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第15話
その日、月影はなかった。
寝殿では早くも寝る支度が済んでおり、あとは着替えるだけの真弓と冬明が茫然とそれぞれの時間を過ごしていた。
「お前の乳兄弟が都から武官を派遣させたらしいな」
冬明は燈台の傍らで気だるそうに絵巻を眺めている。真弓は少し離れた円座に座り、巻き上げられた御簾から星を見ていた。
「はい。主上にも東国の状況をお伝えしたそうです。時文ももうじき東国に到着するでしょう」
「また兄上に貸しをつくってしまったな」
不満げに頬に添えた指を肌に打ち付ける彼に、真弓は首を横に振った。
「貸しではないと思いますよ。主上は冬明を東国にやってしまったことを悔やんでいましたし、血の繋がった弟に対して力を貸せることを喜んでいるに違いありません」
「そうだといいんだが」
ため息をこぼし、冬明は絵巻をしまった。
そろそろ女房たちが着替えを手伝いにくる時分である。
その時だった。
真弓は御簾の向こうの景色に、星とは違う光を見つけた。
星よりはるかに強い光を放ちながら、空の低いところをなにかが飛んでいる。流星ではない。
光は橙色で、漆黒の空によく映えた。
同時に喧騒が聞こえた。遠くから、男女まぜこぜの人々の叫びが轟いてくる。それはどんどん近づいているようだった。
「冬明」
円座から立ち上がり、冬明を振り返る。彼も異変に気付いていた。
「きたか」
にわかに、簀子から女房が走ってきた──晴樹であった。
「たった今、執権の屋敷に大江殿からの襲撃があったようです」
息を切らす晴樹に駆け寄り、落ち着かせながら真弓は訊いた。
「時文の軍はどうですか」
「少数ですがなんとか東国に到着しています。時文を含めて、切通の近くにある寺に控えているそうです」
「わかりました。冬明、いかがしますか」
「貞登の屋敷はこの御所に近い。今、空を飛び交っているのは火箭だろう。火の手がこっちに回ってくる可能性がある。ここを出た方がいい」
口を動かしながら、冬明は部屋の隅にあった唐櫃を開けていた。中から替えの直垂を取り出していた。
「動くにそれじゃ不便だろう。俺の直垂を着ろ。そっちの女房……」
冬明は女房があの時の晴樹であったとわかったようだが、咎めず彼女にも直垂を投げた。
「……私にも、貸してくださるのですか」
「四の五の言っている場合ではない。詰所にはまだ夜番の女房がいるのか? いるのなら、人数を教えろ。その分直垂を持っていけ。着替えたら寺に逃げろ」
「さ、三人です」
答えるなり三枚の直垂を押し付けられ、晴樹は逃げるように簀子を引き返していった。
「真弓も着替えろ。俺たちは俺たちで寺に行くんだ」
「はい」
冬明に直垂を投げられ、慌てて受け止める。
その折、どこからか「将軍さまをお助けしろ」という叫びがあった。
「まずいな、東国側の奴に捕まると厄介なことになる。目指すは都側の人間が集っている場所だ」
真弓は着たことのない直垂にてこずらされたが、どうにか帯を締められた。
「あと、これを佩け」
次に冬明が投げてきたのは黒々とした太刀だった。
「途中で危ない目に遭うかもしれない。持っておくにこしたことはない」
太刀は重く、受け止めた両手のひらにひんやりと冷たかった。
これも冬明の見様見真似で腰に佩く。
「行くぞ」
彼に引っ張るように手を握られ、前のめりになる。急いで足を動かし、冬明と二人で御所を飛び出した。
外には物が焦げる香がただよっていた。すでに火が燃え広がっているらしい。
「絶対に、手を離すなよ」
「死んでも離しません」
「言ったな」
走っている間、貞登の屋敷を横切らなければならない。御所の近くに建てられた彼の屋敷からは橙色の火が高く伸びていた。
女子どもは先に逃げたのか姿はない。代わりに、侍たちが槍や太刀を持って屋敷の中へ走っていく。
「執権はまだ、中にいる!」
一人の侍が叫び、思わず二人は足を止めた。貞登はまだ逃げていないようだ。
瞬間、侍がむらがる半壊した屋敷から怒号が響いた。
「愚かな将軍め! 弥益をつけあがらせおって! 都に送り返してくれるわ!」
ついに冷静さを失った貞登の声だった。
冬明が下を向いて肩を揺らしている。下から覗き込むと、笑いをかみ殺していた。
「ああ、俺は愚かな将軍だとも。だが、その将軍に俺を選んだのはお前だ、貞登。政権を繋ぐために急いで選択してしまったお前と俺、どっちが愚かだか」
これ以上用はない、とばかりに踵を返した冬明に手を引っ張られる。
その時、彼に駆け寄ってきた男がいた。大鎧を着た弥益だった。
「将軍さま! お一人でどこに行かれるのですか」
一人ではないが、と真弓は主張したかったが、黙っていた。
「お願いです、私どもに着いていただけませんか。将軍さまのお力が必要なのです」
弥益の目には舞う火の粉がつぶつぶと映っている。権力を手に入れたと確信した者の瞳だった。
「なにを勘違いしているのか知らんが、俺は愚かな将軍だ」
「めっそうもない、私を見出してくれた立派な将軍で──」
「阿呆」
冬明が鎧の上から弥益の胸を小突いた。
「俺は将軍以前に、ただの男だ」
愉快そうに笑い、彼は烏帽子を脱いだ。
真弓はさほど動じなかったが、弥益を含めるその場に集まる侍たちが唖然とする。
この時代に烏帽子を人前で脱ぐのは服を脱ぐも同然の行為だ。
冬明は器用に髻をほどき、長い髪をおろす。彼の髪は夜風にたなびき、燃える炎を鏡のごとく反射させた。
「真弓」
ふと、冬明は真弓を振り返って耳打ちした。
「俺の髪を、その太刀で切ってくれ」
「え」
髪を短くすることは、すなわち出家をあらわす。俗世を離れることを意味するのだ。
真弓は冬明の考えていることが一切わからなかった。
「いいから」
彼は自ら真弓が佩いた太刀をすらりと引き抜き、押し付けてくる。
「切れ」
真弓は太刀をこわごわ握り、冬明の長い髪の末を握った。
「なにを」
冬明の首を刎ねると思ったのだろう、弥益が声をあげたが、黙殺する。
刃を垂らした髪の真ん中に当て、じわじわと柄に力を込める。
一息には切れなかった。細いものが千切れていく手ごたえがあり、やがて一房の髪が手に残った。
「くれ」
髪の束は冬明によって奪われ、その場にまき散らされた。音もなく髪は地面に落ち、彼の足で踏みつぶされる。
「なんて、ことだ」
弥益がくずおれ、散らかった髪を拾い集める。
「そんなことしてなんの意味があるんだ。諦めろ。たった今、俺は髪をおろした。出家したんだ。出家者が将軍のままでいられるはずがない。俺は将軍を辞めたんだ」
肩まででざんばらになった髪が風に揺れている。ふん、と鼻で笑い、冬明は弥益を見下ろす。
「それに、もうこの政権も終わりだろう」
「なぜ──」
弥益が純粋な目で問うた次の瞬間、夜の闇から武官たちが現れた。寺に待機していた、時文が連れてきた都の武官たちである。
「都のものども、東国の武者どもを片付けてくれ」
「うけたまわった」
返事をしたのは時文だった。
「武の権力を都に戻させていただこう」
彼らはいっせいに侍たちに飛びかかり、へたり込んでいた弥益も間もなく拘束する。
「冬明さん、真弓はこっちです」
闇の向こうに、松明を持った直垂姿の晴樹がいた。必死に背を伸ばし、空いた方の手を振っている。
「行きましょう」
張り裂けそうな心臓を抑え、真弓は冬明に手を差し出す。
彼は殊勝な笑みを浮かべ、手をとってくれた。
二人は晴樹の案内を受けて、都の武官たちが待機していた寺に入った。寺は無人の廃寺のようで、住持らしき人はいない。
「とりあえず、一晩ここで待ちましょう。今、避難させた女房たちを連れてきますので」
晴樹がいったん引き下がっていくのを見送り、真弓はその場に腰を降ろした。
「心の臓が止まるかと思いました」
「真弓は気が小さいな」
「なんと言ってくれてもいいです。冬明がずぶとすぎるんですよ……それより、髪はどうするんですか。出家されるんですか」
訊くと、冬明は天井を見上げて高笑いした。
「んなわけないだろう、出家なんかするものか」
「でも、髪が」
「髪を切った『だけ』だ。俺があの場で髪を切って、出家する意思を見せれば弥益のくだらない執着はなくなると思ったんだ。髪なんかこれからいくらでも伸びる。ただ、しばらくは僧の恰好をしないといけないかもな」
髪が短いと烏帽子や冠が被れず、束帯に合わせることができないのだ。
「僧の恰好をした冬明を、見てみたいです」
冬明の手が伸びて、真弓の頬に添えられる。
軽い口吸いをされ、身体のこわばりが解ける気がした。
「俺たちの、屋敷に帰ろう」
今すぐにでも、あの小さな屋敷に帰りたい。
真弓は冬明の背に手を回し、強く抱きしめた。
一晩で弥益の軍は鎮圧され、燃え尽きた執権の屋敷から貞登の骨が見つかった、と都の軍を率いた時文は語る。
火があおられて燃え広がったせいで、御所までもが半壊していた。
真弓たちは跡形のなくなった東国の政権を後にして、都の軍を含めた一行と共に帰京した。
久しぶりに吸う都の空気は春もたけなわの暖かさで、ほんのり新緑の香もあった。
一行は都の朱雀大路を抜け、帝の待つ内裏へ向かった。
真弓と冬明は清涼殿の昼の御座の前に座し、帰京したことを告げた。
「真弓、冬明……無事に帰ってきたのだな」
いつも半分下がっている御簾が跳ねのけられ、帝が御前に飛び出してくる。
二人で唖然としていると、彼はそのまま冬明を抱きしめた。
「私の大切な弟……東国に送ってからというもの、私は生きた心地がしなかった。帰ってきてくれてよかった、よかった……」
帝の目からは大粒の涙がこぼれ、白い御引直衣を湿らせていく。冬明に兄からの抱擁を拒む様子はなく、ただ黙って享受していた。
「兄上」
「冬明、私を恨んでいるか」
「いや、もう恨みはない。忘れてしまった」
兄弟の再会を見つめていた真弓に、ふと帝からの視線が注がれた。
「きっと、冬明の恨みやつらみを忘れさせたのは、真弓の存在のおかげなのだろうな。ありがとう」
帝直々に礼を言われ、真弓は慌てて頭を下げる。
「わ、私こそ……」
「謙遜せずともいい。二人とも、東国から都への長旅で疲れているだろう。今日は屋敷に帰ってよく休むといい」
帝はいつも通り御簾をくぐり、元の定位置に腰を降ろした。
清涼殿には日常が戻っていた。
真弓と冬明が帰りの牛車を止めてある簀子に足を運ぶと、晴樹と時文の姿があった。二人ともなにやら両手に箱を抱えている。
「真弓、冬明、主上との対面は終わったのか。ご苦労さまだったな」
「今しがた終わったところです。ところで時文、その箱はなんですか」
時文が快活な笑顔で箱を開けると、中には綺麗な布が入っていた。晴樹も同じものをもらったようである。
「今回、東国の政権を潰すのに一役買ったということで、俺たちも主上から礼をもらったんだ。向こう十年は遊んで暮らせそうな禄だぜ」
「こりゃずいぶんもらったものだ。なら、俺たちはさらなる禄をもらえるのかもしれないな」
冬明があごをなでながら微笑を浮かべた。
「では、俺と真弓は先に帰ろう。行くぞ」
手をひかれ、簀子を曲がる。牛飼童がすぐそこで待っている。
なんの気なしに、真弓はふと足を止めた。
「ん、どうした」
冬明が振り返り、首をかしげる。
──もう、自分が生きていた現実など忘れてしまおう。冬明がいるこの世界が、私にとっての現実だ。
繋いだ冬明の手は温かく、紙に墨で書き残された架空の人物とは思えない。
確かに、この世に生きているのだ。
──私は、小野真弓ではない。藤原真弓だ。
「いえ、なんでもないです」
真弓は優しく首を横に振り、足を踏み出した。
了
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