では、自分はここで閉口してしまった。一切の反抗ができなかったのだ。 だが、夢だとわかっている以上、怖気づかずに切り捨てた。 「──むしろ、寂しいのはそっちじゃないのか」  三人の視線が自分の顔に集中するのがわかる。もう、なにを言われようと構わなかった。  なぜなら、ここは夢なのだから。 「兄さんが家を出て遠くに住んで、私も家にはいない。父さんは仕事が忙しい。母さんは家で一人だ。だから寂しいんだろう」  母は黙り込んだ。真弓は彼女が返しそうな言葉がわからない。ゆえに、「母」は無言を貫いているのだろう。 「私が大学勤めで、時間の融通が利きそうだから、実家に戻って話し相手でもしろっていうことなのか。それとも、私の金を当てにしているのか。悪いけど、私の時間も金もやらないよ。どっちも私のものだ」  吐き捨てて席を立つ。  幼い時は気にかけもしなかったくせに、大人になって使いようがあると知ったとたん、自分を当てにする。  なんとあさましく汚い奴らなのだろう。  実家には、まだ自室が残されている。真弓は自室のドアを開き、はたと足を止めた。  勉強机の前に置かれた椅子に、冬明が座っていた。 「とんでもない輩だな、お前の親は」  彼は長い足を組み、意地悪く笑った。  勉強机には、中学生から高校生の時に集めた『冬草草紙』の本や資料が適当に積まれたままになっている。  冬明は一番上にあった本を手に取り、数頁めくって興味深そうにうなった。 「これが俺か。お前、俺が出ている本をこんなに集めて、俺のことがそんなに好きなのか」  顔から血の気がひき、ひききると逆に首から熱がせり上がってきた。  口をつぐんで真弓が立ち尽くしていると、冬明は居丈高に命令した。 「戻って来い。お前はこっちにいるべきだ」  立ち上がり、真弓の腕をとって乱暴に引っ張る。  同時に、視界が白んでいった。    ***  真弓は御帳の中で目覚めた。  目が熱い。指でまなじりをこすり、自分が泣いていたことに気づいた。  御帳の隙間から覗くと、広い母屋の真ん中で冬明が大の字になって寝ている。  彼はおもむろに起き上がり、「もう朝か」と独り言ちてから真弓の方を振り返った。  真弓は御帳から出て、冬明の前に座した。 「冬明の夢を見ました」  なんの気もない報告に、ふうんと彼は鼻を鳴らして頭を掻くだけである。  おそらく真弓の夢に出てきたのはただの偶然だったのだろう。あるいは真弓が、冬明が現れることを心の底で願っていたか。  ──戻って来いなんて、冬明が言うはずないではないか。こんなセリフを彼に言わせてしまうなんて。  好きな人を自慰に使ってしまったかのような心地がして、罪悪を感じる。  顔をそむける真弓に構わず、冬明が首をひねった。 「なんでそんな顔をするんだ。今日は温泉の出る神社に行くんだろう。しけた面するな」  真弓の心の内など、冬明が知るはずもない。  ならば気にするだけ意味のないことだ、と真弓は思い直した。  冬草神社に行くには、なだらかな山道を進んでいかねばならない。  都を出て山に入り、四方八方生い茂る木々の中を二人はひたすらに歩いた。  冴えた冬の空気が鼻腔を刺激し、つんとした痛みが走っては消える。暦の上では春なのだが、まだまだ季節は冬だ。  道では籠を背負った商人や壺装束の女、御簾の下から装束をはみ出させた牛車とすれ違った。  架空の草紙の世界だというのに、通りすがる人々は生きるのに必死で、彼らが着ている薄汚れた衣は嫌でもこの世の過酷さを教えてくれる。  立烏帽子をかぶり、狩衣を着た自分たちは恵まれているのだ。  一時間ほど歩き続け、小さなお社が姿を現した。小さい点では同じだが、現代の冬草神社とは違うところもある。神主が常駐しているぶん、掃除が行き届いており小綺麗なのだ。 「ここが神社か」  冬明は物珍しそうにお社を見上げている。寺から都に来てからは、ほとんどが内裏と屋敷の往復だったから、洛外で目に映るなにもかもが新鮮なのだろう。  それを言えば真弓もこの世界の全てが見知らぬものなのだが。 「お参りをしてから温泉に入りましょう」  二人はお社の前に並び、手を合わせる。冬明は神社の参拝の方法すら知らないと見えて、真弓の動作を一拍遅れて真似していた。 「冬明はなにをお願いしたのですか」  お社から温泉のある道へ入ってから問うと、彼はあからさまに面倒そうな面持ちになった。 「訊かない方が良かったですよね。すみません」  慌てて話を終わらせにかかったが、冬明は「いや」とかぶりを振った。 「お前が俺を捨てることがないように、祈った」  思わず足が止まった。  少し先を歩き、冬明も歩みを止めた。彼は一顧もせず嘆息した。 「重いだろう。だから言いたくなかったんだ」  背中に払えない黒い影がかかっているように錯覚した。冬明には、まだ癒えぬ傷がある。  十年以上も深く彫られた傷は、簡単には治らない。かさぶたにすらなっていない。  信頼されていないのだと思い知らされ、真弓は首を絞められたように苦しくなった。 「捨てるなんて、なぜそんなことをおっしゃるのですか。私が冬明を捨てるような、冷血漢に見えるのですか」 「見えない。だが、恐ろしいんだ。今の俺は幸せすぎる。いつか幸福を味わったことへのつけを払わねばならないような気がしてならん」  不幸が続けば、幸せすら信用できなくなる。  その気持ちは真弓も痛いほどわかっていた。 「違います。冬明さまは先に十分な不幸を味わいました。今は、不幸をもらった分の幸せをいただく時です」  半分は自分に言い聞かせるつもりで、真弓は告げた。  不幸は自分の存在を小さくする。小さくなった体では、幸せを受け止めきれなくなる。 「私だって今、不幸だった分の幸せをもらっています。冬明とともに暮らせること。これが、私の幸せです」  冬明が踵を返し、真弓を見つめた。  ──幸せと一緒に、私には新しい使命がある。物語を筋書き通りに進めることだ。そして、研究者として、冬明という人物をすみずみまで観察しつくさねばいけない。  真弓は負けじと冬明に視線を注ぐ。彼がなにを思いなにを感じているか、すべて知り尽くしたかった。  もし現実に戻ることがあっても、彼の息づかいを忘れることがないように。  真弓の眼差しに冬明は少々及び腰になり、また足を先に進めた。 「行こう。凍えてしまう」 「ええ」  道を風が通り抜け、狩衣の袖を揺らしていった。  温泉には誰もいなかった。秋ならまだしも、この時代の人は真冬に露天風呂に入ろうとは思わないのかもしれない。 岩陰で持ってきた湯帷子に着替えていると、冬明が手巾一枚を持って裸のまま風呂に入ったので真弓は固まった。 冬の抜けるような空の下、彼の裸体は眩しいほどに光っている。寺での力仕事のせいか腹には薄い筋肉がついており、一方で毛は少し残されて大半が剃られていた。 いけないことだとわかっていながら、真弓は目を逸らせなかった。 寺の僧たちは、あの身体を抱いたのだ。 瞬間、帷子の下の下腹が変に疼いた。  ──考えちゃ、いけない。  即座に否定したが、疼きは余計に増すばかりだった。  あの身体が自分に触れたら。初めて出会った日のように、口吸いをしてくれたら。 もし自分を抱いてくれたら。 欲求が脳裏に湧いてはめぐり、潰そうとしても無限にうごめき続ける。 「早く入れよ」  温泉に浸かった冬明の声が、真弓を現実に引き戻す。  湯帷子一枚の身体は、とうに冷え切っていた。  足先を湯に浸し、ゆっくりと身体を沈める。  湯を囲う岩に腕を乗せている冬明の隣に座り、彼の身体に気を取られないよう景色を眺めた。 「湯帷子なんて身体に張り付くもの、こんなところに来てまで着る気にはならんな。お前も脱げばいい」 「結構です」  今、湯帷子を脱いでしまえば、自分が冬明に劣情を抱いていることがばれてしまう。  ばれたら、二度と彼に顔向けできない。  膝を立てた三角座りのまま、あごを湯に漬けていると、冬明が白い息を吐いた。 「お前はなにを願った? 俺だけ言うのは不平等というものだろう」  願い事の話を蒸し返され、返答に困った。  真弓が願ったのは、物語を正しく進められるようにと、もう一つ。 「冬明のことを知れますように、と願いました」 「数寄者め」  笑われたが、別段構わなかった。願ったこと自体が重要だと、真弓は思っていたからだ。  四半刻湯につかり、先に上がったのは冬明だった。  裸のまま岩に腰かけ、空を見上げている。真弓も熱くなってきたので、上がって彼の傍らに座った。  ──なるほどこれが、二人が座ったとされる岩だったのだな。  自分を草紙の世界へ飛ばしたきっかけの岩は、今度の真弓が触れても押し黙ったままだった。  帰りは身体があたたかく、不思議と足取りも軽くなった。単に下り坂だったからと思えばそれまでだが、温泉の力が足に効いたのかもしれない。  日が落ちかけた都は、恋人に会いに行ったり、宴へ赴いたりする者の牛車でにぎわう。本人たちは隠れて向かいたいだろうが、傍から見れば目的など明らかというものだ。 「今夜は魚でしょう。下女が市に魚を買いに行くと朝言っていましたから」 「ふうん」  空いた右手で鼻の下を擦る。  これは冬明の嬉しい時の癖だ。最近、彼の癖がわかってきた。  屋敷のある左京の小路に入った時である。道の先を歩いていた女が突如その場に屈みこんだ。  彼女は市女笠をかぶり、下に二藍の袿をかぶる壺装束を着ている。貴族であることは疑いようがなかった。  女が伴っていた女房らしい者は慌てふためき、周りを右往左往するばかりである。 「どうする、真弓」 小路には他に人影がなく、冬明はこのまま通り過ぎていいものか迷っている様子だ。真弓は二人を見ていられず声をかけた。 「どうされましたか。ご気分でも悪くされたのでしょうか」  若い女房は仏を見たとばかりに手を合わせ、真弓に懇願した。 「姫さまが、姫さまの緒太が切れてしまって……でも私には治せないのです。かと言っておぶることもできなくて」  要領を得ない話し方だったが、彼女の言いたいことはだいたい理解できる。  確かに、姫と呼ばれた女が履いている緒太は鼻緒が切れていた。姫は自分で直そうと試みており、細い指で一心に鼻緒を結ぼうとしている。  姫君しからぬ行動だと思った。 「怪我や病気でないのならよかった。ならば、私の緒太をお貸ししましょう。大きさが合うかわかりませんが」  姫君を背負っても良かったが、真弓にはそれほど自分の力に自信がなかった。まさか冬明に背負わせるわけにもいかない。  右の緒太を脱いで渡すと、姫君は丁寧に頭を下げた。 「ありがとうございます。助かりました」  少し大きい緒太を履いた姫君と女房が去っていくのを見送り、代わりに裸足になった真弓も歩きを再開した。  足の裏に砂や小石があたって少々痛いが、屋敷までそう遠くはない。我慢できるだろう。  しかし、冬明は眉をひそめていた。 「足の裏を怪我して、そこから穢れが入ったらどうする」 「え、ですが……」  彼は呆れ顔で真弓の前に回って屈んだ。 「おぶってやる。乗れ」  言われたことを理解するのに寸の間時間を要した。 「私は重いですよ」 「俺よりは軽いだろう」  よくわからない返事だったが、ためらいつつ冬明の背に乗った。視界が彼の立烏帽子で遮られてしまったので、首を傾ける。 「軽い。俺と同じものを食っているというのに」  この時代に来てから食事量が減ったとは思わないので、慣れない環境に知らないところで負荷がかかっているのだろう。 「変な芥川ですね」 「駆け落ちするわけでもないのに、言うな」  夕暮れの小路を、おぶられながら行く。  これ以上ない幸福だったが、真弓には一つの懸念がつきまとい始めていた。  ──あの姫君は、藤原の君の恋人として登場する女だ。 助けている際にもしやとは思ったが、確信したのは彼女が去ってからだった。 作中で描かれる恋人の姫君は、二藍の袿を好んで着ているため、登場するたびに服装の描写がされている。 彼女たちが歩いていった小路も、姫君の住む屋敷のある方角だ。 疑いの断片が一つに固まり、不安と化して頭をむしばんでいく。真弓は瞑目して懊悩した。 「ゆめゆめ、俺から離れていくなよ……」  耳の端に、冬明の呟きが触れた。

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