9 / 15
第9話
屋敷に帰ってきたところを、折悪しく冬明と鉢会った。
「早かったな。今日も相手されず帰って来たのか」
彼は意地悪く口角を上げ、真弓に歩み寄ってきた。
嫌な気はしなかった。
「はい」
明るく答えた真弓が意外だったのか、冬明は足を止めて柳眉を逆立てた。
「なんだ、その顔」
「なんでもありませんよ。もう姫君には会いに行きません。冬明と共にいる方が、ずっと良いと気づきましたから」
冬明は気味悪げに後ずさりした。自分の言うことを素直に聞いた真弓が信じられなかったのだろう。
「なんだ、当てつけか」
「違います。姫君に諭されたのです、自分を大切にしてくれる者がすでに近くにいる。それを受け入れなさい、と」
ゆっくりと冬明の眉が下がっていく。
「彼女の言うことは核心をついていました。その通りです。私には冬明がいる」
真弓は冬明に向かって足を進めた。
「あらためて、これからよろしくお願いします。冬明」
手を差し出して、真弓は首を傾けた。
「……ああ」
まだ納得がいっていそうになかったが、冬明は真弓の手をとってくれた。
強く握られた手は冷たく、今しがた布団から出てきたわけではないことが察せられた。
──私が帰ってくることを期待して、待っていた?
一つの結論にたどり着いた時、真弓は思わず吹き出してしまった。
「なにを笑っている。俺は……お前が帰ってくるのを待っていたのだぞ」
「やはりそうでしたか。どうりで手が冷たいわけです」
「違う! 振られたお前が帰りに賊などに襲われぬよう思案していただけだ」
「そういうことにしておきましょう」
晴樹は、冬明は真弓に口づけをするほど愛している、と言った。
それはひょっとすると、本当かもしれない。
自分の一方的なあこがれではなかったのだろうか。
「今夜も冷えます。もう寝ましょう」
母屋の御帳を視線で指す。御簾を持ち上げようとした折、背に声が投げかけられた。
「真弓、よく休めよ」
とげとげしさの抜けた、柔らかな声だった。
翌日のことである。
内裏から帰った真弓は束帯から狩衣に着替え、簀子で庭を眺めながら菓子をつまんでいた。
この時代の菓子は一部を除き揚げたものがほとんどで、油っこい。
食べすぎには注意だな、と油のついた指先をひとなめした際、簀子から袴をさばく音が近づいてきた。
目線をあげると、二藍の小袿を着た晴樹が片手を挙げて振っている。
先日に会った時と比べ、晴れ晴れとした表情だった。
「晴樹くん、来たのですね」
「准教授との約束ですからね。冬明さんの顔も拝んでみたかったので。あ、それはいわゆる唐菓子というやつじゃないですか」
晴樹は目ざとく菓子を見つけてしまったらしい。枝の形をした菓子を一つまみし、口に放り込んだ。
「やっぱり固いですね。うっかりしたら歯が欠けそうです」
口ぶりから察するに、姫君である晴樹は屋敷でうんざりするほど菓子を食べたのだろう。
「ところで、冬明さんはどこですか。話を聞く限り、准教授のそばから離れないイメージがあるんですけど」
「そのうち来るでしょう。でも、彼と鉢合わせると面倒なことになりそうですから、遠目から見るだけにしておいた方がいいですよ」
きょろきょろと四方を見回す晴樹をなだめ、座らせる。
この屋敷に女は下女しかいないので、知らない女が来ているとなると、冬明はきっと最近話題の姫君だろうと疑ってかかるに違いなかった。
「そうですね。じゃあ、冬明さんが来たら教えてください。隠れますので」
しばらく二人は周囲に気をつけつつ菓子を食べることにした。
口に上る話題は大学のことで、途中まで書けた論文や、行くはずだった学会についてを語りあった。
「晴樹くんは、どうして『冬草草紙』を研究しようと思ったのですか」
ふと、真弓は訊いた。
この質問は彼が院に入る際に答えてもらっていたが、それは試験に合格するための、いわば作られた答えだ。
試験のためではない、本当の理由を知りたかった。
「笑いませんか」
「笑いませんよ」
晴樹は困った様子だったが、真弓は笑って首肯した。
「じゃあ、遠慮なく。俺がまだ学部生だった時の俺はまだ古典なんて興味なくて、楽そうな近代文学に進もうと思っていました」
初耳だった。
今でこそ優秀な自分の助手であり、『冬草草紙』について互角に語り合える彼が、かつては近代文学に傾いていたとは。
「意外でしたか。俺のまわりの奴らは古典の文章が読めないからとか言って、近代文学に流れていったんです。でも、講師だった准教授の講義を聞いていた時のことです。難しい古典の文章を、流れるように読んでいる准教授が信じられないくらいかっこよくて……。こんな言い方したら怒られそうですけど、読めないからっていう理由だけで近代文学に流れた奴らが、すごいダサく思えたんです」
握りこぶしをつくり、熱く語る晴樹の横顔は姫君のものでありながら、精悍な青年の影をのぞかせていた。
「まあ、若気の至りの反発ってやつですか、俺は止める周囲を振り切って古典のゼミを選択しました。あとは簡単なことです。古典を選ぶきっかけをくださった准教授に師事して、今に至ります。要は准教授に出会ったから、准教授が研究している『冬草草紙』をやってみよう、と思ったんですよ」
語り終えた晴樹は水で口を湿らせ、長い息を吐いた。
知らなかった──自分の講義が、他人の進路を左右していたなど。
「驚きましたか?」
「まあ、それなりには」
唖然として固まる真弓が面白かったのか、晴樹は水の入った椀を置いてにこついた。
だが、その顔がにわかに凍り付いた。何事かと彼の視線の方を振り返ると、冬明が簀子から曲がってくるところだった。
冬明はつんと澄ました、いつもの表情である。
不覚だったと慌てた時には遅かった。
晴樹は長袴をさばくのにもたつき、中腰になったまま体勢がおぼつかない。
真弓は意味もなく立ち上がる以外、なにもできなかった。
「誰だ」
知らない女がいるのを見つけ、冬明が近づいてくる。
彼は二人の手前で足を止め、居丈高に問うた。
「あなたは、真弓から緒太をもらった姫君か。相違ないな」
「はい……そうです」
姫君らしく晴樹は扇で顔を隠した。
「何用で来た? 緒太でも返しに来たのか? それなら女房に持たせればいいだろう。いささか不審だ。何度も真弓の訪れを無下にしておいて、今度は自分から訪れるなど変な話だ」
冬明の口調は尋問に近かった。言い訳をする間も与えず、次々と道をふさいでいく。
「彼女は、冬明がどんな方か気になっていらっしゃったそうです。それだけですよ」
怖気づいている晴樹の代わりに答えたが、冬明の眉間にしわが寄るだけだった。
「俺が気になる、だと。あなたは男をえり好みしに来たのか」
「違います! 彼女は……」
否定こそしたものの、真弓は以降をどう説明すればいいかわからない。
実際、晴樹がここに来た理由は冬明への興味だ。言ってみれば、実験対象がどんな生態か観察しに来たのと同じである。
これを明瞭に伝えれば、冬明は逆上するだろう。
──一体どうすれば。
「ふ、冬明」
「真弓は俺のものだ!」
真弓が頭を悩ませていた時、叫びが鼓膜を震わせた。
晴樹も真弓も口を開けたまま動くことができない。
ただ一人、冬明が立ち尽くしたまま肩をいからせていた。
「男の訪問を適当にかわして帰して、別の男の様子を見に訪れるなんて、無神経にもほどがある。帰れ」
吐き捨て、いまいましげに踵を返す冬明を見送ることしかできない。
ややあって硬直の解けた真弓は、状況を飲みこむために凝り固まった眉間を揉んだ。
「ずいぶんと気性の荒い方なんですね、准教授が愛している冬明さんは」
気の抜けた声で晴樹がつぶやいた。
「普段はもう少し穏やかなのですが、今日は虫の居所が悪かったみたいですね」
「いや、姫君で准教授のことを何度も振った俺がここに来たら不機嫌になるのも当然でしょう。それに冬明さんは准教授のことが好きなわけですし」
へへ、と笑いながら晴樹は長い袿を引きずって振り返った。
「冬明さんの言う通り、俺は帰ります。でも、准教授と完全に離れるのは心もとないので、時々近情を手紙に書いて送ってください。放ち書きでいいので」
「そうですね、私も晴樹くんと再会できてよかったと思っています」
「あと、もう物語の散逸箇所に入っていることを忘れないでくださいね。これから、なにが起きるか誰もわかりませんが……気負わず行きましょう。准教授に言うにはおこがましいことかもしれませんが」
誰も知らない、『冬草草紙』の失われた箇所。そこに一体なにが書かれていたのか、知るよしもない。
「はい。晴樹くん、お元気で」
「准教授も」
次、生きた身体で会えるとは限らない。
真弓は晴樹を牛車まで送り、冬明のもとへ向かった。
──真弓は俺のものだ!
あの叫びの真意はなんなのか。言葉通りに受け取れば──まるで、冬明が自分を恋人だと主張しているようではないか。
思い至って、胸が早鐘を打ち始める。
冬明が寝起きする東対屋の御簾をくぐると、彼は板の間に大の字になって寝ていた。
よく見ると、目は閉じていなかった。
「冬明、不快な思いをさせてしまってごめんなさい」
彼の視界に入っているかわからないが、真弓は正座して頭を下げた。
「真弓なんか知らん」
相当、へそを曲げているようだ。
「あの姫君は、もうここには来ませんよ。冬明にあんなことを言われたら、来ようとも思わないでしょう」
顔を上げて責めるでもなく朗らかに、できるだけ明るく伝える。
「あんなことってなんだ」
天井を見つめたまま冬明がとぼけた。
「私があなたのものだという宣言ですよ。これは、どういうつもりで言ったのですか」
冬明はごろりと転がり、うつ伏せになって顔だけを上げる。真弓は正座をしたまま、彼の返事を待った。
御簾が風に揺れて乾いた音をたてる。遠くで鳥のさえずりが聞こえた。
変な間を破って、冬明が跳ね起きた。
「お前があまりにも唐変木だから、いい加減に言うことにする。言ってやる。俺はお前を好いている」
告白するにしては、ぞんざい口調だった。
だが、それがかえって気持ちよかった。
「私を、ですか」
「他に誰がいると言うんだ。そうだ、俺はお前が好きだ。俺の奇癖の琴線に触れた、かわいそうに選ばれてしまった奴だ」
冬明の奇癖。それは、男に欲情するということ。
「冬明は、私に劣情を抱く愛を持っているというのですね」
噛みしめるように一つ、確かめる。
彼はなぜか、鋭い双眸でこちらをねめつけていた。
「そうだ。悪いか」
「悪くありませんよ、ちっとも」
真弓は強く否定してかぶりを振る。
私もずっと好きだった、と答えようとして、やめた。
激しい動悸を右手で抑え、言葉をひねり出そうとする。
物語の流れとして仕方なく姫君を訪れていたとはいえ、冬明には真弓が彼女を好きだったと見えているだろう。
それがあって冬明の好意をすぐに承諾するのは、あまりにも不誠実な気がした。
ゆえに、許しを得るように訊いた。 少々逡巡してから、口を開く。
「冬明のその気持ちを、私は受け入れてもいいですか」
冬明の視線に負けじと見つめ返すと、彼は不敵に鼻を鳴らした。
「いい返事だな。もうあの女なんか見るんじゃない。見たら許さん」
「私は間違っていました。姫君と話せたことに浮かれていたのでしょう。文を送り、足を運んで……お恥ずかしい限りです」
「ああ、そうだ。お前はとんだ愚か者だ。俺の好意にも気づかず身をひるがえし続けた大馬鹿者だ」
破顔し、愉快そうに冬明が身を逸らしている。
傲慢で権高な口ぶりだったが、真弓にとっては嫌な気は微塵もしなかった。
「俺を寺から連れ出したうえ、名を付け、祭りに誘い、同じ屋敷に暮らして。お前は、さんざん俺を振り回した。だが、お前は俺が知らなかったことばかり教えてくれた……名前を付けてもらった真弓に、俺は思慕を抱いてしまった」
冬明の笑いがやみ、真剣な面持ちになる。
「気づいたら、思慕が愛情になっていた。俺の奇癖が頭をもたげて、お前に劣情を持った。飼い犬に手を噛まれたみたいなものだろ」
「私はそんなこと思いませんよ。第一、冬明は犬ではありません。親王さまらしい物言いをされる時もあれば、そうやって自分を卑下する。それが、私は悲しい」
「真弓が悲しくなるなら、なるべく俺も自分を卑下しないよう努めよう。できるかはわからんが」
自分を矮小なものと表現するのは、まだ彼の心の傷が癒えていない証拠だ。
真弓は見えもしない冬明の心臓に手を置き、上下する胸の鼓動をたなごころで感じ取った。
「口を吸ってもいいか」
冬明の両手が、真弓のそれぞれの肩に置かれる。おかしくなって、抑えようとしても笑ってしまった。
「いつもは問答無用でするじゃありませんか」
「今日くらいは訊いてやろうと思っただけだが、無駄なようだな」
一拍あって、唇が押し付けられる。
寺の厨でしたものとは違う、妙な甘さがあった。酒を口に含んだのと似た熱さが舌先にじんわりと広がる。
苦しくなり、空気を吸おうとして少し開きかけた口に、冬明の舌が滑り込んできた。
彼の舌は長く薄く、蛇のそれと似ていた。
「う、あ」
冬明の名を呼ぼうとしても、喉が小さく鳴るだけだった。
唇を離されて、思わず咳き込む。
「下手だな、真弓」
「これから慣れるんですよ」
「言ったな」
再び口がふさがれ、真弓は目を閉じた。
ともだちにシェアしよう!

