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残夏の死神 第10話 生きている証明 | 井之ナカの小説 - BL小説・漫画投稿サイトfujossy[フジョッシー]
目次
残夏の死神
第10話 生きている証明
作者:
井之ナカ
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10 / 18
第10話 生きている証明
朔
(
さく
)
が帰らない夜は、それまでにも二度あった。 一度目は、日雇いの仕事が終わったあと、翌朝も同じ現場に入ることになり、用意された仮眠室に泊まった夜だった。二度目は、急に決まった夜間の搬入作業にも続けて入った時である。どちらも夕方までに連絡があり、翌日の仕事を終えると何事もなかったように帰ってきた。 そのため、午後六時を少し過ぎた頃に、今日は夕食はいらない、今夜は戻らないというメッセージが届いても、
彰人
(
あきひと
)
は理由を尋ねなかった。 帰りが遅くなるなら連絡する。夕食がいらない時も知らせる。それが二人で決めたことだった。朔は守っている。彰人も、理由までは書かなくていいと言った。 『分かった』 それだけ返し、買い物籠に入れていた鯖の切り身を一つ売り場に戻した。 一人分なら、冷蔵庫に残っているもので足りる。長谷川からもらった野菜はまだ少しあり、曲がった胡瓜は浅漬けにしてある。朔が冷えた方がうまいと言ったトマトも、保存容器の中に二つ残っていた。 朔がいないなら、今夜、食卓に出す必要はない。 そう考えて蓋を閉め、彰人は自分の分だけ夕食を作った。 テレビをつけない部屋は、同居を始める前と同じ静けさに戻っていた。冷房の風が鳴る音と、箸が皿に触れる音だけがする。以前は気にしたこともなかったのに、向かいの椅子が空いていると、テーブルが妙に広く感じられた。 仕事かもしれない。 これまでのように、誰かに誘われたのかもしれない。 彰人は二つ目の考えを打ち消し、食事を終えた。朔には今夜の宿を得るために男についていく必要はない。日雇いの仕事が途切れても、少なくとも夏の間は眠る場所があり、食事もある。金が必要なら、その理由を聞いた上で貸すこともできる。 それを朔に伝えたことはなかった。 寝床と食事を用意したのだから、分かるだろうと思っていた。だが、先日朔自身に、言葉にしなければ伝わらないと言われたばかりである。 彰人は食器を洗い、冷蔵庫に残ったトマトを見た。朔が明日の朝に帰る保証はない。それでも保存容器は開けず、冷蔵庫の扉を閉めた。 風呂を済ませ、いつもより早く寝室に入っても、なかなか眠れなかった。 共用廊下で足音がするたび、無意識に耳を澄ませた。足音は彰人の部屋の前を通り過ぎたり、別の扉が開く音に変わったりして、こちらの玄関で止まることはない。朔は今夜は戻らないと連絡しているのだから、待つ理由などなかった。 それでも彰人は、枕元に置いたスマートフォンを二度確かめた。 新しい連絡はない。 今頃、仕事をしているのか。それとも、知らない男の隣で眠っているのか。 後者を思い浮かべた自分に苛立ち、画面を伏せた。目を閉じても寝つけず、扉一枚隔てた居間では、朔が普段使っている布団が今夜は畳まれたままだということを意識し続けた。 翌朝、玄関の鍵が動く音で目を覚ました。 目覚まし時計が鳴る十五分ほど前だった。遮光カーテンの隙間から、薄い朝の光が寝室に差し込んでいる。彰人がベッドから起き上がる間に、扉が静かに開き、靴を脱ぐ気配がした。 朔は、彰人を起こさないつもりだったらしい。 寝室を出ると、薄暗い玄関で作業靴を揃えていた。昨日の朝と同じTシャツに、色の褪せたジーンズを穿いている。肩には黒いリュックサックが掛かり、乱れた栗色の髪から、いつもとは違う石鹸の匂いがした。 「帰ったのか」 声をかけると、朔が顔を上げた。 「起こした?」 「何時だと思ってる」 「まだ六時前。鍵は静かに開けたつもりだったんだけどな」 悪びれた様子はない。眠そうに目を細めながらリュックサックを下ろし、居間の壁際に置く。その動きでTシャツの襟が僅かにずれた。 左の首筋に、赤い痕があった。 初めは虫刺されか、仕事中にどこかで擦ったものかと思った。しかし一つではない。耳の下から鎖骨にかけて、指先ほどの赤い鬱血痕がいくつも残り、そのうち一つには、半円を描く歯の痕がはっきりと浮いていた。 「それは、どうした」 彰人の声が変わったことに気づいたのか、朔は首に手を当てた。指先が鬱血痕の上を探り、すぐに何のことか理解する。 「ああ。見える?」 「仕事でついた傷じゃないな」 「うん」 「誰につけられた」 朔は答える前に小さく欠伸をした。 「昨日、仕事が終わったあとに誘ってきた人」 「誘われたから、ついていったのか」 「うん。泊まってきた」 彰人は黙った。 頭の中では分かっていたはずのことを、朔の口から聞かされると、意味がまるで違った。見知らぬ男が、その白い首に口をつけた。歯を立て、すぐには消えない痕を残した。朔はそれを拒まず、その男の部屋か、どこかのホテルで朝まで過ごした。 「金が必要だったのか」 「別に。今回はもらってないよ。飯は食わせてもらったけど」 「宿も飯も、もう心配する必要はないだろう」 「そうだな」 「なら、なぜついていった」 「誘われたからって言っただろ」 それで十分な理由になると思っているらしい。 朔は彰人の横を通り、洗面所に入った。鏡の前に立ち、襟を引いて痕を確かめる。隠せるかを見るというより、仕事に支障があるほど目立つかを確かめているだけの顔だった。 「今日は仕事があるのか」 「午後から。襟のある服なら見えないだろ」 「そういう問題ではない」 「じゃあ、どういう問題?」 鏡越しに目が合った。 彰人にも、うまく説明できなかった。知らない男についていくのは危険だと、以前も言った。仕事ができなくなる傷は残させない、コンドームを使わない相手は断ると聞かされ、それで安全と言えるのかと腹を立てた。しかし今、彰人の目が離れないのは、朔の身に危険がなかったかではなく、ほかの男が触れた証拠だった。 「少なくとも、体に痕を残すような相手についていくな」 「仕事はできるよ」 「見える場所だ」 「俺が困るだけだろ」 「お前が困るから言っている」 「高瀬さんには関係ないことだよ」 以前にも聞いた言葉だった。 あの時は、まだ朔の寝場所も、翌日に食べるものも知らなかった。彰人には何の関係もなく、口を出す権利もないと認めるしかなかった。 今は違う、と言いかけた。 朔は彰人の部屋の鍵を持っている。洗面台には二人分のコップがあり、居間の収納には朔の服が入っている。帰宅予定を知らせ、同じテーブルで食事をし、遅くなれば互いに連絡する。それでも、何が違うのかと問われれば、答えられる言葉を持っていなかった。 恋人でも、家族でもない。夏の間だけ同居している他人である。 「相手には、何と名乗った」 「何って」 「お前の名前だ」 「晴希。高瀬さんじゃない人に藤代って呼ばれても、まだ俺のことだと思えないから」 「晴希の名前で、そういうことをするな」 結局、口から出たのは、前と同じ言葉だった。 朔の指が首筋から離れた。 鏡の中で、先ほどまで眠気を残していた目が、すっと冷える。怒ったわけでも、傷ついたわけでもない。彰人がそこにいること自体を、遠くから眺めるような目だった。 「またそれだ」 「何がだ」 「高瀬さん、よっぽど俺より死んだ人の方が大事って感じだ」 「そういう話をしているんじゃない」 「俺が誰と寝ても、高瀬さんには関係ない。でも、晴希の名前を使うなら許せない。そういう話だろ」 「違う。自分を大事にしろと言っている」 「自分が何なのかも分かんないのに、何を大事にすればいいわけ?」 「体を」 「たかがセックスじゃん。そんなので今さら傷ついたりしないのに」 「傷が残っているだろう」 「これのこと?」 朔は歯型のある場所を指で押した。痛みがあるのか、一瞬だけ眉が動く。それでもすぐに手を離し、何でもない顔に戻った。 「二、三日で消えるよ。殴られたわけでも、仕事ができなくなったわけでもない」 「痕が消えれば何をされてもいいのか」 「俺がいいって言ったんだからいいだろ」 「本当にそうしてほしかったのか」 朔は答えなかった。 洗面台の蛇口から水滴が落ち、白い陶器を小さく打った。 その沈黙に、彰人はかえって腹が立った。朔が望んだことなら納得できるわけではない。しかし、望んでもいない相手に体を任せ、見える場所に歯を立てられながら、消える傷だから構わないと考えている方が、ずっと許し難かった。 「どうして、そんなに男に抱かれたがる」 口にしてから、言い方を誤ったと分かった。 朔の唇が僅かに歪んだ。笑ったようにも見えたが、その目には何も浮かんでいない。 「別に、セックスが好きなわけじゃない。むしろ嫌いだよ」 「なら、断ればいい」 「断って、どうするの」 「帰ってくればいいだろう」 「ここに?」 「ほかにどこがある」 「夏の間、貸してもらってる部屋に帰って、飯を食って、寝る。それで高瀬さんは、俺が生きてるって思える?」 「思えるに決まっている」 「俺は思えないんだよ」 静かな声だった。 朔は鏡から目を逸らし、自分の掌を見た。指の付け根には日雇い仕事でできた硬い皮膚があり、人差し指には、先日段ボールで切った傷が細い線になって残っている。 「朝起きて、仕事に行って、言われたものを運んで、金をもらう。腹が減ったら食って、眠くなったら寝る。そういうのを毎日やってても、たまに、俺が本当にここにいるのか分かんなくなる」 「何を言っている」 「鏡を見れば顔はある。でも、それが俺の顔だって感じはしない。藤代って呼ばれたら、最近は振り向けるようになったけど、それも高瀬さんが呼ぶから覚えただけで、俺の名前になったわけじゃない」 朔は掌を裏返し、指をゆっくり握った。 「でも、誰かが俺を抱いてる間は、俺はここで生きてるって思えるじゃん。生きてる人間にしかできないことをしてるわけだし。相手が触れば体は動くし、痛い時は痛い。それなら、少なくともその間は、俺は死んだ人の名前だけじゃなくて、この体の中にいる」 「終わったあとは」 彰人は尋ねた。 「何が残る」 朔の指が、首の歯型に触れた。 「こういうのが、少し」 「そんなものしか残らないなら、何の意味もない」 「意味がなくても、何もないよりはいいよ」 彰人には理解できなかった。 いや、理解したくなかった。 朔が誰かに抱かれている間だけ生きていると感じるなら、その実感を与えてきたのは、彰人の知らない男たちである。朔の名前も、過去も知らず、朝になれば二度と会わないかもしれない相手が、その体に触れ、声を聞き、僅かなあいだだけでも朔を生きた人間にしていた。 彰人は毎朝、朔のために飯を作った。帰宅が遅ければ連絡し、熱を出せば病院に連れていき、怪我をすれば絆創膏を貼った。けれど、それで朔自身が生きていると思えないのなら、彰人がしてきたことは何だったのか。 自分の行為に見返りを求めたつもりはなかった。それでも、見知らぬ男に触れられることより、自分と過ごす日々の方が朔を生かしていると思いたかった。その思いがあまりに身勝手で、彰人は言葉にできなかった。 朔が顔を上げる。 「ほかの男に抱かれるなって言うなら、高瀬さんが抱いてくれんの?」 心臓が強く打った。 彰人は、すぐに否定するべきだった。 何を馬鹿なことを言っている。自分たちはそのような関係ではない。彰人は男を抱いたことも、男に欲情したこともない。朔に近づいたのは、晴希の死の真相を知るためであり、同居を始めたのも監視するためだった。 どの言葉も、頭には浮かんだ。 それなのに、口からは一つも出なかった。 朔のTシャツは、洗濯を繰り返して襟が緩んでいる。日に焼けた首から肩に近づくにつれ、肌は本来の白さを取り戻し、その上に他人がつけた赤だけが鮮明に残っていた。もし自分が抱けば、その痕に触れるのだろうか。知らない男の歯型を指でなぞり、消すように口づけるのだろうか。 思い浮かべた瞬間、腹の底が熱を持った。 彰人は拳を握った。 怒りではなかった。少なくとも、それだけではない。目の前の男を壁際に追い詰め、その体に自分の手で触れる光景が、あまりにも容易に浮かんだことに動揺していた。 「高瀬さん?」 朔が一歩近づいた。 狭い洗面所では、それだけで互いの体が触れそうになる。知らない石鹸の匂いが、先ほどより強くなった。彰人は反射的に朔の肩を掴みかけ、寸前で手を止めた。 朔はその手を見た。 一瞬だけ、何かを待つように動きを止める。 彰人が触れないままでいると、色の薄い目から僅かな期待が消えた。 「冗談だよ」 朔は彰人の脇を抜け、洗面所から出た。 「高瀬さんは、そういうの嫌いそうだもんな」 「待て」 呼び止めたものの、その先が続かなかった。 男だから嫌なのではない。だが、そう口にすれば、朔だから抱けないのかと問われる。違うと答えれば、ではなぜ抱かないのかと続く。 その問いに、彰人は答えられない。 朔が晴希を殺したかもしれないと疑っていること。自分が晴希の兄であることを隠し、記憶を探るふりをして近づいたこと。そのすべてを伏せたまま、朔が差し出した体を受け取ることなどできなかった。 できないはずだった。 「シャワー、借りる」 朔は振り返らなかった。 「そのあと少し寝る。午後には仕事に行くから、朝飯はいらない」 「飯は食え」 咄嗟に出たのは、いつもと同じ言葉だった。 朔が立ち止まる。 「そういうところ、よく分かんないな」 低く呟き、浴室の扉を閉めた。 やがて水音が聞こえ始める。 彰人は一人になった洗面所で、自分の掌を見た。肩を掴みかけた手には、何も残っていない。それでも指先には、触れてもいない朔の体温があるような気がした。 仕事中も、朝の言葉は頭から離れなかった。 この日は午前に通夜の打ち合わせが一件、午後には翌日の告別式で使う会場の準備が入っていた。彰人はいつもどおり遺族の話を聞き、日程と人数を確認し、祭壇に飾る花や遺影を決めた。間違いはなかった。少なくとも、同僚に指摘されるようなものは何もなかった。 それでも、僅かな空白ができるたび、朔の声が蘇った。 高瀬さんが抱いてくれんの。 挑発だと分かっている。朔は彰人が怒ると知って、自分がどこまで口を出すつもりなのか確かめただけだ。あれほど冷めた目をしていた男が、彰人に抱かれたいと望んだはずはない。 だが、冗談だと告げる直前、朔は確かに待っていた。 伸ばしかけた手が肩に触れるのを待つように、動きを止めていた。 午後、祭壇の左右に置く供花の位置を直していると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。 『仕事行ってくる。今日は六時頃戻る』 朔からだった。 共同生活の決まりを守るだけの、短い連絡である。朝の口論には触れていない。 『分かった』 返事を打ち、少し迷ってから言葉を足した。 『夕食は作る』 すぐに既読がついたが、返信はなかった。 彰人が帰宅した時、朔は既に部屋にいた。 玄関には作業靴が揃えられ、居間の窓際に仕事で使ったタオルが干してある。朝、朔が眠っていた布団は畳まれ、ソファの端には脱いだ作業着が置かれていた。 台所から包丁の音はしなかった。 朔はソファに座り、透明なファイルに入れた事故の記事を読んでいた。彰人が入ってもすぐには顔を上げず、記事の末尾まで目で追ってからファイルを閉じる。 「おかえり」 「……ただいま」 いつもと同じ挨拶だった。 ただ、朝までは自然に交わしていた言葉が、今は互いの間に残ったものを確かめるように聞こえた。 「飯は」 「まだ」 「作る。待っていろ」 「手伝うよ」 「今日はいい」 拒んだつもりはなかった。だが、朔は立ち上がりかけた体をすぐに戻した。 彰人は鞄を置き、ワイシャツの袖を捲って台所に立つ。冷蔵庫から卵と、残っていた野菜を出した。冷えたトマトも保存容器ごとテーブルに置く。 背後に朔の気配がない。 いつもなら、用がなくても彰人が包丁を使う音を聞きながら近くに立っている。狭い台所で肩が触れそうになれば身を寄せ、洗えるものを見つければ黙って流しに運ぶ。今夜はソファから動かず、事故の記事を棚に戻す音だけがした。 フライパンに油を引き、溶いた卵を流す。火が強すぎたのか、端がすぐに固くなった。 「朝のことだけど」 朔が言った。 彰人は火を弱めた。 「忘れていいよ」 「何をだ」 「抱いてくれって言ったこと。高瀬さんが何も言わないから、困らせたのは分かった」 「お前は、ああ言えば俺が黙ると思っただけだろう」 「最初はな」 朔の返事に、彰人は振り返った。 ソファに座ったまま、朔は自分の首を隠すようにTシャツの襟を直した。朝より鬱血痕の色が濃くなっている。彰人の視線に気づくと、手を下ろした。 「でも、高瀬さんが本当に触りそうな顔をしたから、少しくらい期待したのかもしれない」 「藤代」 「そんな声で呼ばなくても、もう分かるよ」 朔は笑わなかった。 「高瀬さんに毎日呼ばれてたら、藤代でも振り向けるようになった。飯を作ってもらって、帰る時間を聞かれて、怪我をしたら怒られて。そういうので生きてるって思えたら、たぶん楽なんだろうな」 彰人は何も言えなかった。 「でも、高瀬さんが見てるのは、俺じゃなくて晴希って名前なんだろ」 「違う」 今度は、考えるより先に言葉が出た。 朔の目が僅かに見開かれる。 「なら、誰を見てる?」 フライパンの中で、卵の焼ける音がしていた。火を止めなければ焦げると分かっているのに、彰人は動けなかった。 藤代朔を見ている。 冷えたトマトを好み、魚の皮を最後まで残し、近所の老婦人の荷物を持つ。人の顔色にはすぐ気づくくせに、自分が誰かを傷つける可能性には鈍く、自分のことだけはどこまでも粗末にする男を見ている。 その朔がほかの男に抱かれたことに、腹を立てている。 そう答えればよかった。 「火、止めた方がいいんじゃない」 朔が言った。 彰人は我に返り、フライパンの火を消した。卵は端だけでなく、底まで焦げていた。 「珍しいな。高瀬さんが飯を失敗するの」 「食えないほどじゃない」 「俺には、焦げたところまで食えって言う?」 「俺が食う」 彰人は固くなった卵を皿に移した。新しい卵を二つ割ろうとすると、朔が立ち上がった。 「それでいいよ。半分ずつ食おう」 「苦いぞ」 「同じものを食べた方が、今ここにいる感じがするかもしれない」 冗談のような口調だった。 しかし、彰人には笑えなかった。 朔は台所に入り、流しに置かれていたまな板を洗い始めた。いつもの場所に戻ってきても、肩が触れそうになると、今度ははっきり一歩離れる。その距離が、朝に触れなかったことの答えのように思えた。 二人は焦げた卵と野菜の味噌汁、冷えたトマトを向かい合って食べた。 朔は何も残さなかった。彰人も、焦げたところまで食べた。 食事を終えるまで、朝の話はしなかった。 それでも彰人の目は何度も、朔の首筋に残った赤い痕を追った。晴希の名前を汚すなという怒りではない。自分を粗末にするなという心配だけでもない。 朔が言ったとおり、彰人には関係のないことだった。 関係のない男でいたくないと、既に思い始めていることを除けば。
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