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ep.18 指導

 七月十三日、月曜日。  梅雨明けのまだ湿り気を残した空気が、朝の街を覆っていた。  楠原駅の改札を出たすぐの柱に寄りかかり、春希は吐き出される乗客の群れに目を凝らしていた。  やがて、人の波に紛れるようにして、うつむき加減で歩いてくる雪の姿を見つける。声をかけようと壁から背を離した春希の視界で、雪が不意に足の向きを変えた。  学校へ続く幹線道路の方角から大きく逸れた、鷺野川沿いの緑道へと続く細い道へ逸れていく。 「雪」  慌てて後を追い、数歩先を歩いていた雪の肩を掴んだ。 「春希!?」  びくっと大きく全身を震わせ、雪が振り返る。  春希の顔を認めた途端、白い頬にふっと血の気が浮かんだ。 「そっち、遠回りだぞ」 「人が多い方は、通りたくなくて……」  雪は足元の土へ視線を落とした。  二人の間に、数秒の無音が通りすぎる。  田畑を挟んだ幹線道路の方角からは、登校する生徒たちのざわめいた話し声や、車やトラックが通り過ぎていくけたたましい音が、響いてきていた。 「……こっちから行くか」  春希が緑道を進み出すと、雪も頷いて隣に並んだ。  緑道から学校の裏口へと回るルートは人通りが少なくて狭く、夏になれば虫もわくため、学校関係者は誰も使わない。それでも、木々のアーチに遮られた静かな小道は、幾分か雪の呼吸を落ち着かせたようだった。  錆びた学校の裏口のフェンスが見えてきたあたりで、ふいに雪が口を開いた。 「……貸してくれた本、面白いね」 「そうか」  春希が短く応じると、雪は視線を前に向けたまま言葉を続ける。 「花みたいに、いろんな形や、色もあって。……春希の家にも、あるの? 昨日の写真」 「リビングにあるやつな。母さんの趣味なんだけど」 「そっかぁ。僕も、将来は自分の家にかわいい多肉植物置こうっと」 「……枯れにくいから、育てやすいって言ってたぞ」 「ふふ、それもある」  二人は足をとめることなく、前を向いたまま、小さく声を合わせて笑い合った。  校舎の敷地に入って昇降口へと近づくにつれて、それまでの穏やかな空気の肌触りが一変した。あちこちからの視線が、火の粉のように降ってくる。春希を素通りし、隣を歩く雪へ。  下駄箱で靴を履き替え、一年生のフロアへと続く廊下を進み始めると、周囲の空気が露骨に揺れた。 「……」  雪の指先が、春希のシャツの袖口を握りしめてきた。  春希は歩調を緩めず、雪を体の片側で庇うようにして廊下を進み、教室の後部扉をくぐった。  入学初日とも違う色の視線の群れが、雪を振り向く。  春希は雪に袖を掴ませたまま、教室後方窓際の、自席へ引っ張った。  ホームルームが始まるまで雪を自席に座らせて、自分は窓際に背中を預けて立っていた。 * 「……」  ガラス越しにその光景を目にして、佐伯結菜の足は廊下でぴたりと止まった。  春希の席に座って俯く雪の横顔が、結菜の胃の底に重い泥のようなものを沈み込ませた。 「佐伯、ちょっと」  背後からかけられた声に結菜が振り返ると、バインダーを抱えた担任の青木先生が立っていた。爽やかなお兄さんのような面持ちに、少しの苦笑を乗せて。  結菜はそのまま一階の職員室へと連れて行かれた。奥のパーテーションで仕切られた打ち合わせコーナーには、すでに学年主任が腕を組んで待っていた。  パイプ椅子に座らされた結菜は、マスカラで背伸びした睫毛の下で、瞳を泳がせる。 「この動画は、佐伯さんが投稿したものですか」  主任が自分のスマートフォンを、結菜に向けて机に置いた。  件の、体育祭の思い出動画が表示されたSNSだ。 「はい……そうです」  結菜は視線を画面に向けたまま、弱々しく答えた。 「佐伯が、悪意を持ってあの動画を投稿したとは、先生たちも思っていない」  沈黙を破った青木先生の声は、決して高圧的ではなかった。 「ただ、君の軽い気持ちの結果として、深く傷つき、困っている人がいる」  結菜の脳裏に、教室の光景がフラッシュバックする。  膝の上で組んだ指の関節が、白くなるほど力を込めた。 「これ以上騒ぎが大きくなれば、学校だけではどうすることもできなくなってしまうんだ」  続く学年主任の重たい声に、結菜は息を呑んだ。  最初に思い浮かんだのは、警察、停学、退学、罰金といった言葉の数々だ。 「投稿した体育祭の動画を、削除しなさい。ここで今すぐとは言わないから」  青木先生の諭す声が、俯く結菜の首筋に触れる。 「今日このあと、学年全体に向けて臨時の授業を行う。ネットやSNSとの関わり方についてだ。……それをしっかり聞いて、自分の中で納得した上で、実行してほしい」 「……はぃ……」  静かで優しい、だけど拒絶を許さない大人たちの言葉が、逃げ場のない空間に落ちる。結菜は唇を噛み締め、震える首を縦に振ることしかできなかった。  朝のホームルームの後、全校生徒が一時限目の授業を潰して急遽、体育館へ集められた。  等間隔に並んで体育座りをする生徒たちの前方に、白飛びしたプロジェクターの光が巨大なスクリーンへ投影される。急ごしらえであることがありありと伝わってくる、デザイン性皆無のスライドとともに、マイクを通した生活指導担当の教師の声が、高い天井に反響する。 『本日は、SNSの利用と写真や動画の投稿に関する、大事なルールをお伝えするための特別授業をします』 「……っ」  雪はもぞもぞと春希の隣へ体を寄せて、深く折り曲げた膝に顔を埋めた。  春希は正面のスクリーンから視線を外さず、動かなかった。  腕を通して伝わってくる雪の震えと、頼りない重みを支え続ける。  スライドが切り替わり、肖像権やパブリシティ権といった言葉が、噛み砕かれたテキストで表示された。  また、学校の管理下で行われた行事の写真を、無断で外部へ持ち出すことの危険性。学校写真販売サイトの利用規約には、購入者による二次利用の禁止が明記されており、自分や友達、知ってる人が写っているからといって『自分の写真』だと錯覚してはならないこと。  そして、一度拡散されたものが、悪意のある第三者の手によってどのように消費され、二次被害を生むのかという生々しい実態。  これから夏休みを迎え、出かけた先で動画や写真を撮る機会が増える。軽い気持ちでSNSへアップロードすることに潜むリスクが、順を追って列挙されていった。 「……これさぁ……」 「ね。あれのせいだよね……」  周囲に座る一年B組の生徒たちの間を、陰口のさざめきが伝播していった。 「……」  斜め前方の列に座る佐伯結菜は、血の気の失せた顔を床に向け、膝を抱え込んで小さくなっている。そのすぐ隣で、彼女の取り巻きの女子たちは、かったるそうに首を回し、退屈して爪先をいじっていた。 『最後に。本日の授業を踏まえ、今週末の終業式までに感想文を提出してもらいます』  体育館のあちこちから、特に上級生たちの列から、不満の混じった溜息や文句が漏れた。何人かが、一年生の列の方を見て目元を曇らせる。  解散の号令がかかり、生徒たちが各々のペースで立ち上がり、出入り口へと向かい始める。床板を踏む足音と話し声が響く中、雪は膝を抱え、春希の腕に身を預けたまま顔を上げようとしなかった。 「遠野、大丈夫か」  見回りをしていた青木先生が歩み寄ってきた。 「すみません、最後にゆっくり出ます」  春希が代わりに短く応じると、青木先生は春希の陰に隠れる雪の背中を痛ましげに見下ろし、小さく頷いた。 「わかった。具合が悪いようなら、すぐ声をかけてくれ」  青木先生が立ち去り、体育館の人口密度がまばらになっていく。  春希が周囲を見回した時、出入り口へ向かって歩いていた結菜と、視線が交差した。結菜は体ごと目を逸らし、逃げるようにして友人たちの集団の奥へ小走りで紛れ込んでいった。 *  湿った外気を抜け、教室へと続く渡り廊下を歩きながら、結菜は周囲を気にするように声を潜めた。 「先生に、あの動画、消せって言われた……」 「えー?? マジで? もったいないよ」  隣を歩く友人が、呆れたような高い声を上げる。 「もうすぐ四百万回再生だよ? 神垢じゃん。先輩にだってそんな数字持ってんのいないよ」 「でも……今日中に消さないと、親呼ばれたりするかも……」  結菜は自身のスマートフォンが入ったスカートのポケットを強く握りしめた。 「てか、なんで、ゆなばっかり怒られるん? コメント欄で勝手に盛り上がったり拡散してるやつらの方がよっぽど悪くない?」 「そうそう。うちらはただ、体育祭の思い出を普通にアップしただけじゃん。ゆな、悪くないじゃん」  甘い言葉が、結菜の耳元で心地よく響く。 「だよ……ね」  重く沈んでいた胃の底が、ほんの少しだけ軽くなるような気がした。 「悪くない、よね……?」  自分に言い聞かせるように呟いた結菜の言葉は、チャイムの音にかき消され、蒸し暑い空気の中へ溶けていった。  動画がその日のうちに消されることは、なかった。

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