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第2話 借りた名前

 墓地で(さく)と別れた日の夕方、彰人(あきひと)のスマートフォンには、駅に着いたと知らせる短いメッセージが届いた。  連絡先に表示されたのは「藤代(ふじしろ)朔」。墓地の休憩所で番号を登録した際、彰人が自分の指で入力した名前だった。朔にとっては呼ばれても自分のものと思えない名であり、彰人にとっては五年間忘れようとして忘れられなかった名である。けれど、三枝(さえぐさ)晴希(はるき)と入れることだけはできなかった。 『着いた。今日はありがとう』  それに体調を尋ねる言葉を返すと、もう平気だという返事が来た。それきり四日が過ぎても、新しいメッセージも着信もない。名刺を渡したのは彰人の方だが、朔がそれを使う理由はなく、体調さえ戻れば、墓地で行き倒れかけたことなど忘れてしまっても不思議ではなかった。それでも仕事の合間にスマートフォンを開くたび、彰人の目は無意識に「藤代朔」という文字を探していた。  画面に変化がないことを確かめて伏せるたび、自分が何を待っているのか分からなくなる。  四日目の夕方、葬儀を終えて会社に戻った時には、陽が傾き始めていた。  西向きの窓から差し込む光が、事務所の白い壁や並んだ机を薄い橙色に染めている。冷房は朝から動き続けているものの、頻繁に人が出入りする室内には外の熱気が入り込み、黒い上着を脱いでも背中に汗が残っていた。彰人は担当した葬儀の書類を整理し、供花や返礼品の数を確認してから、最後に故人の名が印字された表紙を閉じた。  人が死ぬと、その名は多くの紙に記される。  死亡届、火葬許可証、会葬礼状、位牌、墓誌。生きているあいだに幾度となく呼ばれた名前が、死後には本人のいないところで繰り返し書かれ、読み上げられ、やがて石に刻まれる。彰人は大学を卒業して今の会社に入り、今年で五年目になる。一文字の間違いも許されないことを知っているからこそ、校正の際には遺族とともに何度も字を確かめる。  名前は、その人間が確かに生きていたことを残すものだった。  死んだ人間の名を、生きている別の男が自分のものとして使っている。  しかもその男は、本来なら彰人が決して忘れるはずのない名を持っていた。  退勤した職員たちの声が遠ざかり、事務所に残っているのが自分と当直の社員だけになった頃、彰人は机の端に置いていたスマートフォンを手に取った。「藤代朔」を開き、何も入力しないまましばらく画面を見つめる。連絡する理由なら、墓地を出てから何度も考えていた。  あの名前について、心当たりがある。  短い一文を打ち、読み返してから、その前に先日の体調を尋ねる言葉を加えた。送信を押したあとで、これでは自分の方が連絡を待ち構えていたようではないかと思ったが、取り消すことはしなかった。  返事が来たのは、彰人が会社を出て駐車場に向かっている時だった。 『もう平気。心配してくれてありがとう』  続けて、少し間を置いてからもう一通届く。 『名前のこと、会って聞いた方がいい?』  文字だけでは、朔が何を思っているのか分からない。彰人は足を止め、日中の熱がまだ残る駐車場の隅で待ち合わせの場所と時刻を送った。すぐに了承の返事があり、それきり画面は動かなくなる。  スマートフォンをしまうと、不思議と蝉の声が一気に近づいた気がする。会社の裏手に植えられた街路樹は、夕方になっても葉を垂らしたまま動かない。風のない空気は重く、アスファルトの上では昼間に蓄えられた熱が薄い陽炎となって揺れていた。  彰人は車に乗り込み、エンジンをかける。送風口から吐き出されたばかりの風は生温く、汗の浮いた額を撫でていった。  これで、もう偶然ではなくなる。  墓地で再会したのは偶然だった。熱に浮かされた朔を助け、連絡先を渡したことまでは、目の前で具合を悪くした人間を放っておけなかっただけだと言い張ることもできた。けれど、自分から呼び出し、朔の失われた記憶に触れようとしている今は違う。  晴希の兄であることを伏せたまま、事故に至るまで二人の間に何があったのかを探る。  口に出せば卑劣にしか聞こえない行為を、それでもやめようとは思わなかった。  待ち合わせは、その二日後の午後六時にした。  彰人が指定したのは、駅前の大通りから一本入った場所にある古い喫茶店だった。仕事で遺族の家を訪ねた帰りに何度か利用したことがあり、夕方はさほど混まない。大きな窓には色の褪せた日除けが下ろされ、外を歩く人の姿はくすんだ布越しの影となって通り過ぎていく。天井で回る古い送風機と冷房の音に紛れ、食器の触れ合う音や低く流れる音楽が店内を満たしていた。  彰人は約束の十分前に着き、奥の席でアイスコーヒーを頼んだ。  黒いネクタイは車に置いてきたが、仕事帰りのため白いワイシャツと黒いスラックスのままである。袖を肘まで折り上げ、運ばれてきたグラスに口をつける。苦みの強いコーヒーはよく冷えていたが、喉を通ったあとにも体の内側には昼間の暑さが残っていた。  約束の時刻を三分ほど過ぎた頃、入口の扉に取りつけられた鈴が鳴った。  朔は店内を見回し、彰人を見つけると片手を上げた。墓地で着ていたものとは違う灰色のシャツに、同じように色の褪せたジーンズを穿いている。今日は体調も悪くないらしく、歩き方に危ういところはない。あの日は汗と熱に霞んでいた顔も、冷房の下では本来の輪郭を取り戻していた。 「悪い。仕事が少し延びた」 「俺も今来たところだ」 「そういうの、律儀に言う人なんだな」  朔は向かいの椅子に腰を下ろし、店員が持ってきた水を半分ほど一息に飲んだ。冷えたグラスの表面にすぐに水滴が浮かび、日に焼けた指の下でいくつもの筋になって流れていく。彰人は朔の手に力が入っていることを確かめてから、メニューを差し出した。 「好きなものを頼め」 「高瀬さんが払ってくれるのか」 「俺が呼び出したんだ」 「じゃあ、一番高いものにしようかな」  そう言いながら朔が選んだのは、最も安いアイスティーだった。遠慮しているのか、初めから飲み物以外を頼むつもりがないのかは分からない。彰人も何も言わず、店員に追加の注文を伝えた。 「それで、俺の名前について心当たりがあるって?」  朔は前置きもなく尋ねた。  墓地では熱のせいで朦朧としていたが、今は色の薄い瞳が真っ直ぐ彰人に向けられている。彰人が何を話すのか興味はあっても、ひどく期待しているようには見えなかった。長く探していた答えにようやく手が届く人間なら、もう少し落ち着かない顔をするものではないかと思う。しかし、それも彰人が勝手に想像した記憶喪失者の姿でしかなかった。 「以前、仕事であの墓に来たことがある。あのあと会社の記録も確かめた」  用意していた嘘を口にする。  まったくの作り話ではない。彰人は何度もあの墓に足を運び、墓誌に刻まれた名を見てきた。ただし、仕事としてではない。会社の記録に三枝家の名が残っていることも事前に確認していたが、それは晴希ではなく、母方の祖父の葬儀を今の会社が担当したためだった。 「墓に刻まれていた三枝晴希は、五年前に亡くなっている。当時、十七歳だった」  朔は何も言わなかった。  ちょうど運ばれてきたアイスティーを受け取り、細いストローの袋を破る。グラスの中で氷が触れ合い、乾いた音を立てた。朔はそれをしばらく混ぜてから、確かめるように口を開く。 「やっぱり、俺じゃなかったんだな」 「墓を見た時に分かっていただろう」 「死んだ年も年齢も違ってたから、たぶんそうなんだろうとは思った。でも、同姓同名かもしれないし、墓の方が間違ってるかもしれない」 「墓誌の名は何度も確認する。そう簡単に間違えるものじゃない」 「そうだな。葬儀屋が言うなら、間違いないか」  朔の声に落胆はなかった。むしろ、長く曖昧だったものにようやく線を引かれ、納得しているように聞こえる。  彰人には、それが理解できなかった。 「自分の名前が、死んだ他人のものだったと聞かされて、何とも思わないのか」 「他人かどうかも、まだ俺には分からないから」  朔はストローから口を離した。墓地で見た時より顔色は良く、その声にも熱に浮かされていた時の掠れはない。 「知ってる人だったのかもしれない。嫌いだったのか、好きだったのか、それとも一度名前を聞いただけなのかも分からない。ただ、俺の中に残ってたのはそれだけだった」 「それだけ?」 「三枝晴希って名前」  死んだ弟の名が、向かいに座る男の声で静かに繰り返される。  彰人はテーブルの下で拳を握った。墓前で聞いた時のような激しい怒りは湧かなかった。代わりに、晴希の名が朔の中に五年間閉じ込められ、ほかの何も思い出せない暗闇の中でひとつだけ残り続けていたという事実が、鈍い棘のように胸に引っかかった。 「戸籍上の名前は、別にあるんだろう」  知らないふりをして問う。  朔は僅かに目を細めた。彰人の質問を不審に思ったのかもしれない。だが、やがてテーブルに片肘をつき、掌に頬を預ける。 「藤代朔」  五年前より低くなった声が、本来の名を告げた。  彰人は表情を変えないよう、グラスに手を伸ばした。氷が溶けて薄くなったコーヒーは、先ほどよりも苦みが舌に残った。 「身元は分かっているのか」 「身元だけはな。病院で目を覚ました時には、警察も周りの大人も、俺を藤代朔だと言った。書類も写真もあったし、顔も年齢も合っていた。だから、たぶん間違いない」 「たぶん?」 「自分のことなのに、何ひとつ覚えてなかったから。藤代と呼ばれても、朔と呼ばれても、誰か別の人間を呼んでるようにしか聞こえなかった」  朔はどこか遠い出来事を話すような口調だった。  彰人が病院で最後に朔を見た時、彼はまだ十七歳だった。川から助け出されたあとも混乱は収まらず、晴希を殺したと繰り返していたが、彰人のことも、自分の名も分かっていた。警察の事情聴取を受け、事故として捜査が終わり、晴希の葬儀も済んだあとに自殺を図ったことは、警察から聞かされた。命は取り留めたものの、記憶に障害が残ったという話も、その後になって知った。  朔が事情聴取から逃れようとしたわけではない。警察は朔の証言と現場の状況を照合したうえで、事件性のない水難事故だと結論づけている。それでも当時の彰人には、自分がしたことも、死んだ晴希も、残された人間も忘れた朔だけが、あの日から切り離されたように思えた。記憶障害が本人の意思で選べるものではないと説明されても、感情は追いつかなかった。朔が記憶を失ったことで、彰人は弟がなぜあの川にいたのか、二人が何を言い争っていたのかを尋ねる相手まで失った。  けれど、目の前にいる朔の口から語られる五年は、彰人が想像していたものとは少し違っていた。 「記憶がないのは、十七歳より前だけか」 「大体は。目を覚ましたあとのことは覚えてる。昔のことも、箸の持ち方とか字の書き方とか、そういうのは忘れてなかった。学校で習ったことも、ところどころ残ってる。ただ、自分がどこで暮らして、誰と何をしてたのかは何も出てこない」 「原因は」 「医者には、強い衝撃やその後のことが関係してるんだろうって言われた。頭を打ったせいじゃないらしい。何度か治療も受けたけど、戻らないものは戻らなかった」  その後のこと。  朔は自分が死のうとした事実を、あえて曖昧な言葉の中に入れた。隠したいのか、初対面に近い彰人に話す必要がないと思っているのかは分からない。彰人もそこに踏み込まず、別の問いを重ねた。 「それなら、どうして三枝晴希を自分の名だと思った」 「目が覚めた時、それだけは知ってたから」  朔はグラスから落ちた水滴を指先で拭った。濡れた指で、テーブルの上に意味のない線を引いた。

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