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第9話 冷えたトマト

 会葬礼状は、開式の四十分前に用意できた。  印刷会社がほかの仕事を止めて対応し、彰人が受け取って会場まで運んだ。後輩は遺族に誤りを見せずに済んだことに安堵していたが、彰人の顔を見ると、また深く頭を下げた。 「本当にすみませんでした」 「俺に謝る前に、間違えた原因を確認しろ。今回は間に合ったが、名前を間違えるのは、印刷物を取り替えれば済む話じゃない」 「はい」 「見本を作った人間と確認する人間を分けろと教わっただろう。昨日、どうして一人で済ませた」 「忙しそうだったので、声をかけにくくて」 「分からないまま進められる方が困る」  後輩はもう一度「はい」と答えたが、先ほどより声が小さかった。  言うべきことは伝えた。彰人はそれ以上責めず、会場に並べられた礼状を一部手に取って確かめる。故人の名は正しい。予備の数も足りている。  そのまま開式まで残ろうとしたところ、年上の同僚に肩を叩かれた。 「あとは俺たちでやる。お前、今日休みだろ」 「ここまで来たので、最後まで」 「だから後輩が声をかけにくくなるんだよ。自分は休みでも出てきて何でもやる。それを基準にされたら、若い奴は息が詰まるぞ」 「同じことをしろとは言っていません」 「口で言わなくても、態度で言ってるんだよ」  冗談めかした言い方だったが、後輩は離れたところでこちらの様子を窺っていた。  彰人は反論せず、会場を出た。  帰宅したのは午後二時を過ぎていた。  共用廊下まで、焼いた野菜の匂いが漂っていた。鍵を開けると、冷房の風と一緒に香ばしい匂いが流れてくる。台所では朔がフライパンを火にかけ、昨日もらった茄子とピーマンを炒めていた。 「おかえり。間に合った?」 「ああ」 「ならよかった」  朔はそれ以上仕事のことを尋ねず、フライパンに蓋をした。テーブルには冷やしたトマトと、胡瓜の浅漬け、二人分の箸が並んでいる。 「昼はいらないと言っただろう」 「俺の分を作ったら余った」 「最初から二人分ある」 「帰ってくると思ったから」  朔は悪びれずに答えた。 「何か買って食べるって言ってたけど、高瀬さんは忙しかったら食わない。今から作ると遅くなるから、先に作っておいた」 「分かったようなことを言うな」 「違った?」  彰人は鞄から朝に渡されたボトルを取り出した。中身は半分ほど減っている。  朔はそれを見て、満足したようにフライパンの火を止めた。 「着替えてくる」 「その前に水を飲んだら。顔、赤いよ」  言われるまま冷蔵庫から麦茶を出す。グラスに注いで一息に飲むと、冷たさが喉から胸に落ちた。外の熱気の中を動き回った体が、そこでようやく自分の疲れに気づいたように重くなる。  朔は皿に茄子とピーマンを盛り、彰人の前に置いた。 「座って食べたら? 着替えは逃げないだろ」 「汗をかいている」 「そのくらい気にしないよ」  いつか彰人が朔に告げたことを、形を変えて返されているようだった。  彰人はネクタイを緩め、ワイシャツの袖を捲って椅子に座った。朔も向かいに腰を下ろす。茄子は火が通りすぎて少し形を失い、ピーマンには焦げたところがあったが、味つけは悪くなかった。 「生姜は最後に入れた」 「入れすぎだ」 「高瀬さんと同じくらいだよ」 「俺はこんなに入れない」 「この間は辛かった」  反論できず、彰人は次のひと口を食べた。  朔は冷えたトマトを先に食べ、昨日より僅かに表情を緩めている。本人は気づいていないのかもしれない。それでも彰人には、甘いと言った時よりも気に入っていることが分かった。 「後輩、かなり怒られた?」  食事の半ばで、朔が尋ねた。 「必要なことは言った」 「朝の電話より怖い顔で?」 「仕事の間違いだ。名前は一字でも違えば、別の人間になる」 「それは分かるよ」  朔は自分の名を確かめるように一度だけ目を伏せた。しかし、晴希の名にも事故にも話を広げず、皿の上の茄子を箸で割る。 「高瀬さんの言ってることは、たぶん全部正しいんだろうな」 「なら何だ」 「正しいことを、相手が聞けなくなる言い方で伝えるのは、少し損だと思っただけ」  彰人は箸を止めた。 「間違えた人間の気分まで考えて、言うべきことを変えるつもりはない」 「変えなくていいよ。最初に一言、間に合ってよかったとか、電話してきてくれてよかったって言えばいい」 「間違いに気づいたら連絡するのは当然だろう」 「高瀬さんにとってはな」  朔は静かに言った。 「高瀬さんは、自分が休みでも会社に行くし、忙しくても飯を抜いたくらいで何も言わない。夜中に帰ってきても、次の朝はいつもどおり起きる。それを自分にさせてるから、ほかの人にも同じくらいできると思うんだろ」 「思っていない」 「じゃあ、できない人に腹を立てる?」  すぐに否定できなかった。  仕事で手を抜く人間は嫌いだった。確認を怠り、教えられたことを覚えず、誰かが直してくれると思っている者には厳しくなる。しかし、今日の後輩がそうだったわけではない。忙しそうな先輩に声をかけられず、一人で確認を終えようとして見落とした。二年目の頃の自分なら、声をかけにくいという理由を理解できなかっただろう。  今も、完全には理解できない。 「死んだ人間のことは、あとでやり直せない」  彰人は答えた。 「名前を間違えられた礼状が遺族の手に渡れば、刷り直しても、見た事実までは消せない。だから、間違いがないと言い切れるまで、何度でも確認させる」 「それを後輩に言った?」 「言わなくても分かっているはずだ」 「たぶん、そこが駄目なんだよ」  朔は呆れたように笑った。 「高瀬さん、考えてることが顔に出ない。怒ってる時だけは分かりやすいけど、その人を助けたいのか、見放したいのかは、言わないと伝わらない」  元恋人にも似たようなことを言われた覚えがあった。  一緒にいても楽しくなさそうだ。何を考えているのか分からない。会いたかったことも、帰りを待っていたことも、言葉にしてくれなければ存在しないのと同じだと。  その時の彰人には、隣にいることや、時間を空けること自体が答えに思えた。相手が望むような言葉を口にすることは、思ってもいないことを取り繕うようで苦手だった。  結局、何も伝えられないまま別れた。 「お前は、人に厳しくないのか」  話を変えるように尋ねると、朔は少し考えた。 「厳しくするほど、人に期待してない」 「それは優しいとは言わない」 「知ってるよ」  朔は否定しなかった。 「仕事先では、怒ってる人と困ってる人を早く見分けた方が楽なんだ。声をかけない方がいい人もいれば、何か手伝えば機嫌が直る人もいる。相手が何を求めてるか分かれば、余計なことを言わずに済む」  日雇いの現場だけの話ではないのだろう。  知らない男に誘われ、金を受け取ってきた朔は、相手が望むものを見分け、自分をそれに合わせることで身を守ってきたのだろう。嫌うことも期待することもせず、求められた形だけを差し出す。人の顔色を読むことは、朔にとって親しくなるためではなく、その場を無事に過ごすための技術だったのかもしれない。 「長谷川さんの荷物を運んだのも、機嫌を取るためか」 「違うよ」  朔は即座に答えた。 「困ってたから」 「見返りは」 「考えてない。今日の野菜は、たまたまもらっただけだ」 「人に期待していないと言う割に、困っている人間は放っておけないのか」 「矛盾してても別にいいよ。俺は自分がどういう人間だったか、覚えてないんだから」  朔は箸を置き、冷えたトマトをもう一つ取った。 「今やったことが、今の俺だろ」  そう言って、トマトを口に入れた。  彰人は返す言葉を失った。  五年前までの朔がどのような人間だったのか、彰人はほとんど知らない。晴希と親しかったこと。事故の日、崩れた岸から落ちた晴希の腕を掴み、助けようとしたこと。救助されたあとに、自分が殺したと繰り返したこと。それだけで、朔のすべてを決めたつもりになっていた。  目の前にいる男は、記憶がなくても、膝を庇って歩く老婦人に気づく。誰も見ていないところで重い荷物を持ち、礼を求めず、もらった野菜を冷やした方がうまいと言う。  今の朔を知ることと、五年前の真相を知ることは、同じではない。  彰人が朔に近づいたのは、後者を知るためだったはずなのに、いつからか、知るのは前者ばかりになっていた。 「高瀬さんも同じじゃない?」  朔が言った。 「何がだ」 「言葉は厳しいけど、休みの日に後輩を助けに行った。今やったことが、今の高瀬さんだろ」 「俺は仕事をしただけだ」 「高瀬さんがそう思いたいなら、それでいいよ」  朔は話をそこで切り、食事を再開する。彰人も黙って箸を動かした。  言葉がなくても、二人でいることが苦になる沈黙ではなかった。  食後、後輩からメッセージが届いた。 『今日は本当にありがとうございました。次からは必ず二人で確認します。休みの日にすみませんでした』  彰人は短く返事を打った。 『分からない時は、忙しそうでも声をかけろ。開式前に気づいて連絡したのは正しかった』  送信したあと、画面を伏せる。  流しで皿を洗っていた朔が振り返った。 「何て返した?」 「お前には関係ない」 「また怖いこと書いた?」 「必要なことを書いた」 「それならいいけど」  朔は水を止め、洗った皿を彰人に差し出した。彰人が受け取り、布巾で拭く。肩が触れそうな距離で並んでも、もう互いに大きく身を引くことはなくなっていた。 「藤代」 「何?」  呼ぶと、朔はすぐに振り向いた。  二週間前には、自分の名だと気づくまでに間があった。今は彰人の口から出た呼びかけなら、考えるより先に反応する。 「長谷川さんに会ったら、トマトがうまかったと伝えておいてくれ」 「高瀬さんが言えばいいだろ」 「お前がもらったんだ」 「二人で食べてって言われた。半分は高瀬さんの分だよ」 「なら、次に会った方が言えばいい」 「そうだね」  朔はまた皿を洗い始めた。口元には僅かな笑みが残っている。  次、という言葉を、どちらも言い直さなかった。  夏が終われば、朔はこの部屋を出る。長谷川から野菜をもらうことも、二人で同じテーブルを囲むことも、それまでの話である。  それでも彰人は、冷蔵庫に残ったトマトを明日の朝に出すつもりでいた。朔がまた少しだけ表情を緩めることを、既に知っているからだった。

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