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第1話 深野卓也
①深野卓也
会社を出ると息が白くなった。
またこの季節がやってきたかと卓也は思う。
11月、山に囲まれたこの街はもうすっかり冬だ。
高校卒業後も県外へ出ずそのままずっと地元で働き続けてきた卓也は
この街で感じる冬へと変わる匂いが幼い頃から好きになれなかった。
まるでこのままずっと取り残され、置いてかれ、世界に1人だけになってしまうような気持ちになってしまうのだ。
小学生の頃、リトルリーグの練習終わりに友達と1人また1人と分かれ道で手を振って別れるのが寂しくて、この季節はグラウンドから一直線に家まで走って帰っていたことを思い出す。
高卒で働き出し社会に出て7年、流石に今ではそんな寂しさや孤独なんて事柄にいたずらに落ち込むことは減ったがそれでもこの季節は、やはり苦手だった。
特に今日は作業着ではなく着慣れないスーツでの車移動だから
余計に寒さも冬の気配も直に感じてしまう。
車のドアを開けつつ卓也は呟いた。
「あー、行きたくねえなあ。」
気分も滅入ってる時に限って損な役回りはやってくる。
後輩の発注ミスが原因によるクライアントへの謝罪訪問である。
「あの人、苦手なんだよなー」
白く吐き出されたため息とともに浮かんでくるのは先方の担当者 池上の顔である。
7年前、新人だった卓也が初めて担当したクライアントであり、
それから定期的にお世話になっているお得意様なのだが、とにかく相性が悪い。
「それ必要ですか」
これが池上の常套句であり、今や卓也の中で池上を象徴する一言ですらある。
必要かどうか、そして不必要となれば容赦なく人も時間も手間も切り捨てる人間。
入社間もない頃は効率さと利益だけを追い求める池上に卓也は幾度も技術者として反論しかけてしまっていた。
ただ、その冷酷なまでの判断力によって池上の営業成績は群を抜き、30歳を前に異例の出世を遂げ今では部長補佐を務めるまでになっている。
実際は定年を目前にした現部長との引き継ぎ期間だという噂は恐らく現実になるだろう。
卓也の技術者としてのちっぽけな矜持などでは到底敵わない相手との差は開くばかりだ。
「行きたくねえなあ」
また呟いた時には大きなビルに掲げた大層な看板が見えてきた。
株式会社アプルスソリューション。
この地域のほぼ全業種を網羅する一大グループ"アプルス"の基幹会社である。
もちろん自社ビルだ。
受付を済まし、広すぎるロビーで待っているとお馴染みの声で呼ばれた。
広瀬である。あの池上の部署で、直属の部下として健気に働く好青年だ。
池上との交渉の度に間に入ってくれる卓也にとって内心心強いパートナーでもある。
「深野さん、わざわざお越しいただいてすいません」
「いえ、とんでもないです。弊社のミスですので当然のことです。むしろ広瀬様にもご迷惑お掛けしてしまって申し訳ありませんでした」
「そんな…迷惑だなんて…今回のことも池上部長の急な指示変更が原因なんですから…いつも無理言ってこちらこそホントすいません」
広瀬はまだ学生らしさが残る表情で険しい顔をして見せた。
「いえ、過去の発注履歴からしても予想出来る範囲での変更でしたので完全にこちらの準備不足です。池上様には直接会えそうもありませんか」
「それが…少し今は手が離せそうもないとのことで…」
こちらが萎縮するくらい広瀬は申し訳なさそうだ。
恐らく池上は受付から連絡が届き、瞬時に会う必要はないと判断し広瀬を寄越したのだろう。
予想していたことだ。池上は謝罪を聞くことなどに時間を割く人間ではない。
「そうですか…でしたらこれをお渡しいただくことは可能でしょうか」
卓也は書類を広瀬に差し出した。
「なんですか?」
「今回、発注を頂いた部品で池上様のご希望に最大限添えるように練り直した提案書です」
広瀬は驚いた顔でその場で書類を読み始めた。
「これ…凄いですね…でも可能なんですか?詳しく分かりませんが作業工程は倍くらいになっちゃうんじゃないですか?」
「作業工程自体は多少、増えますが納期には問題なく間に合います」
嘘だ。本当は倍どころか3倍でも足りるかどうかの瀬戸際である。
それでも今の卓也が働く工場にとってアプルスとの契約続行は死守しなければならない生命線なのだ。
「そうですか…でしたら必ず部長に渡します。見て頂きますね」
「ありがとうございます。私はここで待たせて頂きます」
「え!ここでですか?」
「はい、無礼は承知ですが万が一にでもお会いしていただけるようでしたらすぐに伺いたいので…もちろん広瀬様はお気になさらないで下さい。無理なことは重々承知の上ですし、私個人が勝手にしていることですので…」
そう伝えると何故か広瀬の表情はみるみる明るくなり、卓也よりも勢いづいてきた。
「分かりました!僕も出来る限り池上部長の了解がもらえるよう説得してみます!」
それなりに緊張していた卓也は広瀬のそのコロコロ変わる表情に気持ちが少し軽くなってきた。さっきから膨れてみたり、驚いてみたり、シュンとしたり、かと思ったらこの満面の笑みで、まるで旧知の友人といるみたいだ。
「本当にいつもありがとうございます」
年下だとは思うが、本当にいつも広瀬には助けてもらっている。
素直な感謝の気持ちだった。
「え、そんな…やめてください。まだ何もしてないですよ!」
「いや、いつも広瀬様には行き届かない部分で甘えてしまって…本当にありがとうございます」
深々と頭を下げると、いつもはすぐに何らかのリアクションをくれる広瀬がしばらく無言なのでおかしく思い顔を少し上げた。
「あの…じゃあ、もしこの提案書、池上部長から了承もらったら今夜、一杯奢って下さいよ」
広瀬はこちらも見ず受付カウンターの方を見ながら言ってきた。
ん?
その少しだけいつもと違う口調に若干、卓也は戸惑ったが、
「もちろんです!一杯どころか朝までだってとことん飲み明かせますよ!何杯だって奢らせてください」
と返した。
すると、それには何も答えず広瀬はスタスタとエレベーターに向かって行ってしまった。
その後ろ姿は今まで広瀬に抱いていた、どことなく後輩のような、弟のような幼さを感じさせない堂々としたものだった。
今まで広瀬を歳下だとすっかり思い込んでいたが同い年かむしろ歳上の可能性だってあるんだよなと考えたら急に、仕事とは全く関係ない気持ちで申し訳ないと思い、一瞬だけ提案書のことを忘れた。
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