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第7話 ただいま、おかえり

 二日後の休日、彰人は朔の荷物を取りに行くため車を出した。  駅の貸しロッカーから出てきたのは、使い古した黒いリュックサックひとつだった。中には下着とTシャツ、作業用の手袋、充電器、歯ブラシが入っている。どれも少しくたびれていたが、汚れてはいない。朔はそれを背負い、次は少し離れた場所にある収納スペースに行きたいと言った。  案内されたのは、幹線道路沿いに並ぶ小さな貸倉庫だった。朔が借りているのは、その中でも一番小さな区画である。渡された鍵で扉を開けると、奥にスポーツバッグと段ボール箱が一つずつ置かれていた。 「これだけか」 「これだけ」  スポーツバッグには、数枚の夏服と作業靴が入っていた。段ボール箱の中には、畳んだ冬服のほか、役所や病院でもらった書類をまとめた封筒、予備のタオル、使っていない調理道具が僅かに入っている。写真も、本も、誰かから贈られたと分かるものもなかった。 「全部持っていくのか」 「夏が終わったら、また戻すだろ。服だけでいいよ」  朔はスポーツバッグから数枚の服を取り出し、リュックサックに押し込もうとした。彰人はそれを止め、バッグごと持ち上げる。 「置く場所はある」 「でも、邪魔になる」 「部屋に住む人間の荷物があるのは当たり前だ」 「夏の間だけでも?」 「何が入用になるかわからんだろ」  朔は閉めかけた倉庫の扉に手を掛けたまま、彰人を見た。 「高瀬さんは、そういうところが変だな」 「お前に言われたくない」  段ボール箱は残し、衣類の入ったスポーツバッグだけを車に積んだ。  帰りに生活用品を買うため、近くの大型店に立ち寄った。彰人は洗面所で使うコップと歯ブラシ、朔の体格に合う部屋着、汗を吸う薄手のタオルを籠に入れる。朔は何度も、ロッカーから持ってきたものがあるからいらないと言ったが、歯ブラシの毛先が開き、タオルは洗いすぎて向こうが透けそうになっていた。 「まだ使える」 「使えるかどうかは、捨てる目安の一つでしかない」 「高瀬さん、物を大事にしないんだな」 「限界まで使うことを、大事にするとは言わない」  朔は納得していなかったが、彰人の持つ籠から商品を戻そうとはしなかった。  コップの売り場では、棚に並んだ中から最も安い透明なものを選んだ。彰人が無地のものや色の違うものもあると示しても、どれでもいいと答える。 「自分で使うものだ。選べ」 「水が入れば同じだろ」 「同じなら、今ここにある中から一つ選べるはずだ」  朔は困ったように棚を見回した。  どれが好きかと尋ねられること自体に慣れていないのだろう。値札を見ては安い方に目を移し、彰人が黙って待っていると、ようやく薄い青色のコップを手に取った。 「これなら、高瀬さんのと間違えない」 「それでいい」 「好きな色かは分からないけどな」 「使ってみれば、嫌いかどうかは分かる」  彰人は同じ色の歯ブラシも籠に入れようとしたが、朔がそれだけは白いものに替えた。 「同じ色で揃えるのは、何となく嫌だ」 「なら、白にしろ」 「選べって言ったのは高瀬さんだ」  朔の言うとおりだったため、そのまま会計を済ませた。  部屋に戻ると、彰人は居間の備え付け収納から衣装ケースを一つ引き出し、中身を空けた。上段にある段ボール箱には手をつけず、ケースに入れていた来客用のタオルや替えのシーツだけを寝室のクローゼットに移す。  朔の衣類は、空けた引き出しの半分にも満たなかった。 「まだ入るぞ」 「もうないよ」 「冬物は」 「収納スペースにある。夏が終われば出るのに、持ってきても仕方ないだろ」  朔はスポーツバッグの底に残った靴下を一組取り出し、引き出しの隅に置いた。それで本当にすべてらしい。  これまで訪ねた遺族の家では、死者が残した物が溢れていることも珍しくなかった。箪笥に入りきらない服、読みかけの本、集めていた食器、使いかけの化粧品。物が多ければその人間の生が豊かだったとは限らない。それでも、誰かが一つの場所で生きれば、必ず何かが残る。  朔が地元を離れてからの四年間に残ったものは、どれも両手で運べる程度だった。 「洗面所、借りるな」  衣類を収めた朔が、新しいコップと歯ブラシを持って立ち上がった。 「毎日使う場所に、いちいち許可を取らなくていい」 「……分かった」  返事はしたものの、朔が本当に分かったかは怪しかった。  洗面台には、彰人の黒いコップが一つ置かれている。朔はその隣に薄い青色のコップを並べ、白い歯ブラシを立てた。位置を何度か直したあと、彰人のものに触れない程度の隙間を残して手を離す。  彰人は何も言わなかった。  そこに二人分あることを、朔自身が見慣れるまで待てばいいと思った。  同居を始めて一週間が過ぎる頃には、二人の間にいくつかの決まりができていた。  朝は彰人の方が早く起きる。朔に仕事があれば二人分の朝食を作る。朔は帰宅予定の時刻をメッセージで知らせ、彰人より早く戻った日は米を研ぐ。遅くなる日は、夕食はいらないと連絡する。  掃除は気づいた方がすることにしたが、朔は自分が使った場所をそのまま残しておくことが嫌なのか、彰人が帰宅した時には大抵片づいていた。一方で、洗った食器をどこに戻すかは何度教えても間違えた。記憶を失ってから長く同じ家に住んだ経験がなく、食器の配置を覚えることに意味を見いだしていないようだった。 「藤代、醤油はどこに置いた」  夕食を作っていた彰人が尋ねても、返事がない。  居間を見ると、朔はソファに座り、仕事先から持ち帰った書類に目を通している。 「藤代」  二度目に呼ぶと、ようやく顔を上げた。 「俺?」 「ほかに藤代がいるのか」 「悪い。まだ慣れない」  朔は立ち上がり、醤油を入れたらしい棚を開けた。そこには砂糖と塩が並んでいるだけで、目当てのものはない。次に冷蔵庫を開け、野菜室から醤油差しを取り出した。 「どうしてそこに入れた」 「冷やした方が長持ちするかと思って」 「醤油差しは毎日使う。冷蔵庫に入れるのは詰め替える方だ」 「そうなのか」  朔はまた一つ覚えたように頷き、彰人に手渡した。 「呼ばれ方も、そのうち覚えろ」 「高瀬さんが毎日呼んでくれたら、慣れるかもな」  何の含みもなく言ったのだろう。  彰人は醤油差しを受け取り、鍋に目を戻した。 「必要があれば呼ぶ」 「それじゃ、あまり早くは慣れそうにない」  朔の声には笑いが混じっていた。  彰人は返事をせず、味を確かめるため煮汁を小皿に取った。  その日の夜、彰人は仕事の連絡を受けて外に出た。  自宅で亡くなった人を迎えに行き、安置施設で家族と打ち合わせをする。すぐに終わると思っていたが、遠方に住む親族との連絡がつかず、会社を出た時には日付が変わりかけていた。  車に乗ってから、朔に何も知らせていなかったことを思い出す。  夕食は一緒に済ませており、帰りを待つ理由はない。朔はもう眠っているだろう。それでも決めた以上は連絡しておくべきかと画面を開くと、二時間ほど前にメッセージが届いていた。 『何時に帰る?』  続けて、一時間前にも届いている。 『仕事なら返事はいらない。鍵はかけておく』  彰人は今から帰ると打ち、車を出した。  深夜の道路は空いていた。昼間の熱はまだアスファルトに残っているが、窓の外を流れる風には僅かな涼しさがある。信号で止まるたびにスマートフォンを見たものの、朔から返事はなかった。  部屋に着くと、玄関の明かりが点いていた。  居間の冷房は弱く動き、ソファの前に敷いた布団で朔が眠っている。掛け布団は腹から落ち、片腕だけがフローリングに投げ出されていた。テーブルには読みかけの新聞と、半分ほど水の残ったコップがある。  起こさないよう靴を脱いだつもりだったが、鞄を置く音で朔の瞼が動いた。 「……高瀬さん?」 「起こしたか」 「今、帰った?」 「ああ。連絡を忘れた。悪かった」  朔は寝返りを打ち、枕元に置いていたスマートフォンで時刻を確かめた。眠気の残る顔を片手で擦りながら、ゆっくり上体を起こす。 「遅かったな」 「仕事だ」 「分かってる。黒い服で出ていったから」  朔は彰人の礼服に目をやり、もう一度欠伸を噛み殺した。 「先に寝ていればいいだろう」 「寝てたよ」 「玄関の明かりは」 「暗いと、帰った時に困るかと思って」  その程度のことだった。  朔は彰人を待っていたわけではない。帰宅時刻を尋ねたのも、何かあったのではないかと心配したからではなく、戸締まりをするためだったのかもしれない。玄関の明かりも、暗い部屋に帰る彰人のためにつけただけで、特別な意味などない。  それでも、彰人はしばらく何も言えなかった。 「腹は減ってない?」 「夕食は食べただろう」 「仕事で遅くなったなら、少しくらい食べるかと思って。昼のうどんが残ってる」 「いらない。水だけ飲む」 「分かった」  朔は立ち上がりかけたが、彰人が自分で取ると言うと、素直に布団に戻った。薄い掛け布団を拾い上げ、横になりながら彰人を見上げる。 「あ、忘れてた……おかえり」  今度は、朝のように聞き流すことができなかった。 「……ただいま」  短く返すと、朔は満足したように目を閉じた。  彰人は台所で水を飲み、居間の明かりを一つ消した。洗面所には二人分のコップが並び、玄関には見慣れない作業靴があり、ソファの前には朔の布団が敷かれている。  つい一週間前まで自分一人のものだった部屋に、少しずつ別の人間の生活が増えていた。  彰人は廊下の明かりだけを残し、寝室の扉を閉めた。

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