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第8話

夜が更けてから、真弓は屋敷へ帰った。 一口も食べられなかった食事の代わりに、下女が残しておいてくれた米を湯漬けにして食べる。 草紙の展開から外れてしまったことへの焦りが募り、変に動悸が止まらない。 今まで、真弓は物語を筋通りに動かすために頑張ってきた。 それも、草紙の世界に来たという貴重な機会を生かして、登場人物の感情の機微や作者が物語に込めた意図を理解するためだ。 先ほどの場だって、本来であれば姫君と一夜を共にするはずだったが、襲う勇気も気力もない己にはできるはずもない。 「困った……」  湯漬けを飲み下して椀を置いた折、背中に大きな気配を感じた。  振り返ると、寝巻姿の冬明がいる。 「てっきり、宴で姫君のところに行って帰ってこないものだと思っていたが」 彼は一片の笑いも見せず、そっけなく訊いた。  まだ機嫌をそこねているようだ。ここまで来るとかえって子どもっぽく、ほほえましくもある。  真弓はつとめて朗らかに答えた。 「気分が悪いとのことで、すぐ戻ってきました」 「相手にされなかったんだろう。違うか」  姫君が嘘をついている──それはないとは言い切れない可能性だった。 真弓が口をつぐんでいると、冬明はあざけるように鼻で笑った。 「返ってきた文だって、つたない放ち書きだったもんな。お前に執着されたくなくて、あえてそう書いたんじゃないか。私は頭が悪いから、あなたが気にかけるほどの女ではない、と」 「……そうかも、しれませんね」  否定できず、首肯する。  真弓が反抗しなかったのが意外だったのか、冬明は虚を突かれたような面持ちになり、舌打ちをした。 「お前はずるい」 「え」  投げかけられた言葉の真意を考えあぐねているうちに、冬明は場を去ってしまった。  一体、なにがずるいというのか。  なにかを追い抜かしたわけでもないのに、うらやましがられる心当たりが一つもなかった。  ──あなたのことをずっと研究し、この世界では二人で暮らし始めてそれなりに経ったのに、私はあなたの気持ちがまだわかりません。  准教授の観察眼を持ってしても、いまだ冬明が考えていることがわからない。  悔しくもあり、また一方的に突き付けられた挑戦状のようでもある。  真弓は暗い部屋に座ったまま、冬明が立っていた場所を見つめていた。  翌日の夜も真弓は姫君の屋敷へ通い、御簾越しに声をかけたが、けんもほろろにあしらわれた。  こうなると心も折れてくる。 さらに翌日を迎え、これで屋敷に行くのは最後にすると決めて、真弓は身支度を整えた。 首紙を留め終わった時、無意識のうちにため息がこぼれてしまった。 もう物語を本筋通りに戻すのは無理かもしれないと諦めすら湧いてきている。 自分が悪いのではない。向こうが筋から外れてきたのだから仕方ない。 言い聞かせつつ、鏡台を覗き込んで息を呑んだ。鏡の隅に、冬明が映っていたのだ。 「いるなら声をかけてください。心臓に悪いではないですか」  彼は真弓に歩み寄り、馬鹿にしたように大仰な動作で首をかしげた。 「また今日も姫君のところへ行くつもりか。後朝の文も出さないんじゃ、宴の夜みたいに相手にされなかったんだろう。ずいぶんとたくましい心を持っているではないか」  皮肉で返され、喉奥がつまった。 「行くのなんてやめてしまえ。反応一つ返さぬ女のもとへ通うより、俺と飯を食っていたほうが楽しいではないか」 「飯を……そういうことでしたか」  ようやく合点がいき、思わず噴き出した。 「なにがだ」 「冬明は、一人で食事をするのが嫌だったんですね。なにも気づかず申し訳ありませんでした」  だが、冬明はしかつめらしく歪むばかりだった。 「阿呆かお前」 「じゃあなんだと言うんです!」  事情を言えないもどかしさと煮え切らない冬明の態度に、なぜか頭にきてしまった。  叫んだ真弓に彼は鼻白んだのか目を細め、矢庭に腕をつかんできた。  そのまま強い力で壁に引き連れられ、背を壁に押し付けられる。  両腕は冬明の手によって自由を失い、抵抗する気も起きないほど固く握りしめられた。 「……お前は姫君が女だから、相手にされずとも会いにいくのか」  藪から棒の質問に戸惑ったが、とりあえず否定した。 「いえ、そういうわけでは……」  物語の筋ゆえに会いに行っただけだ。でも、それを伝えても冬明にとっては意味不明な解答にしかならない。 「そうかよ」  目の前の彼は鼻先をひくひくとさせ、口が半分開いていた。ちょうど、今にも泣きだしそうな顔だった。  初めて見る冬明の表情に焦っていると、彼は真弓の腕から手を離した。  腕に血が戻ってくる熱さを感じている中、次に冬明は真弓の腰に手を回してきた。身体が手前に引っ張られ、足がよろめいてしまう。  崩れた態勢を冬明がとどめ、腰に回った彼の手が苦しいほど押し上げる。  冬明の顔が首にぶつかり、真弓の首筋はたちまちむずがゆくなった。 「冬明、なにを」  問いかけて間もなく、首元にしめりけのある柔らかな感触があった。初めは柔らかかったものの、次第につねられるような痛みを伴いだした。 「なにを、するんですか……」 「わかっているくせに訊くな。首の皮を吸っただけで怖気づくなよ。寺で会って口を吸った時も、お前はそんなうぶな顔をしたよな」  覚えていない。  それより、自分が今どんな顔をしているのか想像するだけで面はゆい。大方、みっともない顔をしているのだろうが。 「どうして、私の首なんかを吸ったのですか」  訊いても、眼前の冬明は答えない。 「お前は、俺がこういう趣味の人間だとわかっていて屋敷に迎えたはずだ。違うか」  逸らされた話題に閉口したが、黙っているわけにもいかず首を縦に下ろした。  こういう趣味。それは冬明が以前に「奇癖」と言っていた。  ──俺は男だが、男に欲情するんだ。お前、それでも俺を屋敷に迎え入れる気か?  彼の言葉が脳内によみがえり、さらに熱が顔へ集中する。  冬明は、自分に欲情しているのか。だが、なぜ。  当然、直截に訊くことははばかられた。  不言にてっしていると、真弓が理解できていないのだと思ったらしく、冬明は頬に手を添えて笑った。 「わからないなら、それでいい。今は」  ゆっくりと手が離され、冬明は母屋を出て行った。  確かに、真弓は冬明が考えていることがわからなかった。厳しく問い詰めたかと思えば首を吸い、微笑みさえする。  彼に振り回され、特別動いたわけでもないのに身体が鉛のように重くなっていた。 「藤原の君と宮の源氏は男色の関係にあった」  真弓が提唱した説は、寺でされた冬明の告白ですでに成立している。  しかし彼が自分に劣情を抱くのと、愛情を持つのは別だ。劣情と愛情は等しく結びつかない。 「私は、あなたのことが好きです。劣情さえも抱いています」  誰にも聞こえぬように、真弓は独り言ちた。  冬明は自分を愛してくれているのか。これはうぬぼれではないのか。  確信を持ちたいが、訊けやしない。  真弓は重い身体を引きずって、牛車へと向かった。  昨晩より遅く姫君の屋敷に到着し、真弓は慣れた足取りで東の対屋を訪れた。  しんと静まり返った対屋の御簾が、夜風に揺れている。  今夜だめであれば、もう通うのをやめにしようと決めていた。 一度逸れてしまった筋を戻すために奔走するのを思ったら、諦めたほうが楽だ。 一方、諦めたらなにか悪いことが起きるのではといった不安もあるにはあったが。 「もしもし」  御簾越しに呼びかけるが、やはり返事はない。 「もしもし、藤原真弓です。今夜も参りました。ご気分はいかがですか」  御簾を覗こうと一歩前進する。しかし、ここで真弓はうっかり御簾の裾を踏んでしまった。 「あ」  足裏のざらつきを感じて声がもれたが、もう遅かった。全体が引っ張られ、騒々しく御簾が落ちる。  真弓は前のめりに転がり、したたか膝を打ち付けた。じんと痛みが広がり、慌てて指貫を膝までめくりあげる。  膝は赤くすりむけて血が滲んでいた。  痛みで眼裏がちかちかする。 「絆創膏があればいいのに……」  我知らずつぶやいた折、布が大きくずれる音がした。  着物を引き被って寝ていた姫君が跳ね起きたのだった。  彼女は長い髪を振り乱し、大きな目を見開いて固まっていたが、おもむろに口を開いた。 「絆創膏……あなたは今、そう申しましたか」  真弓は言われて心付いた。絆創膏など、現代に生きていなければ知りえない言葉だ。 「はい……もしかして、あなたも現代から『冬草草紙』の中に来た方なのですか」  姫君は頷き、白い寝巻がはだけるのも構わず大足で真弓の前に歩み寄り、腰を降ろした。 「俺は藤原珠子(たまこ)という姫君のなりをしていますが、本当の名前を貝塚晴樹と言います。現代では大学の准教授の助手をしていました」  早口でまくし立てられ、真弓は息を呑んだ。 「晴樹くんだったのですか。私は小野真弓です。覚えていますか」  晴樹──今は珠子の眉にしわがより、たちまち瞳がうるんでいく。  両目から大粒の涙をこぼしながら、彼は鼻をすすった。 「良かった……良かったです。あの岩に触れた時に、准教授が地面の下へ沈み込んで消えてしまったので……俺も急いで後を追ったんですよ。そうしたら、いつの間にか『冬草草紙』の世界に迷い込んでいて」 「私の後を追ってくれたんですね。ありがとうございます。大丈夫でしたか」  心配してくれた助手に胸が熱くなる。  晴樹は目をこすりつつ何度も頷いた。 「はい。姫君の身体で目が覚めたので、初日は驚きましたし、騒ぎました。ですが、悪霊がついたのだと思われ、僧にお祓いをされるだけで。翌日からは諦めて大人しく姫君のふりをし続けてきました。准教授はどうでしたか」  真弓はまだしも、晴樹は性別が変わったのだから慣れるまで時間が要っただろう。放ち書きの手紙も、変体仮名が書けないことが理由だったようだ。  彼の苦労は並々ならぬものであろうことが察せられた。 燈台だけでは明るさがたりず、外から灯籠を持ってきて置く。これでようやく室内が薄暗いくらいになり、晴樹の容姿がつかめた。  彼も真弓の今の姿に驚いたようで、しばらく落ち着かない様子だったが、話の中で現代にしかない語を出し合っているうちに大学の研究室での調子が戻ってきた。 「私も驚きましたが、乳兄弟の橘時文が近くにいたので、このあと自分がとるべき行動がわかりました。宮の源氏……この世界では冬明という名なのですが、彼を迎えに行き、今では一緒の屋敷で暮らしています」  しばらくお互いが置かれた立場と現状について把握し合い、一息ついてから真弓が現在立ちふさがっている問題を語った。 「今の問題として、物語が逸れてしまっていることがあります。私はこの立場を利用して、宮の源氏こと冬明の感情を理解し、現実に戻ってからさらなる研究をしたいのです。そのため、なるべく物語を本筋に戻したいのですよ」  晴樹は口元に手をやり、下唇を指でいじりつつ視線を宙に浮かせている。 「なるほど」  彼は納得の意だけを示し、ふたたび黙した。  しばらくの間、部屋には静寂が続いた。 「物語の通りにするとなれば、俺と准教授が共寝しなければいけませんが……俺は嫌です」  静けさをかち割って、晴樹はきっぱりと拒否した。当然だろう。 「そうですよね。私も、実のところは共寝する気にはなれません」 「意見が一致しましたね。こうなれば、藤原の君と姫君が共寝した事実が物語からなくなることは、もう受け入れるしかないでしょう。では、どうしましょうか。結婚したふりをして物語を続けますか」  展開のずれを甘んじて受け入れつつも、なるべく物語に沿うようにするか。  真弓は頭を抱えてうなった。 「話はずれますが」  にわかに、晴樹が訊いた。 「首元の赤いものはなんですか」  赤い……、と言いかけて、記憶が掘り起こされる。出立前に、冬明から吸われたのだった。  なぜか決まりが悪くなり、真弓は袖で顔を覆う。 袖の布越しに晴樹の含み笑いが聞こえた。 「それ、冬明さんにつけられたんじゃありませんか」 「……はい」  図星を指され、認めざるを得ない。 「おめでとうございます。准教授の説は立証されたんですね。ということは俺、御邪魔虫じゃないですか」  白い寝巻の膝を打って晴樹が破顔した。 「俺は藤原の君の邪魔はしません。恋人の立場も放棄します。なるべく物語から逸れないようにしますが、細かいところは諦めましょう。第一──」  息を吸う音がした。 「俺たちが現代に戻れる保証なんて、どこにもないじゃありませんか」  彼の言うことは真理だった。  真弓は現代に戻れる前提で行動をしていたが、戻れると誰かが保証してくれたわけではない。  目を背けてきた事実を突き付けられ、真弓の背中にひんやりとした空気が流れた。 「物語が終わりを迎えたら、その後は自分たちで物語を紡ぐしかないのかもしれませんし、あるいはすべてが無に帰して終わるのかもしれません。わからないんです。もっと自由にしてもいいのでは、とすら最近は思っているんです」  晴樹のとつとつとした演説に、冬明に吸われた箇所がうずく心地がする。  彼の眼は覚悟を決めた者のごとく座っていた。諦めて現実を受け入れるしかない、とでも言いたげでさえあった。 「自由に、ですか」 「はい。言ってみれば、准教授は冬明さんから口づけをされるほどに愛されている。それを受け入れる自由があるんです」  冬明に愛されている。  はじめて他人から指摘されて、胸が痛んだ。 「どうして……私が冬明のことで懊悩しているのだと思うのですか」  単純な疑問だった。真弓は冬明への感情を話してはいない。 「だって、さっきから准教授の目が冬明さんの名前を呼ぶたび、とても幸せそうに光るんですよ。でも、同時に辛そうでもあるんです」  晴樹は研究室での討論さながらの弁舌を振るった。 「藤原の君と宮の源氏が男色の関係にあった。これって、准教授の願いだったんですよね。僭越ですが、准教授はずっと、藤原の君になりたかったんじゃないですか」 「──それは」 「勝手な俺の想像でしたけどね。その反応を見るに、当たっていましたか。そもそも、准教授が研究室で宮の源氏を話題にする時は、きまって楽しげでしたし」  助手の観察眼に真弓は呆けるしかない。 「さすが、私の助手なだけありますね。立派な観察眼を持つ研究者に育ってくれてありがたいです」 「褒めていただけて光栄です」  姫君の姿で頭を掻くしぐさをされると、どこか奇妙でおかしい。 「それより、忘れちゃいけない問題があります」 「わかっていますよ。散逸していることですね」 『冬草草紙』は、藤原の君と姫君が結ばれそうなところを残して、以降を散逸させている。  つまり、今後物語がどう動くかわからないのだ。 「俺……姫君が死ぬ可能性もあります。主人公の藤原の君さえ死ぬかもしれません」 「主人公の光源氏が死んで、その子孫が物語の手綱を担う宇治十帖のようなことがある、ということですね」  あえて口に出さなかったが、冬明が死ぬ展開もあり得るのだ。 「どうなるかわからない。だからこそ、自由にしてみましょう。案外、うまくいくかもしれませんから」  顔を突き合わせ、強く頷き合う。  晴樹は立ち上がって落ちたままの御簾を回収した。およそ姫君がする行為ではない。 「准教授、今夜はもうお帰りください。冬明さんが待っているでしょう。あ、あと……俺も冬明さんのことが気になるし、見てみたいので明日にでも屋敷に伺ってもいいですか」  見てみたい、という言葉に若干の違和感を抱きながら、真弓は首肯して部屋を後にした。

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