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第七章 僕のこれから、君のこれから②

温風が湿気と共に肌を撫でていく。 むせるような熱気だが、空は鈍色をしており、これから天候が荒れるだろうということは天気予報を見なくても分かった。 いつもよりも七割増しでおしゃれをした母といつも通りの父を早朝から玄関で見送り、二人がエレベーターに乗り込んで見えなくなってからも幸弘は空を見上げていた。 せっかくの夏祭りは中止になるかもしれないな、なんて。 太陽の残念そうな表情が脳裏に浮かぶ。 軽くため息を吐いて、家の中に戻り、二度寝の前に冷蔵庫を開けて水分補給をする。 時刻は七時。 太陽が来るまでにはまだもう少しあるだろう。 食パンもあるし、ごはんもあるし、卵もある。 作れば何でもあるから、作らせようかな、そんなことを考えながら部屋に戻って枕元にあったスマホを確認すれば、大量のメッセージが届いていた。 送り主なんて確認せずともわかるため、早起きだなと呆れつつ、中身を開く。 「ユキ~」 「起きた?」 「おばさんたち何時に行くんだ?」 「もう行っていい?」 「なぁ~」 などといういつも通りの内容だ。 だが、いくらなんでも早すぎではないだろうか。 苦笑が漏れるが、幸弘がメッセージを見たことに気付いたであろう太陽から電話がかかってくる。 「……早すぎない?」 「おはよ! でも、おばさんたち行ったんだろ? うちもな、ユキんちが今年もデートだってって昨日言ったら、うちもする! って父ちゃんが言い出して、家にいたがる母ちゃん引きずって出かけるらしいんだ」 「おじさん、よく頑張ったな……」 「母ちゃんのこと大好きだからなぁ~。息子としては見てて恥ずかしいんだけど、家庭内が平和なのはいいことだ。でな、今母ちゃんがおにぎり作ってるから、できたらそれ持って行ってもいい? ついでに、二泊していい? あ、こっちくる?」 「何で二泊?」 「今年の父ちゃんの盆休みが長いから、せっかくならって弾丸二泊三日の旅に出た」 「お前、置いてかれたの?」 「誘われたけど、父ちゃんの二人で行きたいってオーラは丸わかりだし、おれはユキといたいし」 「……そっち行こうかな。いつ行けばいいの?」 「すぐ来ていいぞ。きっと、ユキが着くころには二人ともいないし」 分かった、と通話を切る。 二度寝したい気持ちを抑えて、リュックに二日分の下着類と太陽の作った夏休みのしおり、一応の甚平と財布、帽子、充電器をつっこみ、動きやすい服に着替える。 キッチンに戻って、今日のおやつになるはずだった菓子パンと冷蔵庫から昼食になりそうなものを持って家を出る。 幸弘の母は、どうせ自分がいなければ好きなものでも食べるでしょ、と何も作ることはなかったため、消費しなければならないものはない。 好きなものを食べたくはある。 けれど、それは幸弘の財布から出ていくのだ。 頼むから、もう少し育ち盛りの息子を気にかけてくれよ、と思ったことならある。 というか、口に出したことはあるのだが、あんたが自分で作ればいいのよ、と一蹴されてしまった。 普段は作ってくれるが、基本的に土曜の朝、昼、夜、日曜の朝、昼は母親業はお休みなのだそうだ。 家にあるものを好きに食え、とパンや食材は充実してある。 今回も満たされている冷蔵庫からは、一人暮らしの練習として、自炊しろ、という意思が感じられる。 太陽をこっちに呼んだ方がよかったかもしれない。 ひとまず、焼きそばとカット野菜だけ持ってきた。 太陽の家で作ろう。 朝だというのに、五分も歩かずに幸弘は茹っている。 こんなに曇っているのなら、気温が下がってもいいはずだ。 百歩譲って、風だけでも冷えていいはずだ。 心の中で気温に文句をつけていると、視界の先に見慣れた車が太陽のマンションの駐車場から出ていくのが見える。 太陽の両親も「デート」に出かけて行ったらしい。 太陽母も幸弘母もよく二人でお茶だのなんだのと、お互いの家を行き来して、女子会だのなんだのとやっているが、幸弘は一度として旦那の悪口を言っている二人を見たことがなかった。 もっぱら、二人で旦那について惚気ているか、息子たちのべったりぐあいを心配しているかだ。 それが珍しいことなのだとバイトをして初めて知った。 いや、幸弘のバイト先に来るおばさま方が旦那の悪口を言いまくっているだけなのかもしれないが。 そんなことを考えて歩いていると、マンションの入り口に見慣れたシルエットが見える。 幸弘が見ていることに気付いたそれは、ものすごい勢いで駆け寄ってくる。 もちろん、太陽だ。 「ちょうどよかったな! 今、二人とも行ったんだ。だから、下でユキのこと待ってた」 明らかに寝巻のTシャツと短パンで、髪は跳ねていて、幸弘は笑ってしまう。 「来る時間も正確に把握してるくせに、欠乏症で耐えられなかった?」 「……知ってるか? 徐々に足りなくなるんじゃないんだぞ。離れた瞬間から足りないんだ。ゼロか百ってこと」 開き直ったように、けれど、やっぱり恥ずかしそうに言った。 太陽の「ユキ欠乏症」はどうにかしたほうがいいに決まっているのに、足りない足りないと言う太陽に幸弘はどうしようもなく満たされてしまうのだ。 「ほら、早く帰ろう。暑くてやってられない……。お祭り、行けるかなぁ」 むず痒くなった空気を変えるように太陽が幸弘の手を引いて、マンションのオートロックを抜ける。 「あ、そうだ。今日な、したいことあるんだ。ごはんたべたら、ちょっと話そうな」 エレベーターを待ちながら、太陽がそんなことを言う。 幸弘は嫌な予感を抱えながら、黙ってエレベーターを待ち、おにぎりの具に意識を飛ばしておく。 幸弘の太陽に関する嫌な予感というのは、今のところ百発百中なのだから。 ◆◇ バケツをひっくり返したような、少し先が白いカーテンに覆われているような勢いで降る雨に二度寝しなくてよかったと朝食後の緑茶を飲みながら思う。 完全に崩れた天気は酷くなる予想は出来ても、回復は見込めない。 天気予報を見ても、雨雲レーダーを見ても、今日はずっと雨らしい。 「夏祭り……」 「昼飯は焼きそばだから、気分だけでも味わえる」 「……ならいっか」 いいんだ……。たまに太陽が分からない。 冷えたリビングでテレビもつけないまま、二人で並んで温かい緑茶を飲む。 おにぎりだけでは足りなかった二人は、戸棚から賞味期限が昨日で切れている饅頭を見つけた。 饅頭と言えば、お茶だろうということでお湯を沸かし、のんびりまったりと過ごしていた。 早くから起きているからだろう。これだけ充実していても、時刻はまだ九時になるところだった。 「せっかく、二人っきりなんだから最後の項目埋めようと思って」 太陽がなんでもないように饅頭の半分を食べながら言う。 けれど、一瞬でその最後の項目が何なのかを幸弘は思い出してせき込んだ。 「っん、ぐっ……っ、げほっ!」 「あーあー、何やってんだよ。饅頭だからって、ちゃんと噛んで食えよなぁ」 饅頭が気管に入ってしまって苦しむ幸弘の背を叩きながら、太陽が呆れたように言う。 「おまっ、……けほっ、お前が変なこと言うから!」 「そんなに変か? え、一瞬も考えなかった? 嘘だろ。本当に男子高校生? 親のいない泊まりなんて、そういうことでしかないじゃん。え、まじ?」 目尻に浮かんだ涙を拭い、未だに湯気を立てている緑茶を慎重に口に運び、喉の引っ掛かりを飲み干す。 「……お前、まだ俺のことそういう好きじゃないじゃん」 初めてキスをした日から、毎日ではないにしても、太陽の要望通りに回数を重ねてはいる。 いや、嘘だ。幸弘がしたいからしている。 「接触回数が多いほうが好意は抱きやすいんだぞ!」 「それとこれとは……いや、やっぱ、お前はバカ」 「悪口!」 いつも通りに「バカ」に反応する太陽は自分が何を言い出してるのか理解しているのだろうか。 「おれだって、ただの興味で言ってるわけじゃないし、童貞捨てたい、みたいなそういう気持ちじゃないからな! むしろ、そんな興味だけで、同性を抱こうと思うほど、ハードル低くない!」 「……いや、待て」 未だに引っかかりを覚える喉のために、お茶を流し込む。 だが、やはりうまく飲み込めなくて、喉から変な音が鳴った。 「……っ、お前、……俺のこと抱くつもりでいるの?」 「は……、え?」 「…………………………待て待て待て」 シン、と静まり返るリビング。 時計の秒針と外から響く叩きつけるような雨音に閉じ込められてしまったかのような錯覚を覚えた。 「え、だって……、いや、待て。……お前、俺に勃つの?」 「勃つんじゃないか? え、なんで」 「……抱くなら、勃たないとだめだろ。え、俺のこと、そういう対象として見れるの?」 「……なぁ、さっきから、何の確認なんだよ。なんか、すっげぇ、ムカつくんだ――」  幸弘は口元を覆って、太陽の言葉を遮って言う。 「性的欲求が混じる好きって、そういう好きと違うのか……?」 勘違いかもしれない、なんていう保険を掛けるけど、七割ほどの確信が幸弘の口元を緩ませる。 「なぁ……、俺のこと好きになった? そもそも、好きだった?」 目を大きく見開いた太陽が、百面相をしながら徐々に頬を染め、耳を染め、首筋までをも染めていく。 「ユキ……おれ……、え……マジか……っ、」 太陽の視線が忙しなく彷徨い、幸弘から逃げる。 「……ユキ、好きって……何。何をどう思ったら、そういう好きで、何が無かったら、そういう好きじゃないんだ……。ユキは……、どうして、おれをそういう好きって思ったんだ」 顔を伏せた太陽が震える声で問うてくる。 全身がどくどくと強く脈打って、自分の声すら遠い。 それでも、幸弘は声を絞り出して、答える。 「……お前に俺だけ見ててほしい。感情の向きは全部俺がいい。嬉しいことがあった時も、泣きたくなったときも、嫌なことがあった時も、一番に思い出すのは俺がいい。……お前に、触りたくて……、そういう顔が、見たかった……」 膝の上でギュッと握られている手に触れて、こっちを向いて、と聞き取れないほどに小さな声が漏れる。 だが、太陽はその声を拾い、ゆっくりと顔をあげて幸弘と視線を合わせた。 「おれ……、っ、……ユキのこと好きなのに、他の子のこと好きになってたのか……? 好きなのに……、ユキぃ……、早く言ってくれよ」 完全なる責任転嫁である。 太陽は真っ赤な顔で幸弘を抱きしめて、ぐりぐりと鎖骨を攻撃してくる。 「なぁ、ユキ。おれたち、もうちゃんと恋人?」 「……今までだって、ちゃんと恋人だったろ。ずっと一緒って約束して、大学のことだって、仕事のことだって太陽込みで考えてるんだから」 「そういうことじゃなくてさ……、キス……していい?」 体を離して、そう聞いてくる太陽は未だに真っ赤で、トマトのようだ。 幸弘は太陽の肩に手を掛けて、唇を寄せ――。 「違う!」 寸でのところで太陽の手のひらに邪魔されてしまう。 慣れていない幸弘は一回、一回を緊張しながらしているので、こうして制止されるのは面白くないし、不安になる。 「あにがちあうの」 力いっぱい押し付けられた手のひらのせいでうまく喋れない。 「おれがするの!」 この数日、一度だって太陽からしてもらったことはない。 幸弘が太陽に好きになってもらうためにしていることだから、幸弘からするのが当たり前だった。 それを、自分からするのだと太陽が言っている。 「ね……していい?」 断られないことは知っているが、それでも許可が欲しいという太陽の視線。 その図々しい視線に幸弘はなす術はない。 幸弘はこの視線に抗えたためしはないのだ。 「……いいよ」 許可を出す言葉さえも恥ずかしくて、これなら自分からした方が何倍もいいなと思った。 肩に手が置かれ、ゆっくりと太陽の近づいてくる。 唇に触れる一瞬、少しだけ傾いた顔の角度にどこか慣れを見て、腹立たしい気持ちになった。 幸弘は満足げに離れていく太陽の後頭部に手を回し、再び唇を押し付けた。 「んっ!?」 衝動的な自分の行動に、幸弘が自分でしたことだというのに、飛び上がるように太陽から離れた。 「……今のは……、えっと……」 「……本当の意味で両想いだから、……ちょっとえっちぃちゅーも解禁?」 「お前……ほんと、ばかだ」 朝だというのに薄暗くなっていくリビングで二人、首まで真っ赤にさせて向かい合う。 室内は冷房で冷えているというのに、耳輪が火照って、思考が茹ったように上手く考えがまとまらない。 「だって……おれ、ユキに触りたい……」 「太陽……、お前、ずるい……。俺の方が我慢してたのにさ、自分のタイミングで持っていこうとするなよ……」 「ユキもおれに触りたい?」 「……なんで、違うと思えるんだ」 不貞腐れたような声が出て、更に羞恥が積み重なっていく。 「……おれ、ユキとしたい。リストの最後の項目、埋めさせてくれよ」 「俺がリストがどうのって言ったら怒ったくせに」 「お前のはデリカシーがないんだ。言葉も足りないし、リストを埋めるためだけにやってるのか、みたいなニュアンスで聞こえるんだよ。けど、ユキはおれがどういう意味で、今リストを埋めさせてって言ってるか理解してるだろ?」 「やっぱ、ずるい」 「分からないのか? ユキなのに」 「……リストを全部埋めたら、それが俺への気持ちの証明みたいに見えるから、お前はそれを可視化したいんだろ。本当にそうなのか、自分で自分に安心したいんだ」 あまりにも自分勝手で、あまりにも太陽だ。 「なぁ、だめ?」 「……このままいくと、お前に全部いいようにされる気がするから、もう一回言っておくと、俺は挿れたい方。つまり、抱きたい方」 やけくそ気味にそう言えば、太陽が幸弘から視線を逸らし「あ~、う~」と頭を抱えだす。 「考えたことなかった……」 「あのリスト作った時から、最後の項目に『エッチ』ってあったけど、どういう気持ちで書いてたんだよ……」 「……いや、本当に……、恋人関係の先にはこれがあるからってイメージだけで……。抱くとか抱かれるとか、考えてなかったというか。ユキとするってちゃんと考えたのが、ここ二日くらいで、けどごめん……。普通に、おれが抱く方でしか考えてなかった……」 だろうな、としか言えない。 「だよな……。ユキだって、女の子が好きで、抱く側の認識で生きてきたんだもんな……。え、なんで、おれ……全くそこ考えなかったんだろう」 太陽が顔を覆い、幸弘にもたれ掛かってくる。 赤面した後のその身体は熱かった。 「……やり方知ってんの?」 実のところ、幸弘も詳しくは知らなかったりする。 あまりにも生々しい部分過ぎて、知ったら戻れないような気がして調べたことはなかった。 二人とも抱きたい。ならば、相手への負担について知ってからどちらがどちらをするのかを考えても遅くはないはずだ。 「あ、一応は知ってるぞ! ほら、この前のマンガ」 「…………あれ、捨てろ」 「なんでだよ! 意外と面白いんだぞ!」 「現実と一緒にするなって言ってるだろ! あんなもんを手本にしたら、ケガするだろ!」 一応、幸弘だって太陽が買ってきた日に読んでみたのだ。 がっつりと、エロいシーンがあった。 「でもさぁ、マンガのほうがハードル低くない?」 「……男女だって、初めての相手はきつそうだろ……。ましてや、男同士なんて、本当は挿れるところじゃないんだぞ。あんな、触ってすぐ気持ちよくて、みたいな展開ないから」 「は……? え、ユキって、……え、おれより大人って言ってたのって、え、全部経験済みってこと? は?」 幸弘は口を滑らせたことを悟った。 凭れてきていた身体を離した太陽の口元は引き攣っていて、冗談だろ、と笑い飛ばそうとしているようだったが、目が完全にぶちぎれ寸前だった。 ただ、そこについて怒られても幸弘は悪くない。 その時、太陽には彼女がいたし、二人は普通の幼馴染みだったのだから。 「……は~~、マジで、お前最悪」 不機嫌マックスな太陽の声。 「隠せよ! おれはもう、お前の元カノの話なんて聞きたくないって!」 「……一般論だし」 完全に機嫌を損ねてしまった太陽はすくっと立ち上がって「ユキのバカ、アホ、浮気者」と言ってリビングを出て行った。 遠くで聞こえる太陽の部屋の扉が大きな音を立てて閉まる音。 リビングに残された幸弘は長く重いため息を吐いて、テーブルの上の饅頭のゴミと湯飲み二つを片付ける。 冷蔵庫から「ユキ」と書かれた二リットルのウーロン茶を取り、戸棚からコップを二つ取り出して、太陽の部屋に向かう。 今回は完全にブチギレているため、部屋に入れてくれるか、近寄っても大丈夫なのか、拒絶が怖くはあるが、太陽の元に向かわないという選択肢はない。 だって、太陽は幸弘にとって今すぐいつも通りに笑ってこっちを向いてほしい存在なのだから。 仲直りできるまで、あと一時間。

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