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第7話
都に冷たい雨が降っている。かれこれ三日は太陽を見ていない。
真弓は寝殿の廂に座り、ぼんやりと庭を眺めていた。手前には紙と墨壺、筆が揃った文机がある。
藤原の君の恋人となる姫君と会ってから、すでに五日が経過している。おまけに、後日には礼として菓子をもらっていた。
藤原の君と宮の源氏が男色の関係にあったと提唱する真弓の説に立ちはだかる存在、それが姫君だった。決して無視できる人物ではない。
『冬草草紙』の中で、藤原の君は出会った姫君に手紙を渡している。それをきっかけに、二人の仲は深まっていき、やがて結ばれるのだ。
結ばれるといっても、その場面は散逸しているため、あくまで憶測にすぎないのだが。
「なにを悩んでいるんだ」
気づくと、隣に冬明が立っていた。呆れ顔で腕組みをしているが、そんな姿も美丈夫ゆえに様になっている。
「つまらないことですよ。気にしないでください」
姫君に手紙を贈ろうとしていることを、冬明には知られたくなかった。
知られてしまえば、自分が彼を裏切った心地になるだろうことが目に見えていた。
手に取った筆が重い。本音を言えば、手紙など出したくはない。できるなら、冬明と二人だけの付き合いを続けていきたかった。
──それでも私は、物語を動かさねばならない。
「あの姫君に手紙を贈るんだろ」
冬明の目尻が引き延ばされ、弧を描く。さりとて、一寸の笑みも含まれてはいなかった。
「よくわかりましたね」
ごまかしたり否定したりする気も起きない。真弓の返答の仕方が気に入らなかったのか、冬明は口をへの字に曲げた。
「見ていりゃわかる。あの日、姫君を見ていた目だって、普通じゃなかった」
真弓としては姫君の登場に動揺し、これからの振る舞いを思案していただけなのだが、冬明からは妙に見えていたらしい。
彼に裏切ったと思われてしまうのを恐れる以前の問題だったようだ。
腹をくくるしか選択肢はなさそうだった。
「私はあの姫君に手紙を贈ろうと思っています。ですが、私は文字がうまく書けないので困っていたのですよ」
あえて、姫君を好きになったとか恋に落ちてしまったとかは言わなかった。精一杯の抵抗のつもりだった。
なにに対して自分が抵抗しているのか、よくわからなかったが。
「ふうん、文字が、ねえ」
冬明は文机を挟んで座し、白いままの紙を覗き込んだ。
「書いてみろ」
唐突に言われて泡を食ったが、当然の問いだ。
庶子とはいえ摂関家の子弟が文字を書けないはずがないと疑うのもさもありなんである。
「笑わないでくださいよ」
「笑うもんか」
念を押してから筆先に墨を含ませる。
紙に筆を降ろし、「藤原真弓」と名前を書いた。右側にはいろはにほへとをしたためる。
「漢籍みたいな固い字だな。放ち書きしかできないのか」
放ち書きは、よくある古典のように連綿と文字を書くのではなく、一字ずつ離して書くことを言う。また、幼稚な書き方と解されることもあった。
いくら准教授でも、現代に生きる限りあの手蹟は容易に書けるものではない。
「お恥ずかしながら」
頭を掻きつつ答えると、冬明は筆を貸せとばかりに手を差し出した。無言で筆を渡し、彼が墨に筆をつけるのを凝視する。
「俺もさほどうまいわけではないが、お前よりは書けるはずだ」
彼は流れるように名前を仮名で書いた。
「みなもとふゆあきら」
我知らず真弓は読み上げていた。自分がつけた名前を本人が書いているのを見ると、なぜだか微笑んでしまう。
「どうだ。お前よりは綺麗だろう」
鼻にかけることもなく言い切られたが、事実なので頷くしかない。
書かれた文字に見惚れている中、冬明が無感情に問うた。
「代わりに書いてやろうか、手紙を贈るんだろ」
「嫌……いいのですか」
嫌ではないのですか、と答えそうになって急いで止めた。
彼が嫌がっていると決めつけるのは思い上がりだ。好かれているかどうかもわからないというのに。
「真弓には……世話になっているからな。これぐらいのことはしてやる。なんと書けばいい」
紙を新しく出し、墨をする。
真弓は少し考え、「では」と口火を切った。
「菓子をありがとうございます、と最初に礼をお願いします。あと、私はあなたのことが気にかかっています、と続けてください。それで大丈夫です」
好きだとは書いてほしくない。ただ、気にかかっているとだけ伝えてもらえばそれでいい。
「わかった。待っていろ」
白紙に連綿とした仮名がつづられていく。
伸ばした背筋に細い指で持たれた筆が美しく、真弓には一本の水仙が咲いているかと錯覚しそうになった。
「できた。これを文使い──はいないから、牛飼童に渡して贈ってもらうか」
折って結んだ形にした手紙を、牛飼童を呼びつけて手渡す。
彼がうやうやしく受け取って屋敷を出て行くのを見送り、二人はふたたび廂に腰を据えた。
「ありがとうございます、冬明」
頭を下げるなり、彼は器用に片眉を上げて腰に手を当てた。
「俺がお前の役に立てるのなら、なんだってしてやる」
権高な態度とは裏腹に言葉は温かい。
言われた瞬間に、真弓の心臓は飛び跳ねた。
──好かれている、と思っていいのだろうか。
口の端を噛みしめ、熱くなる顔をうつむける。
「変な顔だ」
ふ、と頭上から声が降ってきた。
声の主がどんな表情をしているのか、確かめることはできなかった。
姫君から返事が来たのは、二人がおのおのの御帳に入ったころだった。
簀子から牛飼童の声がしたので、真弓は御帳から目をこすりつつ這い出て、手紙を受け取った。
夜中の仕事にねぎらいの言葉をかけて牛飼童を帰し、その場で返事の手紙を広げる。
一通り読んで、真弓は首をひねった。
手紙の文は、放ち書きで書かれていたのだ。
一般に、初めて来た男からの手紙に対しては、姫君本人ではなく彼女の親や女房が代筆して返すことが多い。
幼稚だと思われてしまう書き方を親や女房がするとは思えないので、姫君本人が書いたのだろう。
だが、これになんの意図があるのかつかめない。
「文が返ってきたのか……なんと書いてあった」
牛飼童の声で起こしてしまったのか、寝ぼけ眼の冬明が出てきた。
「冬明の手蹟を褒める内容ですよ。とても美しい字だと書いてあります」
「見せろ」
褒められてもさして喜ぶわけでなく、冬明は無理やり真弓から手紙を奪った。
「放ち書きじゃないか」
「ええ。姫君本人が書いたのでしょうが、なぜ放ち書きで書いたのかまったく不思議です」
二人して考えていたが、やがて冬明がつぶやいた。
「……返事がきてよかったな」
そうですね、と返すかどうか、真弓は迷った。
できるなら、返事がこないまま流れてしまっても良かったのだ。むしろ、それを望んでいたと言ってもいい。
さりとて、物語を筋通りに進めるためには、姫君からの手紙が必要だった。
真弓は冬明になにも言わず、手紙を彼から取って御帳へ戻った。
数日経って、姫君の女房が屋敷に訪れた。緒太がちぎれた姫君のまわりで困っていた女房である。
「あの節は、大変助かりました。まさか姫さまに裸足で歩かせるわけにもいかず、途方にくれておりましたゆえ」
屋敷の母屋に通された彼女は頭を下げっぱなしで、かえって真弓が恐縮してしまう。隣では冬明が仏頂面であぐらをかいていた。
十回目ほど真弓が「いえいえ」を言ったところで、女房が両手を合わせた。
「あの、このたびは宴のお誘いをしようと思って参った次第なのです」
「宴、ですか」
宴があることは知っていた。なぜなら、この宴で姫君とまた相まみえた藤原の君は、彼女と同衾するからだ。
「はい。今度、めでたく姫さまの父上が従三位の位をたまわることになりまして、今夜それを祝うはこびとなったのです。せっかくですし、恩人の真弓殿にも来てほしいと思ったのですよ」
意気揚々と話す女房を前にして、断ることはできなかった。
「わかりました。では、おうかがいしましょう」
「ありがとうございます、姫さまも喜ぶことでしょう。ご友人もどうですか」
心底嬉しそうな女房が冬明に訊ねたが、彼の反応はすげないものだった。
「俺は行かない」
「……冬明」
たしなめたが、彼はつんと横を向いている。真弓のついでにどうか、という女房の訊き方が気に障ったのかもしれない。
「いえ、お気になさらず。では、宴の準備をしなければならないので、これで失礼します。お待ちしていますね」
女房は愛想笑いを崩さず、一礼して屋敷を去った。緒太がちぎれた際は頼りなさそうだったが、案外できる者のようだ。
彼女を見送ってから、真弓は冬明をいさめた。
「冬明、先ほどの態度はあまりよろしくありませんでしたよ。もう少し角の立たない断り方があるのではありませんか」
冬明はむくれたまま黙っている。
いつもであればここで引くのだが、なぜだか今日はしつこく追及してしまった。
「私のついで、というのが気に入らなかったのですか」
刹那、まなじりを吊り上げて冬明が吐き捨てた。
「餓鬼じゃあるまいし、そんなことで機嫌を損ねるものか。俺のことなんか放っておきゃいいだろう」
言うなり身をひるがえし、足音を立てながら対屋の方へ消えていく。
残された真弓はぼうぜんとして立ちつくすことしかできなかった。
日が落ちてから、真弓は牛車で姫君の屋敷へ向かった。
母屋ではすでに宴の準備がされており、円座と豪華な料理が並べられている。客として呼ばれた黒い衣冠姿の男たちがひしめく様子は内裏を思わせ、落ち着かない。
御簾は完全に垂れ下がっておらず、裾から女たちの袴がのぞく程度に巻き上げられていた。様々な重ね色目の単が目にも鮮やかで、寸の間真弓は見取れていた。
だが、ひときわ豪華な単がのぞいているのを見つけた瞬間、憂鬱になった。
──これから私は、姫君を抱かねばいけないのか。
正直なところ、心の準備はできていない。そもそも、真弓は女を抱いたことがなかった。
性的な欲求がないわけではない。ただ、その方向が女には向いていなかった。
上座のふくふくとした男が立ち、集まった一同に呼びかけた。
「皆さま、ようこそおいでくれました。この度は私が従三位の位をたまわったということで、宴を開くことになりました。これも皆さまのおかげです。ぜひ料理を食しながら、音曲をお楽しみください」
歓声があがると共に、簀子に座した楽人たちが音曲を奏で始める。
一斉に飲み食いをしだした男たちの中で、真弓はいっこうに食指が動かなかった。
男たちは酒を注いで回る女房にちょっかいをかけたり、女についての談義をしたりしている。
やれ女はふっくらしているのがいいだの、髪は黒々として真っ直ぐで長いのがいいだの、彼らの話題は尽きるのを知らないらしい。
大勢に囲まれながら、真弓は孤独だった。
せめて冬明がいてくれたら、話し相手には困らなかっただろうが、考えるだけ無駄なことだ。
昼間に真弓がいさめてから、彼とは一言も話していない。
ここの料理をお土産に持って帰ったら機嫌を直してくれるだろうか、とそれとなく考える。
迫りくる姫君との対面のことを頭から追いやろうと必死だった。
しかし、いよいよ宴も終盤に近付いてきた。
ほとんど手をつけなかった料理を残し、真弓は重い腰を上げる。
「少々、厠へ」
左右の客は別段知り合いでもないので断る必要などないのだが、言わなければ尻が持ち上がりそうになかった。
姫君がどこにいるかは草紙のおかげで知っている。東の対屋だ。
やかましい母屋から離れ、簀子を進む。足を踏み出すたびに簀子が軋み、耳にうるさかった。
東の対屋の軒先には灯籠が寂しく灯っている。
真弓は垂れ下がった御簾の向こうに話しかけた。
「もしもし、いらっしゃいますか」
返事はない。
ひたすらの静寂に放り込まれ、遠くから響く人々の騒ぎが波打って聞こえてくる。
「以前、お手紙を差し上げた藤原真弓と申します。あなたとお話したく思い、参りました」
追って声をかけたが、依然として反応はない。
──もう寝ているのだろうか。
無作法であるが、御簾を少し押して隙間から覗いてみる。
対屋は几帳で区切られ、灯台が置かれている。その下に着物を引き被って寝ている女がいた。
長く黒い髪が着物から流れ出て四方に広がっている。髪をまとめて入れる髪箱は使っていないらしい。
「もしもし……」
「御足労いただいたところ申し訳ないのですが、帰ってください。気分が悪いのです」
はねつけるような物言いに身がすくんだ。
着物をかぶっているせいで声はくぐもっているが、はっきりと拒絶の念がにじんでいる。
「そうですか、すみません」
真弓は御簾から離れ、簀子へ直った。
姫君に断られ、諦めて引き下がったという記述は草紙にない。一方、姫君が気分を悪くしているという記述も草紙にはなかった。
つまり、草紙の筋から現状が離れつつあるということだ。
真弓が姫君を無理に襲うことができても、姫君の気分の悪さはどうしようもない。
「どうか、ご自愛ください」
動揺を抑えつつ、母屋へ踵を返した。
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