9 / 18
第9話 冷えたトマト
会葬礼状は、開式の四十分前に用意できた。
印刷会社がほかの仕事を止めて対応し、彰人が受け取って会場まで運んだ。後輩は遺族に誤りを見せずに済んだことに安堵していたが、彰人の顔を見ると、また深く頭を下げた。
「本当にすみませんでした」
「俺に謝る前に、間違えた原因を確認しろ。今回は間に合ったが、名前を間違えるのは、印刷物を取り替えれば済む話じゃない」
「はい」
「見本を作った人間と確認する人間を分けろと教わっただろう。昨日、どうして一人で済ませた」
「忙しそうだったので、声をかけにくくて」
「分からないまま進められる方が困る」
後輩はもう一度「はい」と答えたが、先ほどより声が小さかった。
言うべきことは伝えた。彰人はそれ以上責めず、会場に並べられた礼状を一部手に取って確かめる。故人の名は正しい。予備の数も足りている。
そのまま開式まで残ろうとしたところ、年上の同僚に肩を叩かれた。
「あとは俺たちでやる。お前、今日休みだろ」
「ここまで来たので、最後まで」
「だから後輩が声をかけにくくなるんだよ。自分は休みでも出てきて何でもやる。それを基準にされたら、若い奴は息が詰まるぞ」
「同じことをしろとは言っていません」
「口で言わなくても、態度で言ってるんだよ」
冗談めかした言い方だったが、後輩は離れたところでこちらの様子を窺っていた。
彰人は反論せず、会場を出た。
帰宅したのは午後二時を過ぎていた。
共用廊下まで、焼いた野菜の匂いが漂っていた。鍵を開けると、冷房の風と一緒に香ばしい匂いが流れてくる。台所では朔がフライパンを火にかけ、昨日もらった茄子とピーマンを炒めていた。
「おかえり。間に合った?」
「ああ」
「ならよかった」
朔はそれ以上仕事のことを尋ねず、フライパンに蓋をした。テーブルには冷やしたトマトと、胡瓜の浅漬け、二人分の箸が並んでいる。
「昼はいらないと言っただろう」
「俺の分を作ったら余った」
「最初から二人分ある」
「帰ってくると思ったから」
朔は悪びれずに答えた。
「何か買って食べるって言ってたけど、高瀬さんは忙しかったら食わない。今から作ると遅くなるから、先に作っておいた」
「分かったようなことを言うな」
「違った?」
彰人は鞄から朝に渡されたボトルを取り出した。中身は半分ほど減っている。
朔はそれを見て、満足したようにフライパンの火を止めた。
「着替えてくる」
「その前に水を飲んだら。顔、赤いよ」
言われるまま冷蔵庫から麦茶を出す。グラスに注いで一息に飲むと、冷たさが喉から胸に落ちた。外の熱気の中を動き回った体が、そこでようやく自分の疲れに気づいたように重くなる。
朔は皿に茄子とピーマンを盛り、彰人の前に置いた。
「座って食べたら? 着替えは逃げないだろ」
「汗をかいている」
「そのくらい気にしないよ」
いつか彰人が朔に告げたことを、形を変えて返されているようだった。
彰人はネクタイを緩め、ワイシャツの袖を捲って椅子に座った。朔も向かいに腰を下ろす。茄子は火が通りすぎて少し形を失い、ピーマンには焦げたところがあったが、味つけは悪くなかった。
「生姜は最後に入れた」
「入れすぎだ」
「高瀬さんと同じくらいだよ」
「俺はこんなに入れない」
「この間は辛かった」
反論できず、彰人は次のひと口を食べた。
朔は冷えたトマトを先に食べ、昨日より僅かに表情を緩めている。本人は気づいていないのかもしれない。それでも彰人には、甘いと言った時よりも気に入っていることが分かった。
「後輩、かなり怒られた?」
食事の半ばで、朔が尋ねた。
「必要なことは言った」
「朝の電話より怖い顔で?」
「仕事の間違いだ。名前は一字でも違えば、別の人間になる」
「それは分かるよ」
朔は自分の名を確かめるように一度だけ目を伏せた。しかし、晴希の名にも事故にも話を広げず、皿の上の茄子を箸で割る。
「高瀬さんの言ってることは、たぶん全部正しいんだろうな」
「なら何だ」
「正しいことを、相手が聞けなくなる言い方で伝えるのは、少し損だと思っただけ」
彰人は箸を止めた。
「間違えた人間の気分まで考えて、言うべきことを変えるつもりはない」
「変えなくていいよ。最初に一言、間に合ってよかったとか、電話してきてくれてよかったって言えばいい」
「間違いに気づいたら連絡するのは当然だろう」
「高瀬さんにとってはな」
朔は静かに言った。
「高瀬さんは、自分が休みでも会社に行くし、忙しくても飯を抜いたくらいで何も言わない。夜中に帰ってきても、次の朝はいつもどおり起きる。それを自分にさせてるから、ほかの人にも同じくらいできると思うんだろ」
「思っていない」
「じゃあ、できない人に腹を立てる?」
すぐに否定できなかった。
仕事で手を抜く人間は嫌いだった。確認を怠り、教えられたことを覚えず、誰かが直してくれると思っている者には厳しくなる。しかし、今日の後輩がそうだったわけではない。忙しそうな先輩に声をかけられず、一人で確認を終えようとして見落とした。二年目の頃の自分なら、声をかけにくいという理由を理解できなかっただろう。
今も、完全には理解できない。
「死んだ人間のことは、あとでやり直せない」
彰人は答えた。
「名前を間違えられた礼状が遺族の手に渡れば、刷り直しても、見た事実までは消せない。だから、間違いがないと言い切れるまで、何度でも確認させる」
「それを後輩に言った?」
「言わなくても分かっているはずだ」
「たぶん、そこが駄目なんだよ」
朔は呆れたように笑った。
「高瀬さん、考えてることが顔に出ない。怒ってる時だけは分かりやすいけど、その人を助けたいのか、見放したいのかは、言わないと伝わらない」
元恋人にも似たようなことを言われた覚えがあった。
一緒にいても楽しくなさそうだ。何を考えているのか分からない。会いたかったことも、帰りを待っていたことも、言葉にしてくれなければ存在しないのと同じだと。
その時の彰人には、隣にいることや、時間を空けること自体が答えに思えた。相手が望むような言葉を口にすることは、思ってもいないことを取り繕うようで苦手だった。
結局、何も伝えられないまま別れた。
「お前は、人に厳しくないのか」
話を変えるように尋ねると、朔は少し考えた。
「厳しくするほど、人に期待してない」
「それは優しいとは言わない」
「知ってるよ」
朔は否定しなかった。
「仕事先では、怒ってる人と困ってる人を早く見分けた方が楽なんだ。声をかけない方がいい人もいれば、何か手伝えば機嫌が直る人もいる。相手が何を求めてるか分かれば、余計なことを言わずに済む」
日雇いの現場だけの話ではないのだろう。
知らない男に誘われ、金を受け取ってきた朔は、相手が望むものを見分け、自分をそれに合わせることで身を守ってきたのだろう。嫌うことも期待することもせず、求められた形だけを差し出す。人の顔色を読むことは、朔にとって親しくなるためではなく、その場を無事に過ごすための技術だったのかもしれない。
「長谷川さんの荷物を運んだのも、機嫌を取るためか」
「違うよ」
朔は即座に答えた。
「困ってたから」
「見返りは」
「考えてない。今日の野菜は、たまたまもらっただけだ」
「人に期待していないと言う割に、困っている人間は放っておけないのか」
「矛盾してても別にいいよ。俺は自分がどういう人間だったか、覚えてないんだから」
朔は箸を置き、冷えたトマトをもう一つ取った。
「今やったことが、今の俺だろ」
そう言って、トマトを口に入れた。
彰人は返す言葉を失った。
五年前までの朔がどのような人間だったのか、彰人はほとんど知らない。晴希と親しかったこと。事故の日、崩れた岸から落ちた晴希の腕を掴み、助けようとしたこと。救助されたあとに、自分が殺したと繰り返したこと。それだけで、朔のすべてを決めたつもりになっていた。
目の前にいる男は、記憶がなくても、膝を庇って歩く老婦人に気づく。誰も見ていないところで重い荷物を持ち、礼を求めず、もらった野菜を冷やした方がうまいと言う。
今の朔を知ることと、五年前の真相を知ることは、同じではない。
彰人が朔に近づいたのは、後者を知るためだったはずなのに、いつからか、知るのは前者ばかりになっていた。
「高瀬さんも同じじゃない?」
朔が言った。
「何がだ」
「言葉は厳しいけど、休みの日に後輩を助けに行った。今やったことが、今の高瀬さんだろ」
「俺は仕事をしただけだ」
「高瀬さんがそう思いたいなら、それでいいよ」
朔は話をそこで切り、食事を再開する。彰人も黙って箸を動かした。
言葉がなくても、二人でいることが苦になる沈黙ではなかった。
食後、後輩からメッセージが届いた。
『今日は本当にありがとうございました。次からは必ず二人で確認します。休みの日にすみませんでした』
彰人は短く返事を打った。
『分からない時は、忙しそうでも声をかけろ。開式前に気づいて連絡したのは正しかった』
送信したあと、画面を伏せる。
流しで皿を洗っていた朔が振り返った。
「何て返した?」
「お前には関係ない」
「また怖いこと書いた?」
「必要なことを書いた」
「それならいいけど」
朔は水を止め、洗った皿を彰人に差し出した。彰人が受け取り、布巾で拭く。肩が触れそうな距離で並んでも、もう互いに大きく身を引くことはなくなっていた。
「藤代」
「何?」
呼ぶと、朔はすぐに振り向いた。
二週間前には、自分の名だと気づくまでに間があった。今は彰人の口から出た呼びかけなら、考えるより先に反応する。
「長谷川さんに会ったら、トマトがうまかったと伝えておいてくれ」
「高瀬さんが言えばいいだろ」
「お前がもらったんだ」
「二人で食べてって言われた。半分は高瀬さんの分だよ」
「なら、次に会った方が言えばいい」
「そうだね」
朔はまた皿を洗い始めた。口元には僅かな笑みが残っている。
次、という言葉を、どちらも言い直さなかった。
夏が終われば、朔はこの部屋を出る。長谷川から野菜をもらうことも、二人で同じテーブルを囲むことも、それまでの話である。
それでも彰人は、冷蔵庫に残ったトマトを明日の朝に出すつもりでいた。朔がまた少しだけ表情を緩めることを、既に知っているからだった。
ともだちにシェアしよう!

