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ep.23 夏の決意

 夏休みは、最後の一週間に入っていた。  その間、2ki_daysに思い出がたくさん追加された。  真夏の太陽を浴びて褐色に引き締まった春希の腕と、青い血管が透けそうに白く滑らかな雪の腕。対照的な二つの腕が並ぶ写真には、短いキャプションが添えられていた。 『労働の勲章 * #友達 #アルバイト』  結露した水滴がすのこの板を濡らす、麦茶が注がれた二つのガラスコップ。  熱海の海岸で撮影された、引き波の白い泡にさらわれる二人分の裸足のつま先。  机の上、白紙のノートの上で交差する二本のスチール製シャープペンシル。  顔も名前も明かされていない二人の素朴な夏休みの記録に、多くのハートが投げかけられた。  夏休みに入る前は百に届いて喜んでいたフォロワー数は、八月中旬を過ぎる頃には三百に増えていた。比例して、コメントの数も増えている。 『私も海にいきました』 『日焼けしないの羨ましい』 『Good friends! 』  どれも二人を見守るような優しいものが多い。  雪の容姿を消費するSNSや匿名掲示板とはまったく違う穏やかな世界が、できあがっていた。 *  牧野建築事務所でのアルバイトを終えた夕刻。  雪は一人、楠原高校の最寄りとも自身の暮らす施設の最寄りとも異なる、沿線の小さな駅で電車を降りた。  渋谷の雑踏からも遠く離れたその街の駅前には、小さな公園がある。  夕方のこの時間、すでに近所の子どもたちは帰っていて、公園に人気はなかった。  ぬるい夕風が草の匂いを運ぶ公園の片隅、木々に囲まれた古びたあずまやのベンチに、先客の姿があった。  落ち着いた仕立てのサマージャケットを羽織り、足を組んでスマートフォンを眺めている若く細身の女がいた。木製のテーブルの上には、コーヒーチェーン店のマークが入ったプラスチックカップが二つ並んでいる。  砂利をふみしめる雪の足音に気づき、女がふっと顔を上げる。 「遠野君」  女は笑顔で、立ち上がる。  雪は青いキャップのつばを軽く持ち上げ、頭を下げた。 「すみません、篠宮さん。わざわざ、ありがとうございます」  篠宮と呼ばれた女――渋谷で雪に声をかけたスカウトの一人――は、スマートフォンをバッグへ収めると、目元を緩めた。テーブルの上のカップの一つを、指先で静かに雪の方へと滑らせる。ラベルに「キャラメルラテ」と書いてあった。 「大丈夫よ。ひとりで渋谷は、まだ怖いわよね。それより、話をしたいって言ってくれて嬉しかったわ」  雪は対面のベンチに腰掛け、差し出されたカップを両手で包み込んだ。 「それで、お話って何かな。まだ不安なことや、分からないことがあれば、なんでも質問してね」  気さくに微笑んで、篠宮は自分の分のドリンクに口をつける。  それを見て、雪も勧められたドリンクのストローをくわえた。  キャラメルと生クリームを吸い上げて、ゆっくりと喉を鳴らして呑み込み、雪はまっすぐに篠宮へ視線を戻した。 「僕、どうしても譲れないことがあるんです」  篠宮がテーブルの下で、組んでいた足首を組み替えた。 「契約の内容で?」  かたわらに置いたレザーの鞄から、ファイルを取り出しかける。 「いえ。篠宮さんがどう思うか、聞きたいです」 「『私』が?」  篠宮はファイルを再び鞄へ押し込んだ。  両手を膝にそろえて、改まる。  あずまやを囲む木々が、夕風に揺れて葉音を立てた。  遠くの踏切が低い警報音を鳴らし始め、茜色から紫へと移り変わる空の下で、雪はしばらく言葉を探して口を噤んだ。 *  同じ日の、夜。  網戸越しの生温い風に混じって、気が早い秋の虫の微かな羽音が届き始めていた。  春希は自室のベッドに仰向けに寝転がり、2kiのアカウント画面を開く。  雪との日々をまるで祝福してくれているようなコメント、一つ一つに目を通した。  最近はなぜか、外国語のコメントも混在するようになっていた。  翻訳機能を通すと、「素敵な友情」「友情が長く続きますように」といった言葉が並ぶ。 「……」  春希はスマホをかたわらに伏せて置き、勢いよく上体を起こした。  Tシャツの裾を少し捲り上げ、自分の腹や胸、そして日に焼けた腕や足を順番に撫でてみる。夏休み前よりも確実に硬く、厚みを増していた。試しに腕を曲げ、力こぶを作ってじっと観察してみる。 「……何やってんだ」  ふと我に返り、ひどく照れくさくなって腕を下ろし、そのままベッドの縁に深く腰を下ろす。  足元へ手を伸ばし、床に転がっていた通学バッグを引き寄せた。  中からプリント類を挟んだままのクリアファイルを取り出す。  一番上に透けて見えているのは、夏休み前のホームルームで配られた二学期の予定表だ。九月には進路希望調査、さらに十二月には三者面談と印字されている。 「進路……」  春希はファイルを再びバッグの中へと突っ込んで、ベッドの上に放り出していたスマホを再び手に取った。AIアプリを起動して、チャットウィンドウに打ち込む。 『一級建築士のなりかた』  送信ボタンを押した途端にずらりと画面を埋め尽くす、文字列。 「うへ……」  文字の圧に思わず眉根を寄せるが、少しずつ画面をスクロールさせてテキストのつぶさに目を走らせた。 「『家』を作る……か」  かつて父親から聞いた言葉を、そのままなぞる。 「はぁ……」  大量の情報を眺めるのに疲れ、春希はメッセージアプリを立ち上げた。  連絡先に並ぶ姉・夏美の夏みかんのアイコンをタップし、短いテキストを打ち込む。 『今、話せる?』  送信した数秒後、画面が切り替わり、デフォルトの着信音が鳴り出した。  通話ボタンをスライドさせて耳に当てた瞬間、開口一番に呆れたような声が飛んでくる。 『彼氏か、あんたは』 「違うし。それより、聞きたいことがあんだけど」 『ちょうどいいわ、私も。先に聞く。それで、どうしたの?』 「進路のこと」  春希が短く返すと、スピーカーの奥で微かに衣擦れの音がした。 『あらあら。夏休みいっぱい、悩んだ?』  からかうトーンが、だんだんと母親の秋子に似てきたなと思いつつ、春希は「まあな」と否定せずに応じた。 「姉ちゃんは、どうやって決めたんだ」  八つ年上の姉・夏美は、中学生の早い段階から「メイクやスタイリストの仕事で生きていく」という目標を掲げ、高校を卒業すると同時にさっさと家を出ていってしまった。  幼い頃の春希の目には、ただの「せっかち」としか映っていなかったが、今となってはその決断と行動の速さに、尊敬と感心を覚え始めている。 『やりたい! って思ったら、やるしかないじゃない?』  あっけらかんとした声が、耳の奥を小気味よく叩く。 『新しい世界なんて、飛び込んでみないと分からないのよ。だったら、飛び込むのは早い方が良いって思ったの。下調べにばーっかり時間をかけて、理屈ばっかりこねてたら、結局何ひとつ進まないんだもの。あんたのことよ』 「う……」  痛いところを突かれ、春希は言葉を詰まらせた。 『入ってみてから「やりたい!」に変わってくるかもしれないし、入ってみないと「やりたい!」が見つからないかもしれない。少しでも引っかかるものがあるなら、それはチャンスのカケラよ。なら、やってみたら?』 「……」 『身体ばっかり大きくなっても、中身のないウジウジした奴は嫌われるわよ?』  これも図星を突かれた。  夏休み前よりも筋肉がついて体が大きくなって身長も伸びて、自信がついたような気になっていたのは、錯覚だったと思い知らされる。  弟の浅はかな悩みなんてすべてお見通し、とばかりに電波の向こうで肩をすくめる夏美の姿が見えそうだ。 『あんたと違って、雪君は思い切ったわね』 「……は?」  春希はベッドから身を起こした。 「なんでそこで、雪の話が」 『あれ、雪君から聞いてないの?』  電話の向こうで、夏美が短く息を呑む気配がした。「やっばい」という小さな独り言が漏れ聞こえる。 『あ〜……ごめん、今の忘れて〜』 「無理だし」 『……そうよね』  数秒の沈黙の後、夏美は諦めたように長いため息を吐いた。 『夏休み入ってちょっとした頃かな。雪君から電話があった。ほら、渋谷でご飯した時に名刺渡してたからだと思うけど』  夏美の話によれば、雪は「オフィス・シノミヤ」という芸能事務所の代表であり、あの日名刺を渡してきたスカウトのひとり・篠宮凛について、どんな人物なのか、業界での評判はどうなのかを細かく尋ねてきたのだという。 『特に口止めもされなかったから、てっきりあんたにも相談済みなんだと思ってたわ』 「……」  春希は返事を出せず、ただ息を止めた。  牧野建築事務所のバイトに応募があった時も、そうだった。  春希は何も知らず、父親の口から聞かされた。  施設で暮らしていることも、幼い頃のことも、全て外から知らされた。 『あれから仕事で、凛さんと一緒になることがあってね。雪君から連絡をもらったって、喜んでたのよ』 「……え」  スマートフォンを握る指先が、急速に冷えていく。 『私があんたに訊きたかったことも、雪君のことなの。凛さんの仕事ぶりはよく知ってるし、無茶な契約をするような人じゃないって分かってるけど、やっぱりちょっと気になっちゃってね。かといって本人にきくわけにもいかないし――』  夏美の弾丸のようなトークが、微小な電子音となって左耳から右耳へ流れて消えた。

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