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第6話 二人の食卓
その日の朝、彰人 は冷蔵庫から卵を二つ取り出した。
昨夜は病院から戻った時刻が遅く、朔 には水を飲ませただけで眠らせてしまった。熱中症のあとで胃が弱っている可能性を考え、米は昨夜のうちに炊飯器に入れ、炊き上がる時刻を予約してある。冷凍していた刻み葱を味噌汁に入れ、卵は油を控えて柔らかく焼いた。冷蔵庫に残っていた胡瓜の浅漬けを小皿に盛り、二人分をテーブルに並べる。
朔は、その一部始終を台所の入口に立って見ていた。
「座っていろ」
「何かすることはない?」
「昨日倒れた人間が、朝から働こうとするな」
「もう熱はないよ」
「飯を食ってから言え」
彰人に促され、朔はようやく椅子を引いた。借りたTシャツの袖を一度折り返し、目の前に置かれた朝食を眺める。礼を言って箸を取ったものの、すぐには口に運ばなかった。
「食べられないのか」
「いや。朝からこんなに出てくると思わなかった」
「多いなら残せ」
「食べるよ」
朔は味噌汁をひと口飲んだあと、今度は止まることなく食べ始めた。急いでいるようには見えないのに、茶碗の中の米が減るのが早い。彰人がまだ半分も食べ終えていないうちに、朔は最後の浅漬けまで口に入れ、空になった器を前に置いた。
「足りないか」
「十分。ごちそうさま」
「なら、もう少しゆっくり食え」
「癖なんだ。仕事の休憩が短い時もあるから」
言われるまで、自分が早く食べていることにも気づいていなかったらしい。朔は気まずそうに笑い、残っていた水を飲んだ。
彰人は箸を動かしながら、今日の予定を頭の中で組み直した。本来なら七時半には家を出る。出勤時刻まではまだ余裕があるが、朔を部屋に残すなら、自由に出入りできるよう鍵を持たせなければならない。
「今日は仕事を入れるな」
「もう探さないと、間に合わないと思う」
「なら、ちょうどいい。昨日の今日で働きに出るな。昼も冷蔵庫にあるものを食え」
「高瀬さんは?」
「仕事だ。帰りは七時を過ぎる」
朔は頷き、テーブルの端に置いていた自分のスマートフォンを見た。欠けた画面に新しい通知はない。今日の仕事を逃したことより、何も予定がないまま彰人の部屋に残される方が落ち着かないのか、指先が意味もなくケースの縁をなぞっている。
食事を終えた彰人は、食器を流しに運び、居間の棚にある小さな引き出しを開けた。中には印鑑や予備の電池と一緒に、使っていない鍵が一本入っている。以前、交際していた女性に渡そうと合鍵を作り、結局その機会がないまま残っていたものだった。元恋人のために用意したことさえ、今の今まで忘れていた。
「これを持っていろ」
テーブルの上に置くと、朔はすぐに手を伸ばさなかった。
「合鍵?」
「俺がいない間に出るなら必要だろう。閉じ込めておくわけにはいかない」
「墓地で会ってから、まだ一か月も経ってないのに」
「盗むものを探すつもりか」
「高く売れそうなものは見当たらないな」
「なら問題ない」
冗談を返されたことが意外だったのか、朔は僅かに目を見開いた。それから鍵を取り上げ、掌の中で裏返す。どこにでもある銀色の鍵を、受け取った金でも確かめるように長いあいだ眺めていた。
「無くすな。出かける時は戸締まりを確認しろ。帰りが遅くなるなら連絡しろ」
「何時からが遅い?」
「夕食までに戻らない時だ」
「高瀬さんが飯を作るの?」
「俺が先に帰ればな」
「毎日?」
「毎日食べるだろう」
当たり前のことを言ったつもりだったが、朔は返事をしなかった。鍵を握ったまま、彰人の顔を見ている。
「何だ」
「いや。分かった」
朔はようやく鍵を短パンのポケットに入れた。
彰人は使い終えた食器を洗い、出勤の支度をするため寝室に戻った。扉を閉めてワイシャツに袖を通しながら、居間に見知らぬ男を残して仕事に行こうとしている自分の判断を改めて考える。晴希の死について知るためとはいえ、部屋に住まわせる必要まではなかった。昨夜倒れていた朔を一晩休ませ、朝になれば約束どおり出ていかせることもできた。
それでも、出ていけとは言えなかった。
暑さにやられて墓石の陰に座り込み、五日前には知らない男に金で体を売り、昨日は朝に水を飲んだきり、夕方には倒れた。放っておけば、次に会う時には生きている保証すらないように思えた。その状態で記憶だけを探らせることが、彰人にはできなかった。
それが自分のためなのか、朔のためなのかは、まだ考えないことにした。
黒いネクタイを締めて居間に戻ると、朔は朝食の食器を洗っていた。止めるほどのことでもなく、彰人は鞄を持って玄関に立つ。
「洗濯機は使っていい。洗剤は棚の上だ。風呂に入るなら、気分が悪くなった時のために扉は閉めきるな」
「分かった」
「昼は必ず食え。水も飲め」
「分かったって」
「何かあれば連絡しろ」
朔は濡れた手をタオルで拭きながら、台所から顔を出した。
「高瀬さん、世話焼きって言われない?」
「言われたことはない」
「それ、周りが遠慮してるのかも」
彰人は靴を履き、玄関の扉を開けた。冷房の届かない共用廊下には既に朝の熱気が溜まり、室外機の風が足元に吹きつけてくる。振り返ると、閉まりかけた扉の隙間から、自分以外の人間がいる部屋の明かりが見えた。
その光景に妙な気分になりながら、彰人は扉を閉めて鍵をかけた。
午前中に一本、朔からメッセージが届いた。
『洗濯物、ベランダに干していい?』
告別式を終え、火葬場に移動する車内でそれを読んだ彰人は、好きにしろとだけ返した。送信してから、洗濯をしてもいいと自分で言ったことを思い出す。いちいち許可を求めなければ何もできないほど、朔にとってあの部屋は他人の場所なのだろう。
当然だった。
彰人自身、今朝までは一人で暮らす場所だと思っていた。
昼過ぎには、冷蔵庫にあったうどんを食べたという報告が来た。写真まで添えられており、白い丼の横には空になった水のボトルが置かれている。水を飲めと言いすぎた当てつけにも見えたが、少なくとも食事と水分を取っていることは分かった。
『薬味が葱しかなかった』
『文句があるなら自分で買え』
『買っていいのか』
『必要なものならな』
そこまで返したところで次の打ち合わせが始まり、彰人はスマートフォンを伏せた。
退勤したのは、朔に伝えた時刻より少し早かった。会社を出る前に画面を確かめたが、新しい連絡はない。鍵を渡した以上、朔がどこに行こうと自由であり、今夜必ず戻ると約束したわけでもなかった。仕事を探すために出かけ、そのまま別の宿を見つければ、合鍵だけ郵便受けに残していくことも考えられる。
そうなれば、それまでである。
彰人は自分に言い聞かせながら車を走らせた。
帰宅して玄関の鍵を回すと、内側から包丁の音が聞こえた。
一定の速さで何かを刻む音に混じり、換気扇が低く唸っている。靴を脱いで廊下を進むと、台所に立っていた朔が振り返った。借りたTシャツではなく、洗って乾かした自分の服に着替えている。
「おかえり」
彰人は足を止めた。
長く一人で暮らしてきた部屋で、その言葉を聞くのは久しぶりだった。実家を出たあとは恋人と暮らしたこともなく、帰宅すれば暗い部屋に明かりをつけるのが当たり前になっていた。けれど今は居間の照明が点き、冷房が動き、台所には知らないうちに買い足された生姜の袋が置かれている。
「何をしている」
「見れば分かるだろ。飯」
「勝手に冷蔵庫のものを使うな」
「買っていいって言ったから、足りない分は買ったよ。冷蔵庫の肉、今日までだった」
朔が顎で示した先には、切った野菜と豚肉がフライパンに入っていた。確かに昨夜使うつもりで買っておいたもので、病院に連れていったため残っていた。捨てるよりはいいが、彰人が言いたいのはそういうことではない。
「料理はできるのか」
「焼くか煮るかくらいなら。食えればいいだろ」
「味見はしたのか」
「まだ」
彰人は鞄を置き、ワイシャツの袖を捲った。朔の手から菜箸を取り上げると、フライパンの中身を混ぜ、端に寄せた肉に火が通っているかを確かめる。
「生姜は最後に入れろ。今から全部入れたら香りが飛ぶ」
「そんなことまで気にするのか」
「食べるなら、うまい方がいい」
「同じ腹に入るのに」
「食事は栄養補給のためだけにあるんじゃないだろ」
朔は大人しく場所を譲ったが、台所から離れようとはしなかった。彰人が調味料を足す様子を隣で見ながら、使い終えたまな板と包丁を洗っている。狭い台所に成人男性が二人並べば、少し動くだけで肩や腕がぶつかりそうになる。彰人が奥の皿を取ろうとするたび、朔は流しに身を寄せて道を空けた。
「座って待っていろ」
「それだと、本当に何もしてない」
「昼に洗濯をしただろう」
「自分の服を洗っただけだ。泊めてもらう分には足りない」
彰人は火を止め、朔を見た。
「家事は宿代じゃない」
「じゃあ、何もしなくていいのか」
「自分が使ったものは片づけろ。汚したら掃除しろ。食事を作った方が、作っていない方の分も作る。それでいい」
「高瀬さんが作る方が多くなりそうだな」
「嫌なら覚えろよ」
「分かった。生姜は最後」
朔が僅かに笑う。その返事で十分だった。
二人で作ったというほどのものではない夕食を、向かい合って食べた。朔が先に炒めた肉は少し硬く、彰人が足した調味料は生姜の量を誤って辛かったが、食べられないほどではない。朔は朝と同じ速さで平らげようとして、途中で彰人の視線に気づくと、意識して箸を置いた。
「遅く食べるの、難しいな」
「よく噛め」
「子どもじゃない」
「子どもでもできることをしてから言えよ」
朔は不満そうに眉を寄せ、それでも次のひと口は先ほどより長く噛んだ。
食後の皿は朔が洗い、彰人が拭いて棚に戻した。どこに何を置くのか説明しながら、明日以降のことを決める。朔は体調が戻れば日雇いの仕事に行く。仕事先と帰宅予定の時刻が分かった時点で連絡する。食事がいらない日も知らせる。部屋に他人を入れない。彰人の寝室には勝手に入らず、閉まっている収納は開けない。
「高瀬さんも遅くなる時は連絡する?」
「なぜ俺が」
「飯を作る方が、作ってない方の分も作るんだろ。帰らないのに二人分作ったら困る」
もっともな指摘だった。
「分かった。遅くなる時は連絡する」
「これで同じだな」
「何が」
「俺だけ報告するんじゃないなら、監視されてる感じがしない」
図星を刺された気がして、彰人は拭いた皿を棚に置く手を止めた。朔を近くに置く理由のひとつは、確かに監視だった。どこに行き、誰と会い、何を思い出すのかを知りたい。記憶を失ったという話に不自然な点がないか、日々の様子から確かめたい気持ちもある。
しかし、それを共同生活の決まりとして朔に守らせながら、自分だけ自由に振る舞えば、監視以外の何ものでもなくなる。
「男と会う時も、連絡した方がいい?」
朔が何でもない調子で尋ねた。
彰人は皿を棚に戻し、扉を閉めた。
「夕食がいらないなら、理由までは書かなくていい」
「止めないんだな」
「止める権利はない」
答えるまでに僅かな間が空いた。
ホテルの前で朔に触れていた男と、折り畳まれて渡された紙幣が脳裏に浮かぶ。ここに住むなら、少なくとも宿代のために知らない男についていく必要はなくなるはずだった。それでも日雇いの仕事が途切れれば、朔は同じことをするのだろう。彰人に寝床を借りている分、別の何かに金が必要だと言い、これまでどおり自分の体を使う。
「ただ、連絡が取れなくなるのは困る。四日も連絡を途絶えさせるな」
「心配した?」
「記憶を調べる相手に消えられたら、今までの時間が無駄になる」
「そういうことにしておくよ」
朔は追及せず、洗った布巾を絞った。
体で払えばいいかと尋ねた時と同じように、拒まれても傷ついた顔はしない。彰人の答えがどちらであっても、朔にとっては条件の確認に過ぎないのだろう。だが、連絡を求めた言葉には、ほんの少しだけ嬉しそうに目を細めた。
その違いを、彰人は見なかったことにした。
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