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第27話

◇  ◇  ◇  頭から水の中に、ぶち込まれたような感覚が続いている。キーンという耳鳴りがして、手足が思うように動かない。目の前の惨劇が、現実であると受け入れることができず、ただ冷えていく身体の感触だけを味わっていた。  どうやって、息をすればいいのだろう。どうやって、立ち上がればいいのだろう。自分の身体であるのに、一切の自由が効かず、それでも零れ落ちる涙は止まらない。  抱き締めたい身体は、すぐ目の前にあった。今日もあの後は、馬鹿な運営どもの粗探しをして、笑い合いながら部屋へ戻るはずだった。手を繋いで、軽口を叩きながら、温かいベッドで眠るはずだった。それが、いくら彼の手を引こうと、反応が返ってこないのだ。  胸が押し潰れる音がする。  光の弾丸を受けたのは、彼なのに。  あれほど生きたいと願った彼の方なのに。  心臓の下あたりが、痛くて堪らない。  どうやって、息をすればいいのかわからない――。 「……利央、いつまでそうしてんの?」 「…………」 「せめて水だけでも飲んでくれ」  冷えたコンクリートの床の上。利央は焦点の定まらない瞳で、窓の外を眺めていた。  巨大なガラスの向こう側に広がる闇、そして数の減った部屋の明かりたち。この檻の中で生活する人が減少していることに、なぜ今まで気付かなかったのだろう。あれだけ定期的にゲームが開催され、命の取捨選択が行われていたのであれば、当然なことだ。  いつから現実から目を背けていたのか。見て見ぬフリをしたとして、なにも変わらない。むしろ状況は悪化するというのに。そんなことは妹を亡くした時に、嫌というほど学んだはずだった。愚かな男は性懲りも無く、また同じミスを繰り返す。  なにも変わらない。変えられない。それでも胸に残った恋心は、火傷跡のように鈍い痛みを発っした。高音に熱せられた鉄のように、熱の元はなくなれど、余熱が肌を焦がしていく。 「……なんだよ、これ……なんで、こんなに痛いの?」  胸を押さえたところで、痛みは和らがない。愛を知らない彼に、愛を知ってほしいと願っていながら、自分は制御の効かない感情に振り回されている。なんて滑稽で、愚鈍な心なのか。  利央はコツっと額をガラスに押し当てて、次第に視線を落としていった。  明かりの灯った部屋から目を逸らし、行き着いた先は赤く染まった自身の左手。乾いた血のこびり付いた薬指の根本。銀色のそれはまだ光を失うことなく、薄暗い部屋の中でも輝きを失わない。 「……お前が痛みを感じるのは、そいつのことが好きだったからだろ?」  反応の鈍い利央の横へ腰を下ろすと、洋介は静かに肩を抱いた。震えを残した左手から指輪を抜き取り、表面に付着した鮮血を拭いとる。そうして再び利央の手の中へと戻すと、内側に刻まれた文字が視界に入った。 ――Because you called it love   だって、君が愛と呼んだから  初めて目にした時、なんて自分善がりな言葉だと思ったが、今なら少し理解できる。この指輪の贈り主は、最後までその感情を、受け入れたくなかったのだろう。甘い蜜のような時間を過ごしたとして、待ち構えているものは胸を裂くような別れ。誰がそんな恋を始めたいと思うか。先のない不毛な感情の痛みを知り、それが愛であることを否定し続けたのだ。 「好き……好きだよ、馨のこと……でも、いらない。……こんなに、痛くて苦しい感情なら……知りたくなかった」  最後の最後まで、認めたくなかったのは、口にしてしまえば、それが本物になってしまうから。  認めたくなかった。彼を失うことを恐れ、傷付くことを恐れ、大切な感情を誤魔化してきた。しかし結果的に、残ったものは同じ。深い喪失感と悲しみ。そして永遠に付き纏うであろう後悔。 「利央、それ本気で言ってる?」 「…………」 「……じゃあ、忘れろよ。さっさとあっちの世界に戻って、クソして寝ろ」  返事を返さない利央に舌打ちし、洋介は強かにガラスを叩いた。 「俺、言ったよな? 人の潜在意識を変えるには、それだけの衝撃と痛みが伴うって。堪えられないなら、帰れ」  鋭い眼光で見下ろし、腕を引いて立ち上がらせる。そのままベッドの横まで来ると、利央の顎を掴み上げ、青白い肌で横たわる馨へと目を向けさせた。 「こいつが、これからどうなるか知ってるか? 細胞単位で分解されて、新しく身体が作られるんだ。その後はフォロワー限定のオークションに出されて、まだ売り物にされる」  淡々と、腹の底で渦巻く憤怒を押し殺したまま。洋介は嫌がる利央を床へ投げ捨て、先を続ける。 「こんなクソみたいな場所で、死なせたりしないって言ったのはお前だろ? それとも、口先だけだったのか?」 「んなわけないだろ……っ! なんなんだよ……っ、お前だってあいつらと一緒じゃないかっ! 馨のこと見殺しにしやがってっ!」 「はあ? あの状況で、俺になにができたっていうんだ? ただのパート社員だぞ?」 「おまっ……っ! どの口が言って……っ」  散々、人を責めておきながら、自分のこととなると、急に手のひらを翻す。あまりの不条理に胸ぐらを掴み上げると、狙ったかのようなタイミングで、スピーカーから音楽が流れ始めた。  おおかた監視カメラで、事の成り行きを見ていたのだろう。選曲は、スラム街に暮らすボクサーが勝ち上がっていく映画でお馴染みの、あの曲。 ――たーたたーたーたーたーたたたんっ♪ たーたーたたたーたーたたたんっ♪   タタタ〜タタタ〜♪ タタタ〜タタタ〜♪   タタタ〜タタタ〜♪ タタタ〜タタタ〜♪ 「はぁーっはぁーっ……もうだめだ、我慢できない……っ! お前含めて、ここにいる連中全員ぶっ殺す……っ!」 「待て待て待て……落ち着け、利央!」 「音響担当は血祭りだ……っ! 顎砕けるまで、アッパーカットぶち込んでやる!」 「中村さーんっ、スピーカー切って! ガチのR指定になっちゃうから!」  ゆらりと立ち上がり、拳を顔の位置で構えた男の目は本気だ。慌てて制止の声を張り上げ、洋介は利央の背を撫でる。 「落ち着け、利央。頭ん中で、雪のことを思い浮かべるんだ」 「ゆ……雪ちゃんが一匹、雪ちゃん、が二匹……雪ちゃんが三、さ……三び……匹……っ」 「よし、いい感じだ。そのままだぞー」  額に浮かんだ極太の筋は破裂寸前。どうにか憤怒を抑え込んでいる利央も、次に音響担当がヘマをやらかせば、火星まで理性が吹き飛ぶだろう。  完全に毛が逆立った男を宥めながら、速やかに移動した瞳は、AIアシストの音声入力がオンになっていることを確認した。 「……利央、俺がお前の弁護人になること許可して」 「弁護人?」 「そう。こっちの常識に詳しくないだろ? いいから、許可だけしろ」 「……じゃあ、お願いします」  まだ暴力事件を起こす前だというのに、すでに弁護人の話が出ているのか。やけに準備がいいなと横を向くと、用意周到な知能犯が密やかに口角を釣り上げる。 「中村さん、聞いてる? 法務部に繋いで」 『ご連絡ありがとうございます。先にご用件を、お伺いさせていただけますでしょうか?』 「ここにいる伊波利央が、里見馨への学習指導、学習サポート及び管理、カリキュラム提供に関する業務への賃金不払いに関して、訴えを起こすって」 「え?」 「週二日、週払いで契約したにも関わらず、現時点での振込はゼロ……半年以上も経ってて、これはまずいんじゃないか? 高等法院(トリブナル)での正式な裁判が嫌だったら、今日までの労働分とペナルティ分、即金で全額払いして」 『……サポートに確認して参ります。しばらくお待ちください』  心なしか慌ただしく音声が切れ、気まずい沈黙が訪れる。なんだか芳しくない話の流れに、憤怒が引っ込んだのだろう。利央はおずおずと洋介の背後へと周り、伺いを立てた。 「洋介……どういうこと?」 「お前、家庭教師の給料まだ未払いなんだろ?」 「いや、そうだけどさ……なんていうの、お前、空気読めないの? これ今じゃないとだめなのか?」 「今じゃないとだめなの」  ふふんっと愉しげに鼻を鳴らしては、なにやらゴソゴソと尻ポケットを探り出す。お目当てのものが見つからず、陽介が左の胸ポケットを漁り始めると、カメラが何かを探るように左へと動いた。 『お待たせいたしました』 「ありがとう、中村さん。早かったね」 『確認を行いましたが、ご提供いただきました振込先の番号に不備が――』 「あるわけねえだろ!!!! ふっざけんなよ、お前っ! 何回訂正したと思ってんだ!!!」 『……再度確認を行ってまいります。もう少々お待ちください』  法務部へ確認をしたにしては、やけに早いと思いきや。どうやら隠蔽工作を図ろうとしているようだ。この状況で沖縄民謡を流されたとて、爽やかな情景なんて、浮かんでくるはずがない。  目の座った男を前に、これ以上の根回しは悪手になると悟ったのか。中村は渋々とした声色で先を続ける。 『再度確認させていただきましたところ、こちらにミスがございました。ご迷惑をお掛けいたしまして、大変申し訳ございません。本日中に、満額の振り込み手続きを行わせていただきます』 「ありがとう、中村さん。ついでにペナルティ分の請求もしていい?」 『お受けいたします』 「ここに寝転がってる、里見馨の遺体が欲しい」 「……洋介?」 「連れてってやれよ……お前だって、ここに馨を一人で置いていくのは嫌だろ?」  動揺を隠せない利央の背を押し、洋介は馨の元へと送り出す。  見下ろした顔は、予想したよりも綺麗だった。血の跡も、黒い服を着ていたためそれほど目立たない。この姿だけを見れば、まるで眠っているかのように思える。 『――請求が通りました。このままご自宅にお送りできますが、いかがなさいますか?』  背の方から声を掛けられ、利央は馨の手を握り締める。荒い運転であろうと、けして離れないようにと隙間なく指先を絡ませて。 「……馨、一緒に帰ろう」  泣き腫らした顔でそう囁けば、彼の顔が少しだけ笑ったように見えた。

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