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第10話

 すっかり空気も温かくなり、桜のつぼみも膨らんだ。緑と枯草色一色だった屋敷の庭も、次第に色づき始めている。  桜が咲くと行われるのはやはり花見で、宮中でも臣下たちと連れ立って大規模な観桜会を行うことになった。  帝は行幸でもないので外に出ることはできないが、代わりに中宮や妃が参加するらしい。  そして──東国の武家政権の実質棟梁である執権(しっけん)と、傀儡(かいらい)である将軍も上洛するはこびとなっている。  雅さを知らぬ東夷(あずまえびす)どもに桜のなにがわかるのか、と宮中ではもっぱら話のタネだ。 「桜で歌でも詠ませて笑ってやろう」  そういう声すらも聞こえていた。  普段は侍従として帝に仕えている真弓たちも、今回ばかりは一日休暇をもらい、観桜会に向かう予定である。  桜をのんびり見ること自体冬明には初めてのことらしく、彼は休暇を言い渡されてからそわそわしている。  真弓も、昔の桜が現代とはどう違うのか楽しみであった。  そして当日──真弓たち御所一行は洛外にある桜のよく咲いている場所へ向かった。  大きな川のほとりには屋根付きの台座が組まれ、上からは簡易の御簾が垂らされている。女房たちへの配慮であろう。  真弓たち臣下の台座はそれより下座、川の近くである。 川の近くといっても河原ではなく、張り出した岩が低めの崖になっている場所であった。ちょうど、顔を下に向けると川を覗くことができ、上を向けば桜を間近に見ることができた。 「桜をこんなに近くで見られるとは思わなかった」  円座に腰を降ろした冬明が、物珍しそうに頭上を眺めている。 「寺には桜は植わっていなかったのですか」 「どこかには植えてあったろうが、俺は厨からほとんど出なかったからな。俺が見られる植物なんて、厨周りに生い茂っている枯草くらいだ」  確かに、厨近くの井戸周りには名前もわからぬ枯草が生い茂っていた。 「今日は思い切り楽しみましょう。桜以外にも、地面をご覧ください。たくさんの若草や花が咲いていますよ」  桜の根元には、青々とした草が芽を出している。その隣で咲いている白い花は、現代でもよく見るナズナだ。 「こんな小さい花に名前があるのか」 「ありますとも。これはナズナと言って、春の七草の一つですよ。正月には他の草花と共に粥にして食べるんです」 「粥か……寺で、よく作ったな」  顎に手を当て、冬明が唸った。  そこに、女房が折敷を持って現れた。 「失礼しますよ。お料理をご用意しました」  御所で作った料理が座に運ばれ、次々と並べられていく。干した魚や唐菓子、木菓子などのつまめる肴が山のように盛り付けられていた。  いつもは屋敷で食べる食事も、外の空気に触れながら食べるとおいしい。  酒も出されたが、いつかのように酔いつぶれてしまってはいけないので丁重に断った。  にわかに、周囲がざわめき始めた。 「あの人混みはなんだ」  冬明が少し離れた場を指さした。なるほど、立烏帽子を被っているにも関わらず太刀を佩いた直垂の男が、侍たちに護衛されながらこちらへ近づいてくる。  真弓にはぴんときた。 「将軍さまでしょう。貴族のなりをしているのに太刀を佩いているとなれば、武家の棟梁である将軍さましかいません」 「あれが東国をおさめている奴なのか。思ったより若いのだな。俺たちより少し年上といったところか」  将軍一行は臣下たちの席を割って、桜に最も近い席に座った。もともと用意されていた席なのかはわからないが、あまりに横柄な態度に臣下たちは泡を食っている。  だが、相手が太刀を佩いているせいか、誰も苦言を呈する者はいなかった。  宴に現れた異形のもの。  あるいは、異物。 「それではみなさん、そろそろ歌会といたしましょう」  緊迫した雰囲気を割って、ふいに一人の貴族が立ち上がった。 「ここはせっかくですし、最初の歌は将軍さまに詠んでもらいましょうか」  一人の貴族の提案に、臣下たちが顔を見合わせる。真弓も思わず、冬明の方を振り返った。 「いい案だと存じます。ぜひ詠んでいただきましょう」  別の貴族が賛成したのを皮切りに、将軍に歌を求める声が広がった。  真弓が遠目に見ると、護衛の侍が将軍に耳打ちをしている。  ややあって、若き将軍は紙と筆をとった。詠む覚悟がついたらしい。 「どう詠むつもりなんだ」  冬明が苦い顔をしている。武家が歌を詠むのが嫌というよりは、単なる心配に思われた。  沈黙が流れる。ある者は興味深げに、ある者はしたり顔で、将軍の動向を見守っている。  しばらくの間があって、彼は口を開いた。 「ひ、ひ、ひさかたの」  ──紀友則の歌をひいてくるつもりか。  耳を傾けて続きの言葉を待ったが、一向に将軍の声は聞こえてこない。  詰まったのだろうかと邪推していた折、短く、されど鋭く風を切る音が響いた。  なんだろうと思った次の瞬間、将軍は後ろにもんどりうって倒れていた。 「将軍さま」  護衛の侍が将軍にむらがる。将軍の胸に、赤い染みが広がっていくのが小さく見えた。 「矢だ!」 「誰かが向かいから射たらしい」  口々に貴族たちが騒ぎ立てる。  真弓はいてもたってもいられなくなり、円座を離れて現場に近づいた。  侍をかき分けて覗き込むと、将軍はすでに虫の息だった。目はうつろで、鼻と口からは血を垂らしている。  侍が叫んだ。 「早く医師や加持祈祷の僧か陰陽師を連れて参れ!」  しかし、誰一人としてその場を動こうとはしなかった。  さもありなん、朝廷と分裂した武家政権に力を貸そうと思う貴族がいるはずもない。突如起こった変事に、白々しい能面のような顔を向けるだけである。  侍たちは将軍を抱えて声をかけ続けている。  真弓はしびれを切らして飛び出した。 「私が、連れて参ります!」  都からそう離れていないのだから、近くに寺くらいあるだろう。僧は医術の心得があるものも多かったから、僧医の一人くらいいるはずだ。 「俺も行こう」  背後から冬明の声がかかった。 「この近くに俺がいた寺がある。力添えを頼むのは不本意だが、真弓が連れてくるというなら俺も行く」 「……ありがとうございます」  息を切らして山道を走る。なるほど冬明の寺は近くにあった。 「今は本堂にいる時間だろう。だが、あいつらの都合など知ったものか」  意地悪く笑い、冬明は本堂の扉を勢いよく開け放った。 「おい、僧ども。将軍が危篤だ。治療なり加持祈祷なり手伝え」  本堂は闖入者に一時騒然となったが、声の主が冬明だと見抜いたらしく、彼をあっという間に囲んだ。 「お前、そんな貴族のなりをして! 本当に元服してしまったのか」 一人の若僧が嘆いた。 「たわけ。時間があれば、お前らのことを蹴り飛ばしてやりたいくらいだが、俺のことはいいからついてこい。話は後だ」  冬明は若僧の頭をこぶしで軽く叩き、彼の胸倉を掴んだ。 「し、承知しました」  情けない声をあげ、僧たちは身支度を始める。  四半刻かかって一同は宴会の場に戻ったが、その頃には現場での騒ぎはすっかり収まっていた。 「どうだ」  真弓と冬明は侍をかき分けて将軍の容態を確かめたが、本人の顔は青ざめており、息をしていないとはた目にもわかった。  侍たちは止血を試みたらしく、彼らの直垂はちぎられ将軍の胸元に巻かれている。その生地も元の染色がわからないほど赤くなっていた。 「遅いんだよ!」  侍の怒号があって身体が宙に浮く心地がしたかと思えば、真弓は地面にたたきつけられていた。  腹に鈍い痛みがあって、自分が侍に殴られたのだと気が付く。 冬明も同じ目にあったのか、隣で尻もちをついている。彼は顔をやられたようで、口の端に血が滲んでいた。 「僧を呼ぶといって飛び出していったくせに、結局間に合わなかったじゃねぇか。こうなりゃ動かねえ貴族どもより質が悪い。変に希望を持たせやがって」 「言いがかりはやめろ」  先に冬明が立ち上がり、侍に一喝する。彼の声はよく通り、桜の枝までもを揺らした。 「俺たちは顔も知らなかった将軍のために走ったんだ。感謝を先にするのが筋だろう」 「そうだ、言ってしまえ冬明殿」  貴族の誰かがはやし立てる。しかし、それに対しても冬明は冷たい視線を浴びせた。 「はやし立てることしかできないのか。見ているだけだったお前らは止血しようとした侍以下だ」  冬明は血をぬぐい、その手を真弓に差し出してきた。 「真弓、情けなくへたり込んでいるんじゃない。さっさと立て」 「……はい」  いちおう腰は上げたものの、足は震えている。  人が射られる瞬間など見たことがなかったし、救急車を呼ぶがごとく人を呼びに走ったことさえなかった。  初めての出来事づくしに、真弓の身体は怖気づいていた。 「お前の足がもっと早ければなあ! 都で蹴鞠ばかりしている足は使い物にならんな。いっそ切ってしまえ」  一人の侍が高笑いしながら真弓の肩を突き飛ばした。 また倒れまいと足を踏ん張ったが、現代では机に張り付く職掌についていたゆえによろめいてしまう。  慌てて寄りかかるように侍の胸板を押し返すと、かえって強く顔を殴られた。  骨がひしゃげる心地がし、後方に吹き飛ぶ。  ──なるほど、昔の日本人はこんなにも力が強かったのか。  不思議と冷静な脳裏で考え実感しつつ、背中から倒れこむ。 「真弓、横に動け!」  痛みをこらえながら立ち上がろうとした折、冬明の緊迫した叫びが聞こえた。 「──え」  間の抜けた声で疑問を漏らした時である。  真弓は再び腹を蹴られて転がり、文字通り身体が宙に投げ出された。  台座の近くは崖である。下は川だ。  悲鳴を上げる間もなく、真弓は頭から川にぶち込まれた。  口から泡を吐き、必死に両手足を動かしてもがく。あいにく水泳は不得手だった。  もがけばもがくほど、身体は水に沈んでいく。流れも早く、前から押し流されていく感覚が嫌でもわかった。  苦しさが頂点に達して、最後に白い飛沫が迫りくるのが見え──真弓は意識を手放した。

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