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第4話 何も持っていない男

 最初に見つけた新聞記事には、三枝(さえぐさ)晴希(はるき)の名は載っていなかった。  五年前の八月、市内を流れる川で、川沿いにいた高校二年生の男子生徒二人が岸の崩落に巻き込まれ、川に転落したこと。一人は搬送先の病院で死亡が確認され、もう一人は近くにいた人に救助されて命に別状はなかったこと。前日までの雨で地盤が緩み、川の水量も増していたことから、警察は事故と見て調べていること。地元紙の片隅に収まった短い記事は、それだけを伝えていた。  活字になった晴希の死は、彰人(あきひと)が覚えているあの日よりも随分と簡潔だった。  救急車の赤色灯も、濡れた河原に集まった野次馬も、病院の廊下で泣き崩れた母親の声もそこにはない。弟の体が見つかるまで川下を走り、何度も名前を呼んだ自分のことも、救助されたあと、毛布に包まれたまま「俺が殺した」と繰り返していた(さく)のことも、亡くなった生徒と救助された同級生という二つの言葉に置き換えられている。 「これが、その人の事故?」  隣から伸びた指が、複写した紙面の上に落ちる。 「時期と年齢は合っている。場所も、この辺りだ」  彰人は記事の下に印刷された川の名を指した。自分の弟だとは言わない。記事を見つけた経緯も、市立図書館の新聞データベースで死亡した年とおおよその場所を絞り込んだことにしてある。朔はその説明を疑わず、古い活字を目で追った。  七月半ばの日曜日だった。図書館の閲覧席はよく冷えており、窓の外で立ち並ぶ欅の葉だけが白い光に晒されている。夏休みに入った子どもたちの声もこの階までは届かず、時折、本を棚に戻す台車の車輪が床を擦る音がするほかは静かだった。  喫茶店での約束から、彰人と朔は何度か会っていた。  平日の仕事帰りに古い住宅地図を広げたこともあれば、休日の午後を郷土資料室で過ごしたこともある。彰人は五年前の町並みを写した写真集や当時の広報誌、地方版の新聞記事を探し、朔の前に一つずつ置いた。既に取り壊された駅前の映画館、夏祭りの提灯が並ぶ商店街、制服姿の生徒たちが行き交う通学路。朔はどれも長いあいだ眺めたが、ここに来たことがある、誰かと歩いたことがあるという記憶には辿り着かなかった。  ただ、何も感じていないわけではないらしい。  写真に写った道の先を、紙面の外まで追うように目で辿ることがある。昔の駅舎を見て、改札を出れば右側に小さなパン屋があった気がすると言ったこともあった。五年前の住宅地図を見せれば、知らないはずの町の一角に指を置きかけ、その理由を尋ねる前に手を引っ込めた。  どれも記憶と呼ぶには曖昧だった。  朔自身も、写真から想像しただけかもしれないと笑い、無理に意味を与えようとはしなかった。彰人だけがその一挙一動を見逃すまいとし、朔の視線が止まった場所や、記事を読んで呼吸が変わった瞬間を覚えていた。  今日の朔は、川という文字を見ても喫茶店の時のように動きを止めなかった。  記事の隅から隅まで読み終え、もう一度初めに戻る。救助された同級生という一文を指先でゆっくりとなぞり、やがて小さく息を吐いた。 「一緒にいた同級生、俺かもしれないな」 「何か思い出したのか」 「何も。五年前で、同い年で、この事故があった年に俺は記憶をなくした。それなら、そう考える方が自然だろ」 「同じ頃に起きた別の事故かもしれない」 「高瀬さんは、そう思ってる?」  彰人は答えず、机の上に並べていたほかの資料に手を伸ばした。朔はその横顔をしばらく見ていたが、追及はしなかった。  記事の中には、朔が咄嗟に晴希の腕を掴んだことも、救助されたあとに何を口にしたかも書かれていない。警察が事件性のない事故だと結論づけた以上、新聞に載るはずもなかった。それでも朔が本当に何も覚えていないのなら、事実を少しずつ与えることで、どこかに閉じ込められた記憶が開くのではないかと思っていた。  けれど、今のところ戻ったものはない。  彰人の方が、朔と会うたび新しい事実を知るばかりだった。  日雇いの仕事は、工場や倉庫での仕分け、建設現場の片づけ、催事の設営など、その日によって違うらしい。前日の夜に仕事が決まることもあり、待ち合わせの時刻は毎回朔の都合に合わせた。作業服のまま現れた日は髪に細かな埃をつけており、別の日には炎天下で資材を運んだという腕を赤く日焼けさせていた。どの仕事が得意なのかと尋ねても、雇ってもらえるものなら何でもいいとしか答えない。  住んでいる場所も、同じだった。  資料を郵送するから住所を教えろと言った時、朔は受け取れる住所はないと答えた。駅の近くに部屋を借りているのではなく、仕事が続く間だけ会社の用意した寮に入り、それ以外は安い宿やネットカフェを転々としている。荷物は駅の貸しロッカーと、月極の小さな収納スペースに預けており、季節が変われば不要になった服を捨てるのだという。 「十八で地元を離れてから、ずっとそんな暮らしなのか」 「ずっと同じ町にいたわけじゃないけどな。仕事があれば、その近くで暮らす」 「住民票は」 「置かせてもらってるところはある。仕事の書類に必要だから」 「誰の家だ」 「昔世話になった人。でも、住んでない」  その人間が家族なのか、友人なのかは、朔自身も詳しく話そうとしなかった。彰人もそこまでは尋ねなかったが、定まった帰る場所を持たず、仕事の有無に合わせて町を転々とする生活が、朔にとって特別なものではないことだけは分かった。  根を下ろす場所がなければ、失うものも増えない。  朔がそう考えているのかは分からない。ただ、所有物の少なさも、明日の予定が決まっていないことも、自分の名が自分のものではないことと同じように受け入れている。その身軽さを自由だとは、彰人には思えなかった。 「これ、持って帰っていい?」  朔の声で我に返る。指しているのは、事故の記事を複写した紙だった。 「構わない」 「読んでたら、あとで何か出てくるかもしれない」  朔は紙を半分に折ろうとして、彰人に止められた。代わりに持ってきていた透明なファイルに収めて渡す。資料はまとめて彰人が持ち歩いていたため、朔は受け取ったファイルの置き場に困るように両手で持った。 「鞄はないのか」 「今日は荷物を増やしたくなかったから」 「紙一枚も持てない方が不便だろう」 「そうだな。途中で袋を買うよ」  彰人は自分の鞄から手提げの紙袋を取り出し、ファイルを入れて渡した。仕事先で使った菓子折りの空袋だったが、素手で持ち歩くよりはましである。 「高瀬さん、本当に何でも持ってるな」 「お前が何も持っていないだけだ」  朔は否定せず、紙袋の持ち手に指を通した。  空調の風が机の上を撫で、新聞の複写を僅かに揺らす。外は雲ひとつない晴天だった。窓の下に広がる駐車場では車の屋根が陽光を弾き、欅の影に逃れた人々が、そこから出るのをためらうように足を止めている。  彰人は腕時計を見た。午後三時を少し過ぎている。図書館を出たあとに食事に誘う理由を探しかけ、やめた。朔の暮らしがどれほど不安定であっても、十八歳で地元を離れてから四年ほど、彼自身が続けてきた生活である。記憶を調べるという約束を越えて、彰人が口を挟むことではない。  そう考えながら、朔が朝から何も食べていないと知った時には、結局近くの定食屋に連れていった。  それから五日後、彰人は駅裏のホテルから出てくる朔を見た。  夜の九時を過ぎていた。仕事で使う備品を取りに会社に立ち寄った帰り、駅前の大通りが事故で混んでいると知り、普段は通らない道に車を入れた。線路沿いには小さな飲食店と古いビルが並び、その裏手に入ると、看板だけを明るく灯した宿泊施設がいくつも肩を寄せ合っている。昼間の熱を吸った壁からは夜になっても温気が立ちのぼり、開けた窓から入り込む風は、排気と油の匂いを運ぶばかりで少しも涼しくなかった。  赤信号で車を止めた時、歩道に出てきた二人連れが目に入った。  一人は五十代ほどの男だった。半袖のシャツから出た腕はよく日に焼け、片手に革の鞄を提げている。もう一人は、見間違えるはずもない。栗色の髪に、図書館で会った時と同じ薄いシャツを着た朔だった。  男は何かを言いながら財布を開いた。  数枚の紙幣を抜き、二つに折って朔に差し出す。朔はそれを数えもせず受け取り、ジーンズの後ろポケットに入れた。触れ合うほど近くに立っていた男が、別れ際に朔の腰に手を回す。朔は避けなかった。頬に口を寄せられても顔を背けず、終わるまで相手の肩に片手を置いていた。  信号が青に変わった。  後ろの車から短く警笛を鳴らされ、彰人はアクセルを踏んだ。交差点を通り過ぎ、すぐ先の路肩に車を寄せる。考えるより先にエンジンを切り、運転席の扉を開けていた。  ホテルの前に戻った時には、年上の男の姿はもうなかった。  朔は一人で歩道に立ち、受け取った金を財布にしまっている。彰人に気づくと、驚くより先に僅かに首を傾けた。 「高瀬さん。こんなところで何してるんだ」 「今の男は誰だ」 「知らない人」 「知らない人間とホテルに入ったのか」 「さっき会ったばかりだからな」  隠そうとする様子も、気まずそうに目を逸らすこともなかった。その平然とした顔が、彰人の腹の底に生じたものを一層強くした。 「金を受け取っていただろう」 「見てたのか」 「答えろ」 「見た通りだよ」  朔は財布を後ろポケットに戻した。ホテルの看板から落ちる青白い光が、汗の浮いた頬を照らしている。襟元は少し乱れていたが、目立つ傷はない。彰人はそこまで確かめた自分に気づき、奥歯を噛み締めた。 「いつからだ」 「何が」 「こういうことを、いつからしている」 「昔から。日雇いだけじゃ足りない時に」 「今夜の宿代か」 「それと、明日の飯。仕事が入らなかったから」  まるで一日働いて賃金を受け取った話でもするようだった。  彰人は朔が話したくないことまで問い質す権利を持っていない。二人は恋人でも家族でもなく、少し前に偶然出会い、記憶を探す約束をしただけの他人である。その事実を理解していても、目の前で交わされた金と、別れ際に朔に触れた男の手が、頭から離れなかった。 「晴希の名前で、そんなことをするな」  声を抑えたつもりだったが、低い怒気までは隠せなかった。  朔の表情が初めて変わった。  傷ついたようには見えなかった。ただ、彰人の口から出た名を確かめるように、色の薄い目がゆっくりと細められる。 「じゃあ、何て名乗ればいい」 「藤代朔が、お前の名前だ」 「書類にはそう書いてる。でも、あの男に藤代って呼ばれても、俺はたぶん自分のことだと思えない」 「だからといって、死んだ人間の名を使っていい理由にはならない」 「分かってるよ」  朔は穏やかに言った。 「高瀬さんが嫌がるから、あれから仕事では藤代を使ってる。でも、名前を聞かれた時に何も言えないと、向こうが勝手に呼び方を決めるんだ。今まで使ってた名前を言う方が、面倒がない」 「面倒がないなら、何でもいいのか」 「名前は、呼ぶ人間のためにあるんだろ。俺が誰か分かれば、それで困らない」  彰人は言葉を失った。  晴希は死んだあとも、墓石や位牌に名を刻まれ、家族に呼ばれることで、晴希として残り続けている。朔にも本来の名はある。けれどそれを呼ばれても自分のことだと思えない彼にとって、名前は他人が見分けるためにつける印でしかないのかもしれなかった。  それでも納得はできない。  自分の名も、体も、同じように他人の都合に預けている。そのことに何の痛みも覚えていないような顔をされると、何か取り返しのつかないものを見せられている気がした。 「……知らない男なんて、危険かもしれないだろ」 「仕事ができなくなるようなことはしないし、コンドームを使わない相手は断る。それ以外は別に」 「別に、で済ませるな」 「高瀬さんには関係ないだろ」  突き放す声ではなかった。朔はただ、事実を述べているだけだった。  彰人は反論できなかった。  関係がない。朔がどこで眠り、誰に触れられ、何と名乗ろうと、彰人が怒る理由はない。自分が朔に近づいたのは、彼を救うためではなかった。晴希の死について知るためであり、記憶喪失が本物か確かめるためである。朔の生活を正す権利など、初めから持っていない。 「今日はどこに泊まる」  それでも尋ねると、朔は少し考えてから駅の反対側にあるネットカフェの名を答えた。 「送る」 「歩ける」 「車を取ってくる。ここで待て」 「怒ってる相手を、わざわざ送るのか」 「放って帰って、明日また墓の陰で倒れられたら迷惑だ」  朔は何も言わず、僅かに口元を緩めた。  彰人はその笑みが気に入らなかった。自分の怒りなど、結局は世話を焼くための言い訳だと見透かされたように思えた。  車を停めた場所に戻るため、背を向ける。歩き出したあとも、朔がそこにいるのか気になったが、振り返りはしなかった。

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