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第5話 夏の間だけ

 その夜から、朔とは四日間連絡が取れなかった。  こちらから送ったメッセージは既読にならず、電話をかけても呼び出し音が続くだけだった。仕事が入れば携帯電話を見ないこともあると聞いていたため、初めの二日は気にしないようにした。三日目には、駅前のネットカフェまで車を走らせかけてやめた。そこに泊まっている保証はなく、四日前に送り届けた時にも、翌日の夜には別の場所に移るかもしれないと言っていた。  四日目の午後、短い返事が届いた。 『今日なら会える』  その前に彰人が送ったのは、新しく見つけた写真を見せたいという内容だった。何事もなかったような返事に腹を立てるべきか、無事だったことに安堵した自分を認めるべきか分からないまま、彰人は仕事を終える時刻と待ち合わせの場所を送った。  待ち合わせには、朔の方が先に来ていた。  夕方六時を過ぎても空は明るく、駅前の広場には西日を避ける場所がほとんどない。建物の長い影が歩道の端に届き始めているのに、広場の中央にある温度計は三十五度を示していた。噴水は節水のため止められ、乾いた底に風に飛ばされた紙屑が貼りついている。街路樹から落ちる蝉の声が、行き交う人々の足音やバスのエンジン音に重なり、夕方とは思えない熱気を掻き回していた。  朔は、その止まった噴水の縁に座っていた。  俯いた首筋を汗が伝い、膝に置いた両手は力なく開いている。彰人が近づいても顔を上げず、肩に触れたところでようやく瞼が動いた。 「藤代」  呼ぶと、反応が僅かに遅れた。 「……高瀬さん」 「いつからここにいた」 「分からない。少し早く着いたから」  声が掠れている。頬には熱による赤みがあるのに、唇は白く乾いていた。彰人は額に手を当て、墓地で再会した日の熱を思い出す。あの時よりも汗が少ないことが、かえって悪い兆候に思えた。 「立てるか」 「たぶん」 「水は飲んだのか」 「朝に」 「朝から今まで飲んでいないのか」  返事はなかった。  彰人は朔の腕を自分の肩に回し、腰を支えて立たせた。長い脚に力が入らず、体重の大半が彰人に預けられる。周囲の目を気にしている場合ではなかった。駐車場までは遠くない。朔の呼吸と足取りを確かめながら歩かせ、助手席に座らせると、車内に残っていた水を少しずつ飲ませた。 「病院に行くぞ」 「そこまでじゃない」 「自分で判断するな」 「保険証、荷物の方にある。今持ってない」 「金の話はしていない」  朔はそれ以上逆らわなかった。  近くの夜間診療を受け付けている病院に連れていくと、診断は軽度の熱中症と疲労だった。点滴を受け、水分を取れることを確認されてから帰された時には、外はすっかり暗くなっていた。  医師には今夜は涼しい場所で休み、体調が悪化すればすぐに受診するようにと言われた。朔はいつものネットカフェに行くと言ったが、彰人は聞かなかった。 「一晩だけ、俺の家に来い」 「いいのか」 「よくないから、明日の朝には出ていけ」 「分かった」  助手席で目を閉じたまま、朔は小さく笑った。  その横顔に、信号待ちの赤い光が断続的に落ちる。彰人は前を向き、ハンドルを握り直した。  彰人の部屋に着いた頃には、午後十時を回っていた。  玄関の明かりをつけ、朔を居間のソファに座らせる。冷房は帰宅に合わせて動くよう設定していたため、外から入った直後にはひやりとするほど冷えていた。朔は借りたタオルで汗を拭き、彰人が出した水を飲んだあと、背もたれに深く体を預けた。 「風呂はやめておけ。シャワーも明日の朝でいい」 「汗臭くない?」 「誰も気にしない」 「高瀬さんがいるだろ」 「俺は気にしない」  着替えとしてTシャツと短パンを渡すと、朔は洗面所でそれに着替えた。戻ってきた姿を見て、彰人は自分の選択が間違っていたことに気づく。Tシャツは肩こそ合っていたが、丈が長く、短パンも腰紐を締めなければ落ちそうだった。 「大きいな」 「見れば分かる」  朔は袖を一度折り、借りた服の裾に目を落とした。彰人は着替えを探し直すほどでもないと判断し、寝室のクローゼットから来客用の布団を取り出した。  居間の床に敷き、枕元に水と体温計を置く。朔は何か手伝おうと立ち上がりかけたが、彰人に睨まれると大人しく横になった。薄い掛け布団を腹に掛けると、礼を言うより先に目を閉じる。眠りに落ちるまでに時間はかからなかった。  彰人は向かいのソファに座り、その寝顔をしばらく見ていた。  冷房の風で栗色の髪が僅かに揺れている。顔色は病院を出た時よりも戻っており、呼吸にも苦しそうなところはない。体温を確かめる必要はもうないと分かっていたが、額に手を伸ばしかけてやめた。  一晩だけでいい。  今夜、涼しい部屋で眠らせ、朝になれば出ていかせる。朔がどこでどのように暮らしていようと、それ以上は彰人の知るところではない。朔を近くに置いて監視しなければならない理由も、まだない。  そう言い聞かせ、彰人は寝室に入った。  扉を閉めても、居間にもう一人の人間がいる気配だけは消えなかった。  翌朝、目を覚ました時には、部屋の中に食器の触れ合う音がしていた。  彰人は枕元の時計を見た。午前六時を少し過ぎている。いつもの起床時刻より早い。寝室を出ると、朔が流しの前に立ち、昨夜使ったコップを洗っていた。彰人のTシャツと短パンを着たまま、洗ったものを置く場所が分からないらしく、濡れたコップを手に室内を見回している。 「何をしている」 「起きたのか。昨日の分くらい片づけようと思って」 「体調は」 「もう平気。熱もない」  声にも昨夜の掠れはなかった。彰人が体温計を渡すと、朔は不満そうにしながらも脇に挟んだ。電子音が鳴るまでの間、窓の外では早朝から鳴き始めた蝉が、閉めたカーテン越しにも近く聞こえている。  三十六度六分。平熱だった。 「服、洗っていい? 乾いたら出ていく」 「どこに」 「仕事を探しに行く。今日はまだ間に合うかもしれない」 「昨日倒れたばかりだろう」 「今日は屋内の仕事にするよ」  朔は当たり前のように答え、洗面所に向かおうとした。 「待て」  呼び止めると、素直に足を止める。その背中を見ながら、彰人は何を言うつもりだったのか自分でも分からなくなった。  外は朝から強い日差しが降り注いでいる。天気予報では、この暑さが少なくともあと二週間は続くと言っていた。今日だけ屋内の仕事を選んだところで、明日はどうなるか分からない。夜になれば、また冷房の効きも怪しいネットカフェや、金の足りない日は別の男のところに行くのだろう。  朔が倒れれば、記憶について聞くこともできなくなる。  手元に置けば、これまでよりも様子を見やすい。記憶を失っているという話が本当なのか、日々の暮らしの中で確かめることもできる。ホテルの前で感じた怒りの理由も、朔が晴希の名と自分の体を粗末に扱うところを見せられ続ければ、いずれ分かるかもしれない。 「暑さが和らぐまで、ここにいろ」  考えがまとまるより先に、言葉が出た。  朔は振り返った。驚いた顔をしていたが、すぐには何も言わず、彰人の続きを待っている。 「このまま出ていって、また倒れられる方が面倒だ。仕事に行くのは止めない。ただし、食事と寝る場所はここにある。昨日みたいな状態になる前に帰ってこい」 「高瀬さんは、そこまでして何が知りたいんだ」  静かな問いだった。  彰人は一瞬、答えに詰まった。晴希の死について知りたい。それが初めからの目的である。けれど、それだけなら朔の食事や寝床まで用意する必要はない。資料を見せ、思い出したことを聞くだけで足りる。 「お前が何を思い出すのか、最後まで確かめたい」  嘘ではない答えを選んだ。  朔は、冷房の音だけが響く部屋の中でしばらく彰人を見つめていた。その目に疑いがないわけではない。それでも自分に向けられた厚意をどう受け取ればいいのか分からず、真意を推し量る術も持っていないように見えた。 「暑さが和らぐまでって、いつ?」 「九月に入れば、今よりはましになるだろう」 「じゃあ、夏が終わるまで」 「勝手に期限を延ばすな」 「九月までなら同じだろ」  朔はほんの少し笑った。その顔に昨夜までの疲れが残っているのを見て、彰人はそれ以上言い返さなかった。 「部屋代はどうする」 「いらない」 「飯も?」 「一人分も二人分も、大して変わらない」 「変わるだろ。俺、金はあまり持ってない。家のことをするか、それとも」  朔は一度言葉を切った。  彰人が続きを促す前に、借りたTシャツの裾を指で摘み、何でもないことのように言う。 「体で払えばいい?」 「ふざけるな」  低い声が、狭い台所に響いた。  朔の指が止まる。冗談を拒まれた顔ではなかった。条件を提示し、それが相手の希望に合わなかったことを確かめただけの、静かな目をしている。 「そういうつもりで置くんじゃない」 「じゃあ、どういうつもり?」  答えられる言葉はなかった。  監視するためだと言えばいい。それなら朔の体も金も必要なく、彰人が寝床を与える理由として一応の形はつく。だが、晴希の兄であることを伏せたまま、その本当の目的を明かすことはできない。  何も受け取らずに他人を住まわせる理由を、朔は知らない。彰人自身にも、すべてを説明できなかった。 「嫌なら、出ていけばいい」  結局、口にできたのは引き留める言葉とは反対のものだった。  朔は少しのあいだ黙っていた。やがて手にしたままだった濡れたコップを流しの脇に置き、カーテンの隙間から差し込む朝の光に目を向ける。 「嫌とは言ってないよ」  窓の外では、今日も蝉が鳴いている。  夏はまだ、始まったばかりだった。

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