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ep.22 春と雪の夏

 八月に入って夏が盛りを迎え、住宅街や田畑のひまわりが花をいっぱいに広げる。  牧野建築事務所の、学生アルバイトが始まった。  高校生は現場に入れないので、必然と、春希と雪が任されるのは現場の外側と事務所まわりの雑務が中心となる。  そんな中、雪の動きは社員や職人、そして社長の冬人たちの予想を遥かに上回るものだった。 「青木さん、お茶を新しく入れ直しました、氷多めにしてあります!」 「おう、気が利くな〜、雪ちゃんは」  休憩時間になれば、雪は冷えた麦茶の大ピッチャーとグラスをトレーに乗せ、波トタン屋根の下の休憩所へ手際よく運んだ。十数人分のお茶を手際よく配り、汗を拭う職人たち一人ひとりに「お疲れ様です」と爽やかな笑みを向ける。  昼時になれば、配達された弁当の仕分けから配膳までを完璧にこなし、食後にはゴミの分別とテーブルの拭き上げまで一気に片付けた。  ハキハキとした挨拶と無駄のない立ち回り、そして何より人目を惹く笑顔に、最初は扱いに困っていたコワモテの職人たちも、一瞬で骨抜きにされていった。 「雪ちゃん、これ差し入れのスイカ」 「ありがとうございます! さっそく切り分けますね。すごく大きいですね!」  事務所の勝手口で冷えたスイカを受け取り、嬉しそうに目元を緩める雪の横顔を、春希はすのこの上から眺めていた。 (……そういえば)  以前スーパーで見かけた雪の働く姿が、思い返された。  試食コーナーで小さなトングを手に、買い物客へ物怖じせず声をかけていた。  セルフレジの前で操作に迷う高齢者に、すっと寄り添ってボタンを指差していた。  学校で見せる姿とまったく違う、もう一人の「遠野雪」。  さながら職人さんたちに可愛がられる「雪ちゃん」というキャラを演じ切っているように見える。  一方で、春希は言葉数少なく、黙々と汗を流していた。  雑務と言っても、楽な仕事ばかりではない。  炎天下の駐車場で、ホームセンターから自転車の荷台と両手で運んできた大量のスポーツドリンクの箱を倉庫の奧へ運び込む。解体作業で出た無数の木切れや釘の刺さった端材を、厚手の軍手をはめた手で黙々と土のう袋に詰め込み、軽トラックの荷台へと積み上げていく。 「社長の坊ちゃん、ガッツあるなぁ」  表情を変えずに淡々と指示に従って動く春希を、昔気質の男たちはそう評した。 「さすが親父さんの背中見て育ってるだけあるわ。身体も一回り分でかくなったか?」  日陰で腰を下ろした職人たちが、首に巻いたタオルで汗を拭いながら、日盛りの下でドラム缶状の廃材入れを抱え上げる春希を見て感心したように声を漏らした。  日焼けで褐色を帯び始めた肌に、汗の粒が深くなりはじめた筋に沿って流れ落ちる。水泳部で鍛えた肩幅と背筋は、毎日の重労働によって日に日に引き締まりつつあった。  少し離れた場所で、同じようにポロシャツの背中を汗で張り付かせながら資材を運んでいた冬人の耳にも、その声は届いていた。 「よし、よし」  息子の成長に思わず口を緩めたものの、すぐに短く咳払いをし、わざとらしく眉根を寄せ、手厳しい社長としての顔つきを慌てて取り繕った。 「春希、おつかれさま。はい」  一仕事を終えて、庇の下に腰を下ろした春希の視界に、グラスいっぱいの麦茶を差し出してくる白い手が映った。  見上げると、雪が青いキャップのつばを少し持ち上げ、微笑みを向けている。 「サンキュ」  グラスを受け取る時に触れ合った指先を、結露が伝った。  雪はそのまま、春希の隣、すのこの空きスペースにちょこんと腰を下ろした。  手には自分用の小さな紙パックのリンゴジュースを持っている。  冷えた麦茶を一息に喉へ流し込む春希の喉を横から見つめ、その視線を下へ下ろして感嘆の息を吐いた。 「すごい、焼けたね〜」  雪は自分の腕を、春希の腕の隣へ並べるように差し出す。  半袖のTシャツから伸びる腕は、連日真夏の陽光の下で作業をしているというのに、青い血管が透けて見えそうなほどの白さを保っていた。 「雪は白いまんまだな」  春希が少し呆れたように言うと、雪は自分の二の腕を指先で軽くさすった。 「前から焼けにくいんだけど、油断してたら年とってからシミになるって言うよね……。お姉さんの夏美さん、スキンケアに詳しくないかな?」 「女子みたいなこと言ってんなよ。――そういえば姉ちゃん、夏休みとんのかなぁ」  春希はグラスの底で氷を揺らしながら、遠くの青空に湧き上がる入道雲を見上げる。  雪は「そうだ」とズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。 「ちょっと、じっとしてて」  並んだ二人の腕に、レンズが向けられた。  空になったグラスを持つ褐色に日焼けして筋肉の筋が浮かぶ春希の腕と、りんごのジュースパックを持つ細く滑らかな雪の白い腕。  シャッター音が、蝉時雨に紛れた。  撮れたばかりの写真を満足げに確かめながら、雪が尋ねてくる。 「これ、2kiにアップしてもいい? 労働の勲章」 「いいけど。勲章、か……」  春希は自身の黒く太くなった腕へ視線を落とした。  空になったグラスをすのこの端に置き、両手を膝の上で組む。 「職人さんたち、やっぱり筋力も体力も全然違うんだよな」  日盛りの下、自分が息を切らして持ち運んだ土嚢や廃材の何倍も重たい資材を、彼らは太い腕で軽々と担ぎ上げ、朝から日暮れまで絶え間なく汗を流し続けている。 「現場の中はまだ見せてもらえないけど、少しずつ、何かが出来上がってくのを見るのは、楽しい」  基礎が打たれ、柱が立ち、巨大な骨組みが形を成していく。 「春希は社長の――お父さんの後を継ぐって考えてるの?」  春希は一度、雪の顔を見てから、持ち上げた自分の腕を見る。  職人さんたちに混ざって日焼けしている、角ばった父の腕。夜中まで事務所のデスクで図面を広げている背中。  これまでは、そこに自分を並べる想像ができなかった。  けれどこうして黒く硬くなった腕を見ていると、少しだけ、照りつける現場で笑っている父親の横顔に、自分が重なって見えてくるような気がしていた。 「まだ、分からない。けど」  膝の上で組み合わせた指の節々に微かな力を込め、春希は深く息を吐き出した。 「考えてみたい……かな」  重量を積んだ軽トラックのエンジン音が近づく。  春希と雪は同時に立ち上がった。  春希は資材の運搬の手伝いに。雪は職人さんたちへ飲み物を持っていくために。 *  八月の前半、春希は水泳部の練習と建築事務所でのアルバイトを交互にこなす日々を送った。  一方で、雪はアルバイトに一日も休まず顔を出し、皆勤賞を貫いていた。  後になって母の秋子から聞いた話によれば、冬人は見えないところで、 「身内贔屓で言うつもりはないが、春希と遠野君は本当によくやっている」  と、二人を褒めていたらしい。  お盆の時期に入ると、現場の作業は完全にストップする。  牧野建築事務所では社員や職人、アルバイトの中から希望者を募り、一泊の慰安旅行へ出かけるのが設立当初からの恒例行事となっていた。  費用はすべて会社持ち。  お盆に帰る場所がない者や、予定のない従業員たちを独りにしないためでもある。  今年は設計や事務を担う社員五人に、常時付き合いのある大工や電気、水道などの職人が七人、春希や雪を含む学生アルバイトが四人。そこに冬人と秋子を加えた総勢十八人で、借り上げたマイクロバスに乗り込み、熱海を目指した。  到着した熱海は、かつての寂れた温泉街というイメージを払拭しつつある。  インバウンドの観光客が行き交い、若者向けのカフェやリノベーションされた商業施設が増えており、駅周辺は洗練された街並みに変わりつつあった。  人混みの中を歩く間、雪はブルーのキャップを深く被り、春希の腕にしがみついていた。  宿は、海沿いから少し坂を登った場所にある。  駅から離れると、まだまだ昭和の名残が残っている。  牧野建築事務所ご一考様が宿泊するのは、築数十年の宴会場付き温泉旅館だった。  荷物を預け、春希と雪は日中のうちに海へ出た。  雪は水着の上に白い長袖パーカーを着込み、フードを目深にかぶったまま、素足だけを潮水に浸していた。  春希は足元をさらう引き波を切り、沖へと泳ぎ出す。  目指すは、沖に浮かぶ遊泳エリアの境界を示すブイ。 「え、え、大丈夫……?」  沖へと遠ざかっていく春希の背中を、雪は波打ち際から見つめる。  春希はスムーズなクロールで波を抜け、目標のブイを掴んで止まった。  白い豆粒のような雪へ手を振って、再び水面を滑るように浜に向けて旋回する。  足のつく浅瀬まで戻り、水面から立ち上がった春希は濡れた前髪を大きくかき上げた。去年は届かなかったブイまで往復しても、呼吸がさほど乱れていないことに、自分でも小さな驚きを覚える。 「おお……新記録」  確かな自分の成長に小さく感動していると、バシャバシャと水を跳ね上げる足音が近づいてきた。 「すごい、あんな遠くまで泳げちゃうんだ!」  水飛沫をあげて駆け寄ってきたのは、雪だった。  強い夏の陽光を反射する真っ白な長袖パーカーの裾から、日に焼けていない細く滑らかな手足が伸びている。キャップのつばの下で、猫のような瞳がきらきらと輝いていた。 「……」  男児たるもの、こんな風に夏の海辺で好きな女子と無邪気に戯れるシチュエーションを一度くらいは夢想するものだが、それがまったく違う形で叶ってしまった。  春希は水面からの照り返しにわずかに目を細め、鼻から小さく息を抜いた。  夕食は広々とした畳敷きの宴会場に集う。  ずらりと並ぶお膳と、次々と空いていく日本酒とビールの瓶。  大人たちがあっという間に酔いつぶれていくのを横目に、下戸や学生組は早々に食事を切り上げ、自由時間となる。  春希と雪は連れ立って、夜の海岸で開かれる花火大会を見に出かけた。  潮風がそよぐ暗い砂浜に見物客がひしめき合う中、ここでも雪ははぐれないよう春希の腕へぴったりと身を寄せていた。  夜空に弾ける大輪の光が互いの横顔を七色に照らし、重低音が頭のてっぺんからつま先にまで響く。  熱気と喧騒を残した海岸から旅館へ戻ると、広間では出来上がった大人たちがいびきをかいて雑魚寝していた。 「あ、あなた、ちょっとこっち持って。佐藤さん、お水飲むかしら」  散乱した座布団やビールの空き缶を片付けながら、秋子と冬人が様々な寝相で転がる従業員たちの間を動き回る。  冷房で体を冷やさないように、いびきをかく職人の腹にタオルケットをかけて回り、壁際に寄せたゲーブルに、人数分のグラスと水のペットボトルを並べる。 「なんだか、大家族みたいだね」  雪がぽつりと呟いた。 ――俺は「家」を作る  幼い頃、父が仕事について語った言葉だ。  建築事務所なのだから家を建てるのは当たり前だろうと、春希は思っていた。  夏休みのアルバイトにこめた両親の想い、そして慰安旅行の意義。  いびきをかいて眠りこける男たちのために世話を焼く両親の背中を見ていると、父の言う「家」の意味が、分かってきたような気がした。 *  深夜。  古い木造の建物はひっそりとした寝息だけを内包している。  春希と雪は、旅館の中庭に面した縁側に並んで腰を下ろしていた。  自動販売機で買ってきたペットボトルのソーダを、二人で黙って傾ける。  炭酸の弾ける微かな音と、人工甘味料の甘い香りが、暗い庭先に溶けていく。  手元でペットボトルの水滴を指で拭いながら、雪が静かに口を開いた。 「あのさ、春希」 「ん」 「SNSで……小さい頃の僕が出てた、キッズチャンネルの動画、出回ってるでしょ」 「……」  春希はソーダの飲み口を喉から離し、隣の雪を見た。 「あれやってたの、僕の両親じゃない」 「え?」  ネットでは、雪の両親が搾取のためにモデルや動画に出演させていたと、さんざん叩かれていた。 「本当のお父さんとお母さんは……僕がまだ赤ん坊の頃に死んだの」  伏せられた長い睫毛が、中庭の薄明かりの中で微かに震えている。 「……」  春希の思考が一瞬だけ白く飛んだ。  なんて返せばいい。  軽はずみな慰めを口にするのは違う。  春希はただ、水滴をこぼすペットボトルを握りしめたまま黙り込むしかなかった。  沈黙の落ちた縁側で、雪はゆっくりと顔を上げ、春希へと視線を向けた。  薄闇の中で、雪の黒い瞳が庭の灯りを宿している。 「春希にだけは、知って欲しかったんだ。僕の、お父さんとお母さんのこと」  縁側の先、昼間あんなにもやかましかった蝉時雨が、黒く沈んだ木々の茂みに眠っていた。

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