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ep.19 まちぶせ
七月十三日、月曜日の放課後。
一時限目に体育館で行われた臨時授業の影響で、その日一日、一年B組の教室に流れる空気はどこかよそよそしく、ひどく重かった。
特に雪に対しては視線を合わせるまいと気を遣い、要するに、完全に腫れものを見るような空気だった。
「雪、帰ろう」
「……うん」
帰りのホームルームが終わると同時に、春希は鞄を掴んで雪へ声をかけた。
連れ立って後部扉から教室を出ていく二人の背中を、佐伯結菜の取り巻きの女子たちが、うとましげな目つきで見送る。結菜は目を逸らして、俯いていた。
遊歩道の先、正門の外側の歩道に見慣れない柄の制服を着た学生が数人、たむろしているのが見えた。
「他校の制服?」
「だな。どこだろ」
着崩したシャツに、極端に短いスカートやルーズなスラックス。
楠原高の生徒たちとは違う、派手な印象を受ける生徒たちだ。
春希と雪が並んで正門の境界を越えようとした、その時――
「あ、マジだ。あいつじゃね?」
甲高い声の直後に「カシャッ」と電子音が無遠慮に鳴った。
春希が振り向くと、いつの間に距離を詰めたのか、間近から他校の女子生徒がスマートフォンを真っ直ぐに雪へ向けていた。
「やば、本物も超可愛いんだけど」
「加工じゃなかったんだ。すげー」
男女のグループがスマートフォンの画面越しに雪を指差し、笑っている。
雪は「ひっ」と短い悲鳴を漏らし、咄嗟に春希の背中へと隠れた。
「すみません、勝手に撮らないでください」
春希は雪を背中で庇い、カメラをもつ生徒たちを睨む。
「え、何? メガネくん、彼氏? ウケる」
「ガード固すぎっしょ」
怯むどころか、手を叩いてはしゃいでいる。
女子生徒の一人が構えるスマートフォンには、赤い録画のランプが点灯していた。
「やめろって言って――」
荒げかけた春希の声に、
「こら! 君たち、どこの学校の子だ!!」
校舎側から、野太い怒声が飛んできた。
騒ぎに気づいた生徒に呼ばれて駆けつけた生活指導の体育教師が、血相を変えて正門の方へ走ってくる。
「うわ、ヤバ」
他校の生徒たちは舌打ちをしつつ、ふざけた態度のまま踵を返し、駅の方角へ足早に立ち去っていった。
「何なんだ、あの子らは……」
正門を踏み越えたところで足を止めて息巻く教師が、遠ざかる背中を睨みつけながら首を傾げている。下校途中だった楠原高校の生徒たちも足を止め、遠巻きにざわざわと囁き合っていた。
「行くぞ」
春希は雪の腕を引く。
教師が事情を聞き出そうとこちらへ振り向く前に、春希は足早に正門を離れ、ざわめく群衆から雪を連れ出した。
*
駅の改札前で春希と別れ、雪は一人、下りのホームへと降りた。
朝の上り列車では最後尾の車両の隅、帰りの下り列車では最前列の車両の隅に乗る。それが、雪の毎日の定位置だった。
車内は、沿線の学校から帰宅するさまざまな制服姿の学生たちで七割方埋まっていた。冷房の風が汗ばんだ肌に冷たく触れる中、雪はいつものようにドア横のスペースに身を寄せ、通学鞄の持ち手を両手で握りしめる。
発車を告げるメロディが鳴り止み、ドアが閉まろうとする直前、
「いたいた!」
男女の四人組が笑い声とともに車内へ駆け込んできた。
正門で絡んできた、他校の高校生グループだった。
「――あ」
雪が息を飲む暇もなく、角に追い詰められて囲まれ、退路を塞がれる。
「よっ。さっきぶりー。メガネの彼、置いてきちゃったの?」
茶髪の男子生徒が、馴れ馴れしい口調で雪の肩へ腕を回してきた。
香水の甘ったるい匂いが鼻につく。
「あの……やめて下さい……」
雪は身を縮め、肩に置かれた重みを振り払おうとしたが、男子生徒は面白がるようにさらに強く腕を引き寄せた。
「えー、マジで肌透明!」
「髪も超さらさら〜、シャンプー何つかってんの?」
取り巻きの女子生徒が横から手を伸ばし、雪の前髪や頬を無遠慮に指先で弄る。
他の乗客たちが、騒がしい集団に眉をひそめていた。
「……離して下さいっ」
雪は震える声で繰り返し、囲いの中から抜け出そうと身体を捩ったが、高校生たちは肩を組んだままスマートフォンのインカメラを高く掲げた。
『まもなくー、すずらんヶ丘〜』
足元の床が揺れ、車内にアナウンスが流れる。
雪は肩に回されていた腕を両手で振り払い、壁のように立ち塞がる男女の隙間をすり抜けようと、強引に身体をねじ込んだ。
「おい、待て」
背後から手が伸びる。
「っぁ」
雪の身体が、不自然なほど大きくバランスを崩した。
ゴツッ、と鈍い音が車内に響く。
雪の体が、派手に座席横の金属製の手すりに打ち付けられ、そのまま床へと崩れ落ちた。
「え、おい、あれ?」
男子生徒の声がうわずった。
伸ばした自分の手と、床に倒れた雪とを交互に見比べ、明らかな動揺を顔に浮かべている。
「いや、オレ、そんなに――」
「ちょっと、やりすぎ、まずいって」
女子生徒の一人が一歩後ずさった。
床に蹲ったままの雪の様子を見兼ねて、一つ先のドア付近に立っていた一人が動く。
「ちょっとあなたたち、いじめはやめなさい!」
主婦らしき中年の女性が、乗客をかき分けて歩を進める。
ほぼ同時に、逆側に立っていた大学生らしき若い男が、雪のもとに膝をつく。
「次の駅で、駅員を呼びますよ」
電車がホームへ滑り込み、ドアが開いた。
「やべっ」
「待ってよ!」
高校生グループは短い悪態を吐き、蜘蛛の子を散らすように開いたドアからホームへと逃げ出していった。入れ替わりに乗り込んできた乗客たちが、何事かと逃げ去る背中を振り返っている。
「大丈夫?」
女性と大学生が、床に丸まっていた雪の腕を支えてゆっくりと引き起こした。
「……ありがとうございます。大丈夫です……お騒がせしました」
助けてくれた二人はじめ、車内に向けて、雪は深々と頭を下げる。
それから目的の駅で降りるまでの十数分間――雪はドア脇の手すりに両手で掴まり、ただじっと足元を見つめて動かなかった。
*
七月十四日、火曜日。
雪はいつものように、各駅停車の最後尾車両、その最も奥にあるドア横の角に細い身体を収めていた。今日は文庫本のかわりに、スマホを眺めている。
春希からのメッセージ「改札で待ち合わせな」を何度も見返していた。
やがて、電車が大きなベッドタウンの駅へと滑り込み、ホームを埋め尽くしていた通勤・通学客が一斉に車内へ雪崩れ込んできた。乗車客の波に押される形で、スーツを着たサラリーマン風の男の身体が、角に立つ雪へとのしかかるように寄ってきた。
「すみません」
「いえ……」
ドアが閉まり、列車が再び揺れ始める。雪はもう一度スマートフォンの画面に視線を落とそうとしたが、ふと違和感を覚えた。
男の体が、退かない。
この時間帯は、少し腕を開くと隣の人間に当たる程度の混雑具合であるはずだ。
(……わざと?)
触られているわけではないから、痴漢だとは言えない。
自分が意識過剰なのかもしれない。
「……」
声を上げる根拠も勇気もなく、雪はスマートフォンを胸元で強く握りしめ、ただひたすら息を殺してやり過ごすしかなかった。
楠原駅の解説で合流した春希に「どうかしたか」と尋ねられ、雪は「なんでもない」と答えた。
その日の帰りのホームルームでは、昨日正門付近にたむろしていた他校生たちについて、担任の青木先生からクラス全体へ向けて注意喚起があった。
「もし絡まれたり、無断でカメラを向けられたりするようなことがあれば、決して応じないこと。すぐに学校内へ引き返し、近くにいる教員に知らせるように」
教室は静まり返っていた。
放課後。
雪は昨日と同じように、春希と連れ立って駅まで歩き、改札前で春希と別れる。一人で下り列車のホームへと向かった。
ホームへと続く階段を降りる途中で、奇妙な違和感があった。
ゆっくりと階段を降りていく雪の数段前。
一定の距離を保ちながら降りていく、不自然な人影がある。
一人ではない。二人、いや、三人組だ。
私服姿の若い男たちが、時折振り返るような素振りを隠しながら、雪の前を歩いていた。
ホームへ降り立つと、三人組はそのままホームの前方――一両目の方角へと歩いていった。雪も、定位置である最前列の車両方面へ向けて歩を進め、その途中、四両目の乗車位置で足を止めた。三人組は一両目の整列ラインに並んで、ちらりと雪へ視線を彷徨わせる。
「……やっぱり」
直後、アナウンスと共に下り電車がホームへ滑り込んでくる。
ドアが開き、雪は目の前の四両目の車両へと足を踏み入れる。
乗車してすぐ、雪は開いたままのドアの横から、一両目の方角へ視線を送った。
三人組もまた、一両目のドアから車内へと乗り込んでいた。
そして、連結部のドアを抜け、こちらのある四両目へ向けて、車両の中を移動してくるのが見えた。
発車を知らせるベルが、鳴り響く。
『ドアが閉まります。ご注意ください』
ドアが閉まり始めたその瞬間。雪は身を翻し、閉まりかけのドアの隙間をすり抜けて、ホームへと飛び降りた。
背後で、プシュッと重い音を立ててドアが閉ざされる。
ガラス越しに車内を見ると、四両目直前まで移動してきていた三人組が、顔を見合わせている様子が見えた。電車は彼らを乗せたまま、駅のホームから滑るように消えていった。
「はぁ……」
雪は息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。
階段付近まで移動して駅員の姿が見えるベンチに座り、様子を見る。
三十分待って、彼らが戻ってこないことを確認してから、雪は新しく入ってきた下り電車の、最後尾側の車両へと乗り込んだ。
帰りの定位置とは真逆の場所だ。
今度は、怪しい動きをする乗客の姿はなかった。
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