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第2話 広瀬伸一
②広瀬伸一
日野モーターの深野卓也のことを意識し始めたのはもう2年も前だ。
東京の大学を卒業し、特に何もやりたいことのなかった伸一が親のコネで今の勤め先であるアプルスに入社し地元に帰ってくることは家族や友人も当の本人すらなんの疑問も持たなかった。
強いて言うなら田舎じゃ男と"男として"出会う機会は減るだろうと思ってはいたが、高校の時からネットの出会い系を駆使していた伸一にとって、それは大手企業の就職を蹴ってまで得たいシロモノではなかった。
しかし帰ってきて待っていたのは思っていた以上に単調な日々だった。
配属されたのはグループ会社を束ねる基幹部という、一見エリートとも思える部署だったが、伸一は要するに雑用係に過ぎず、所詮コネ入社だろとあからさまに馬鹿にされる毎日だった。
それでも学生ではないんだ、いくらコネ入社だろうと、自分から積極的に仕事を覚え少しでも役に立とうと奮闘していた伸一だったが、そんな思いもある人物の一言で粉々に砕け散った。
「君にこんなことは求めていない。自分の仕事に集中しなさい」
直属の上司である池上だった。
仕事終わりに家で作った企画資料を、隣の先輩に相談している時だった。
確かに誰からも頼まれていない資料作りだったが、こんなにもあっさり一目見てもらえることもなくゴミ箱に放り捨てられてしまうのか。
ゴミ箱の中に放られた資料を見ている間に池上は先輩を引き連れ去っていった。
その瞬間から伸一は池上の求める事だけをすると決めた。
いや、諦めたのだ。
そしてそんな働き方に慣れた頃、深野卓也と出会った。
出会った、と言っても最初は一方的にこちらだけが認識していたような出会いだったが。
当時、日野モーターとアプルスは複数の契約を交わし始めていて
その交渉会議の度に日野モーター幹部の面々と同席していたのが深野だった。
もちろんその時も伸一は壁に張り付きお茶配りしかしていなかったが。
なので同年代の男が、しかも請負会社の一介の技術者が
池上に反論しているのに驚き、その真摯な姿に最初は正直鼻白んだ。
「しかし、こちらのグレードを上げることでよりご満足頂ける仕上がりになります」
「池上様の仰るご要望ですとお客様への安全面で保証が出来かねます」
「納期を短縮することは可能です。ただその分、試作テストへの御社からの共同許可を頂きたいです」
など、お茶配りの伸一にも分かるほど深野は1人、池上相手に戦っていた。
もちろん相手が相手なのでほぼ全敗に返り討ちを受けているようだったが
それでも諦めない深野をいつしか伸一は尊敬し始めていた。
日野モーターとの会議が行われる日を心待ちにするようになり、
それまで腐りかけていた仕事への気持ちも内容は変化しなくとも前向きに取り組めるようになっていた。
ある冬の日、いつものように日野モーターとの交渉が終わったあとの会議室を片付けていたら深野が1人入って来て心臓が飛び出るほど驚いた。
「あ、すいません、ウチの遠藤来ましたか?」
「え、遠藤様ですか?いや、会議後はこちらへのお戻りはないですが…」
「そうですか…おっかしいな、どこ行っちゃったんだろう…」
そう言い会議室を出かけた深野がヒョコっとまた顔を向け
「いつも会議のご準備、ありがとうございます」
と笑顔でお礼を伝えてきた。
それはまるで高校球児みたいな爽やかさで。
覚えてくれていたことが嬉しくもあり、お茶配りと片付けだけの自分が恥ずかしくて泣きそうになった。
「…池上部長…怖くないんですか?」
自然と声が出ていた。
前から聞きたかった質問だったからか、単純にせっかく訪れた深野との会話チャンスを手放したくなかったからか分からない。
一瞬面を食らったような顔をした深野だったがさらに笑みを強くして言った。
「怖いですよ!めちゃくちゃビビってます。でも良いもの作りたいし…あ、遠藤さん!どこ行ってたんすか!探しましたよ、もう!下で車待ってるんで早くして下さいよ!…あ、えっと、じゃあ失礼します!」
そう言って風のように去って行ってしまった。
あの笑顔を見てしまったらもう止められなかった。
欲しくて欲しくて苦しくなる。
それは今までゲイとして生き、少なからず男と恋愛してきたと思っていた伸一にとって初めて経験する、恋だった。
なので今、この書類を、深野があの真摯さで作り上げたであろうこの書類を池上に渡し、どうにか深野への面会の了承をもらいたい。
さっきは奢ってくれなんて言葉で誘ってしまったけれど、一緒に飲みに行けるかもなどという甘い期待よりも、彼の役に立てるかもしれないという喜びで伸一は胸が一杯だった。
エレベーターが開くと、上等なスーツに細く長い身を包んだ男が立っていた。
男はフレームのないシャープな眼鏡の角度を下げ無言で伸一を見下ろしてきた。
池上である。
第3話へ。
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