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第3話 呼べない名前

「頭の中に、名前がひとつだけあった。三枝晴希。誰かに教えられたんじゃなくて、前から知ってたものとして残ってた。自分のことを何も覚えてないのに名前だけ分かるなら、普通は自分の名前だと思うだろ」 「周囲には藤代朔だと言われたんじゃないのか」 「言われたよ。でも、実感がなかった。鏡を見ても、写真を見ても、これが藤代朔ですって説明されてるだけみたいだった。三枝晴希って口にした時だけは、少なくとも自分の中から出てきた言葉だと思えた」  戸籍や写真よりも、記憶の底に残ったひとつの名を信じたということだ。  彰人はすぐには言葉を返せなかった。自分にとって晴希は、十七年間ともに生き、五年にわたって死を悼んできた弟である。名前を聞けば顔が浮かび、声を思い出し、同じ姓を失った日や、最後に交わした短い会話まで連なって蘇る。けれど朔の中にある三枝晴希には、何ひとつ伴うものがないらしい。顔も声も関係も失われ、名前だけが持ち主のいないまま残されている。 「仕事の書類には藤代朔を使ってる。病院でも役所でも、その名前以外じゃ通らないからな。でも、自分で名乗る時は晴希って言ってきた」 「五年間ずっとか」 「そうなるな」  朔は小さく笑った。 「なら俺は、五年も死んだ人の名前を借りてたのか」  借りていた、という言葉に彰人は眉を寄せた。貸した覚えなどないと言いかけ、呑み込む。朔には悪意がない。そう分かっていることと、晴希の名を使われて平静でいられることは別だった。 「もう使うな」  思っていたより強い声が出た。  朔は驚いたように瞬きをして、頬に添えていた手を下ろす。 「どうして高瀬さんが怒るんだ」 「死んだ人間の名前だと分かっただろう。お前の名ではない」 「葬儀屋は、死んだ人の名前まで守るのか」 「少なくとも、どうでもいいとは思わない」  嘘ではなかった。ただし、すべてでもない。  朔は彰人の顔をしばらく見つめていた。墓地で「似合っている」と言った黒い礼服は着ていない。それでも朔の目は、彰人の背後に何か別のものを探しているようだった。晴希との関係を気取られたのかと警戒したが、やがて視線を落とし、アイスティーの氷をストローで軽く押す。 「分かった。なるべく使わないようにする」 「なるべくじゃない」 「じゃあ、明日から急に藤代朔になればいい?」  責める口調ではなかった。 「書類の上じゃ昔からそうだけど、俺には今でも知らない男の名前なんだ。高瀬さんだって、知らない人間の名前で呼ばれたら振り向けないだろ」  彰人は答えられなかった。  晴希の名を返せと迫ることはできる。だが、返したあとに朔が何を名乗ればいいのかまでは、彰人の知るところではないと思っていた。藤代朔という名を与えられても自分のものだと思えず、三枝晴希を奪えば、目の前の男には本当に何も残らない。  名前さえなく生きることがどのようなものか、彰人には想像できなかった。 「その三枝晴希が、どうやって死んだかも分かる?」  朔の方から尋ねた。  彰人はグラスを持ったまま動きを止める。すぐに答えるべきか迷ったが、この程度のことは墓誌の名を調べればいずれ辿り着く。隠す方が不自然だった。 「川の事故だ」  グラスの中で、氷がひとつ、からりと向きを変えた。  朔の表情から、ふっと力が抜ける。  色の薄い瞳は彰人に向けられたままなのに、何も映していなかった。ストローを持つ指が強張り、呼吸が止まる。店内を流れていた音楽も、食器の音も、遠くなったように見えた。 「おい」  呼びかけると、朔は浅く息を吸った。  その拍子に肘がグラスに触れ、褐色の液体が大きく揺れる。倒れる前に彰人が手を伸ばし、向かい側からグラスを押さえた。冷たい水滴が掌についただけで、朔の手には触れていない。 「大丈夫か」 「……今、水の音がした」 「ここで?」 「違う。分からない。川って聞いたら、急に」  朔は片手で胸元を押さえた。何かを思い出そうとするように目を閉じるが、眉間に皺が寄るばかりで、言葉は続かない。  彰人は黙ってその様子を見ていた。  これが演技なら、何のためにするのか。朔は記憶を失う前に警察の事情聴取を受け、自分が覚えている範囲のことを話している。捜査も既に終わっており、今さら記憶がないと装って逃れられるものなどない。まして朔は、彰人が晴希の兄だとは知らないはずである。ただの葬儀会社の職員を騙したところで、得られるものは何もなかった。 「何か見えたのか」 「何も。ただ、音と……冷たかった気がする」  冷房の風が店内を巡り、日除けの端を僅かに揺らした。外にはまだ昼間の名残があり、窓越しにも歩道の白い照り返しが見えている。その暑さの中で、朔は本当に水に浸かったように両腕を擦った。 「その事故と、自分の記憶に関係があると思うか」 「分からない。五年前なら、俺が記憶を失った頃と同じだ。でも、それだけじゃ何とも言えないだろ」 「三枝晴希の名だけを覚えていた」 「だから、知り合いだったのかもしれないとは思う」  朔はゆっくり目を開けた。先ほどまでの気楽な表情は消え、代わりに自分の中に開いた小さな穴を覗き込むような不安が浮かんでいる。 「俺は、その人が死んだ時、何をしてたんだろうな」  彰人の脳裏に、五年前の川辺が蘇った。  濡れた地面に座り込み、毛布に包まれた十七歳の朔。咳き込むたびに細い肩を震わせ、駆けつけた彰人の顔を見上げて、何度も同じ言葉を繰り返していた。 ――俺が殺した。  それを今ここで告げれば、朔はどんな顔をするのだろう。  お前は晴希と一緒にいた。お前だけが生きて川から引き上げられ、弟を殺したと言った。警察が事故だと結論づけても、彰人はその言葉を五年間忘れられなかった。朔が晴希を手にかけたとは思っていない。それでも、事故に至る原因を作ったのは朔ではないかという疑いだけは、捨てることができずにいる。  喉までせり上がったものを、冷めたコーヒーとともに呑み込んだ。 「そこまでは、仕事の記録には残っていない」 「そうか」  朔は追及しなかった。いつの間にかグラスの氷は半分ほど溶け、薄くなったアイスティーが水滴の落ちたテーブルと同じ色をしていた。  彰人は自分から差し出した嘘が、二人の間に薄い膜のように広がっていくのを感じた。今ならまだ、破ることができる。晴希の兄だと名乗り、朔を知っていると告げ、五年前の言葉を問い質せばいい。最初に墓地でついた嘘を重ねる前なら、少なくともこれ以上は深くならずに済む。  それでも口から出たのは、真実ではなかった。 「調べてみるか」 「何を?」 「三枝晴希のことと、お前のことだ。古い新聞や記録を辿れば、分かることがあるかもしれない」 「仕事でそこまでしてくれるのか」 「仕事じゃない」  彰人は一度言葉を切った。  では何のためかと尋ねられても、答えられる理由は限られている。晴希と朔の間に何があったのかを知りたいからだとは言えない。墓地で会ったばかりの男を純粋に助けたいわけでもなかった。 「死んだ人間の名を、お前が使っている理由が気になる。知らないまま放っておく方が気分が悪い」 「正直だな」 「親切だと思われるよりはいい」 「親切じゃないとは思ってないよ」  朔はそう言って、僅かに口元を緩めた。  墓地で見せたものより静かな笑みだった。彰人を警戒していないわけではないだろう。それでも、他人の記憶を調べるなどという不自然な申し出を、ひとまず拒むつもりはないらしい。 「俺は、何も思い出さないかもしれない」 「それなら、思い出さなかったことが分かる」 「思い出したものが、あまり良くないことでも?」  彰人はすぐに返事をしなかった。  窓の外を、仕事帰りらしい人々が足早に通り過ぎていく。日除け越しの光は来店した時より弱まり、店内の照明がテーブルの上に丸い光を落としていた。昼間あれほど鳴いていた蝉も、硝子一枚隔てた向こうでは少しずつ声を減らしている。 「知らないままよりはいいだろう」 「高瀬さんは、そう思うんだな」  朔の言い方には、僅かな含みがあった。自分は違うのかもしれない。記憶が戻らないことに焦りながら、その中にあるものを恐れてもいる。彰人にはそう聞こえたが、確かめることはしなかった。  会計は約束どおり彰人が済ませた。  店を出ると、夜になりきれない空の下に一日の熱が澱んでいた。駅前の大通りでは車のライトが点き始めているのに、建物の壁も歩道もまだ温かく、風が吹いても涼しさはない。店を出て駅に向かおうとした朔は、彰人が反対の方角へ歩きかけたのに気づいて足を止めた。 「高瀬さん、駅じゃないのか」 「車だ」 「そうだった。死神は車で来るんだったな」 「まだそれを言うのか」 「葬儀屋よりそれっぽい」  朔は笑い、片手を上げた。次にいつ会うかは決めていない。彰人が何か見つければ連絡することだけを確認し、そのまま別れるつもりらしい。 「待て」  呼び止めると、朔が振り返る。 「これから、お前を何と呼べばいい」  彰人は一度も、面と向かって朔の名を呼んでいなかった。晴希とは呼べない。藤代朔という本来の名を知りながら、知らないふりをしていた以上、墓地では呼べるはずもなかった。  朔は少し考えたあと、肩を竦める。 「好きに呼べばいい。晴希でも、藤代でも」 「晴希とは呼ばない」  ほとんど間を置かずに答えると、朔の目が僅かに見開かれた。 「じゃあ、藤代で」 「それで振り向くのか」 「たぶん。仕事じゃそう呼ばれることもあるから」  たぶん、という曖昧な返事を残し、朔は今度こそ歩き出した。夕闇の中を遠ざかっていく背中を、彰人はしばらくその場に立ったまま見送った。  駐車場に戻って車に乗り込んでも、車内には日中の熱が籠もっていた。窓を開け、冷房が効くのを待ちながらスマートフォンを取り出す。連絡先の一覧を開くと、墓地で入力した「藤代朔」という三文字が目に入った。  朔にとっては知らない男の名前であり、彰人にとっては五年間忘れようとして忘れられなかった男の名前だった。  死者から借りた名を返したところで、朔が藤代朔に戻れるわけではない。  それでも彰人は、晴希の名で彼を呼ぶことだけはできなかった。

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