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第11話 盆の入り

 盆に入ってから、彰人(あきひと)の体には線香の匂いが染みついていた。  朝、洗い立てのワイシャツに袖を通しても、昼を過ぎる頃には襟元から白檀の匂いが立つ。初盆を迎える家を訪ね、盆棚の飾り方を確かめ、法要に使う供花や返礼品を届ける。会社に戻れば、今度は葬儀を終えたばかりの遺族から、何を用意すれば故人を初めての盆に迎えられるのかと電話が入った。  死んだ人間が家に帰るとされる数日間、彰人の仕事は、普段以上に死者と生者の間を行き来するものになる。  提灯はどこに置けばいいのか。迎え火は必ず焚かなければならないのか。好物を供えたいが、何が好きだったのか思い出せない。遺族によって尋ねることは違っても、そこにいない人間をもう一度家に迎えたいという思いは似ている。彰人は宗派や地域の習慣を説明しながら、形式どおりでなくても構わないこと、故人を思って用意したものなら間違いではないことを伝えた。  そのたび、墓の下にいる弟のことを考えた。  晴希(はるき)は、盆になれば母親の家に帰るのだろうか。それとも、骨の納められた三枝家の墓にいるのか。死者が生前の家族を選べるなら、母親でも彰人でもない場所を選ぶかもしれない。  答えのないことを考えているうちに次の電話が鳴り、彰人はまた別の死者の名を確認した。  盆入りの翌日、午後の法要が一件、予定より早く終わった。  会社に戻るまでには少し時間がある。彰人は車のトランクに積んでいた掃除道具と供花を取り出し、三枝(さえぐさ)家の墓に向かった。  七月に訪れた時より、墓地には多くの人がいた。通路の両側には新しい花が供えられ、蝋燭に火を移す家族の話し声と読経が、絶え間ない蝉しぐれに混じっている。あちらこちらから上がる線香の煙は薄い膜のように墓石の列を覆い、強い日差しの下にいながら、そこだけが生きた人間の暮らす町から切り離されているように見えた。  三枝家の墓には、誰かが訪れた様子がなかった。  花立ては空で、香炉にも新しい灰はない。七月に彰人が掃除したあとに降った雨の跡が、墓石の側面に白く残っているだけだった。  母親が先に来るとは思っていなかった。再婚相手の住む町に移って初めての盆である。新しい家の習慣があり、向こうの親族に顔を出す必要もあるのかもしれない。晴希の墓参りは盆の終わりにするつもりなのだと、考えることもできた。  それでも、今年は来ないのかもしれないとも思った。  母親は昔から、自分の感情を持て余す子どものような人だった。嬉しい時には家族全員が同じように喜ばなければ機嫌を損ね、腹を立てれば、何日も家族の誰とも口を利かなくなった。自分が寂しいことには敏感なくせに、相手がなぜ黙り込んでいるのかを考えることはない。彰人とは、幼い頃から合わなかった。  父も同じだったのだろう。  二人が口論を始めると、父は途中から何も言わなくなった。母が泣き、怒鳴り、過去の話まで持ち出しても、黙って煙草を吸っていた。その沈黙が母を余計に怒らせていると彰人にも分かったが、父にはほかのやり方がなかったのかもしれない。やがて父は家を出ることを選び、彰人は父についていった。晴希は母のそばに残った。  どちらの子どもを連れていくか、大人たちがどう決めたのかは知らない。彰人は父と暮らす方がいいと自分で答えた。晴希も母を一人にできないと言った。だから兄弟が別れたのは、それぞれが選んだ結果だと思っていた。  五年前、川から引き上げられた弟の体を見るまでは。  彰人は水を汲み、墓石に掛けた。柔らかな布で表面を拭い、文字の溝に溜まった汚れを小さな刷毛で掻き出す。花立てを洗って水を替え、白と黄の菊を挿した。晴希は菊を好んでいたわけではない。生きていた頃に花の好みを尋ねたことなど、一度もなかった。  晴希が好きだったものなら、ほかにいくらでも覚えている。  まだ家族四人で暮らしていた頃、夏休みの晴希は、野球部の練習から帰った彰人のアイスを勝手に食べた。冷凍庫の奥に隠したつもりだったのに、風呂から上がると、晴希が居間の床に座って棒だけを口に咥えていた。 「それ、俺のだろ」 「名前書いてなかったし」 「冷凍庫の一番奥に入れてあった」 「見つけた俺のもの」  晴希は悪びれもせず、空になった袋をひらひら振った。彰人が頭を小突くと大袈裟に痛がり、翌日、同じアイスを二本買って帰れば、今度は自分の分を半分残して彰人に寄越した。 「昨日の返す」 「溶けてるじゃないか」 「半分も返したのに文句言うなよ」 「一本食ったんだから一本返せ」 「兄貴の方がでかいんだから、半分で足りるだろ」  意味の分からない理屈に呆れながら、彰人は溶けかけたアイスを受け取った。  それだけの記憶だった。  母親の機嫌も、父親の沈黙も関係なく、兄のものを勝手に食べた弟と口論した、ごく普通の夏の日である。晴希を思い出そうとするたび、最後に見た濡れた顔と冷たい体ばかりが浮かんでいたのに、今日はなぜか、唇の端にアイスをつけて笑う顔を思い出した。  線香に火をつけ、香炉に立てる。煙が真っ直ぐ上がったあと、風に押されて彰人の黒い上着に纏わりついた。  手を合わせても、報告できることはなかった。  五年前に晴希と一緒にいた男を、自分の部屋に住まわせている。晴希の死について探るために近づいたはずが、今は朝になればその男の食事を作り、仕事を終えれば待っている部屋に帰っている。ほかの男がつけた歯型を見て腹を立て、自分が抱けばいいのかと考えた。  どれも、死んだ弟に告げられることではなかった。  目を開けると、煙の向こうで三枝晴希の名が揺れていた。 「また来る」  それだけを口にし、彰人は立ち上がった。  仕事を終えて帰宅したのは、午後九時を過ぎてからだった。  玄関を開けると、冷房の風と出汁の匂いが流れてきた。(さく)は台所に立ち、鍋の中の素麺を菜箸でほぐしている。彰人の帰宅時間に合わせて茹で始めたらしく、テーブルには切った胡瓜と錦糸卵、冷やしたトマトが並んでいた。 「おかえり」 「ただいま。連絡を見たのか」 「九時頃になるって書いてあったから。茹ですぎてないと思う」  朔はざるに素麺をあけ、流水で冷やした。指先で麺を揉む手つきはまだ慣れていないが、以前のように、料理はできないと初めから諦めることはなくなっている。  彰人が鞄を置いてネクタイを緩めると、朔が一度こちらを見た。 「今日も線香の匂いがする」 「盆の間は仕方ない」 「昨日より強い。高瀬さんが部屋にいるのに、墓にいるみたいだ」  彰人は返事をせず、洗面所で手を洗った。石鹸を使っても、指の間にはまだ微かな煙の匂いが残っている。  二人で向かい合い、遅い夕食を取った。朔の作ったつゆは少し濃く、錦糸卵は細いものと太いものが混じっていた。それでも冷たい麺は、一日中礼服で動いたあとにも食べやすく、彰人は用意された一人前を残さず食べた。 「盆って、忙しいんだな」 「葬儀が増えるわけではない。初盆の法要や供物の手配が重なる」 「死んだ人が帰ってくるから?」 「そう信じて迎える家がある」 「高瀬さんも、誰か迎えるの」  箸を持つ手が僅かに止まった。  朔は何気なく尋ねただけらしい。彰人の服から線香の匂いがする理由と同じ程度の興味で、冷えたトマトを口に入れている。 「墓参りには行った」 「そう」  誰の墓かは聞かなかった。  少し前なら、その遠慮をありがたいと思っただろう。今は、何も知らないから踏み込まない朔の横顔を見ることが苦しかった。  食器を洗い終え、彰人は先にシャワーを浴びた。髪を洗い、首筋や腕を石鹸で何度も擦ると、一日中纏っていた線香の匂いはようやく消えた。浴室を出た時には、鏡に映る自分が死者の側から生者の暮らす部屋に戻ってきたように感じられた。  薄い部屋着に着替えて居間に戻ると、朔のスマートフォンが鳴っていた。  朔はソファの端に座り、画面を見つめている。登録している相手なのか、少し迷ったあとに通話に出た。 「もしもし」 『晴希くん?』  静かな部屋では、耳に当てたスマートフォンから漏れる男の声まで聞こえた。  甘ったるく引き延ばされた晴希という名に、彰人の足が止まる。 『この前は途中で帰っちゃったから、寂しかったよ。今夜、会えない?』  朔は彰人を見た。  ほんの一瞬だけ視線が重なり、すぐに外される。そのあとに口から出た声は、彰人が毎日聞いているものとは違っていた。少し高く、息を混ぜ、相手が望む柔らかさを注意深く作った声だった。 「良いよ、嬉しい。いつものホテルで良い?」  気づいた時には、彰人は朔の前に立っていた。  耳からスマートフォンを奪い、通話を切る。画面に残った番号まで消してしまいたい衝動を、辛うじて指先に留めた。 「何すんだよ」  朔が立ち上がる。 「返せ」 「行くな」 「高瀬さんには関係ないだろ」 「ある」 「何があるんだよ。あれから何も言わなかったくせに」  朔がスマートフォンを取り返そうと手を伸ばす。彰人はその手首を掴み、反対の手で機器をテーブルに置いた。 「今夜はここにいろ」 「嫌だ。離せ」  振りほどこうとした腕を放せなかった。首にあった鬱血痕は薄くなり、今は黄色い影が僅かに残るだけである。あの痕をつけた男と、電話の相手が同じかは分からない。どちらであっても、朔がこれからまた、あの作り物の声で知らない男に触れられることが耐えられなかった。  彰人は朔の手首を掴んだまま、寝室に連れていった。 「高瀬さん、痛い」  その一言で我に返り、僅かに力を緩める。それでも手は放さず、開いていた扉を肩で押した。寝室に入ると、朔の体をベッドに押し倒す。  白いシーツの上で栗色の髪が広がった。驚きに見開かれた目が、覆いかぶさった彰人を見上げている。 「誰でもいいなら、俺にしろ」  言葉にした途端、それがどれほど酷いものか分かった。  朔の顔が歪んだ。  怯えたのではない。傷ついた顔を見せるより先に、何も期待していなかった人間のように唇を吊り上げる。 「どうせ最初から、そのつもりだったんだろ」 「違う」 「寝る場所と飯をくれて、俺が高瀬さんの言うことを聞くようになったら、好きにできると思ってたんじゃないの」 「違うと言っている」 「何が違うんだよ。今、押さえつけてるだろ」  彰人は、手首を掴んでいた手を放した。  皮膚には指の形が薄く残っている。そこに触れて謝る資格もないように思え、彰人は朔の上から体を退けた。 「今のは、俺が悪かった」  ベッドの脇に立ち、息を整える。朔が起き上がって部屋を出ても、止めてはいけない。そう思うのに、胸の内側では、行かないでほしいという身勝手な願いが膨らんでいた。 「最初から、お前の体を求めて近づいたわけじゃない」  朔に近づいた本当の理由は、それよりも正しいとは言えない。彰人は続く言葉を呑み込んだ。 「だが、今は抱きたいと思っている。ほかの誰でもなく、お前を」  朔の目が揺れた。 「男を抱いたことはない。うまくできるとも言えない。それでも、さっきの男のところに行かせたくない。お前が嫌なら、もう触らない」 「誰でもいいって言ったのに」 「あれは取り消す」 「俺じゃなくてもいいみたいだった」 「お前でなければ、こんなことはしない」  答えたあとで、自分が何を認めたのかに気づいた。  朔はすぐには動かなかった。仰向けのまま、自分の手首に残った赤みを親指で擦っている。やがて上体を起こし、彰人の部屋着の裾を掴んだ。 「俺が、高瀬さんに抱かれたいって言ったら?」 「それでも、お前が本当に望んでいるのか確かめる」 「面倒だな」 「嫌ならやめる」 「嫌じゃない」  朔の指が裾を握り直した。 「あの男じゃなくて、高瀬さんに抱いてほしい。これでいい?」  彰人は頷いた。  今度は押し倒さず、ベッドに座った朔と目の高さを合わせる。頬に手を添えると、朔は逃げなかった。親指で皮膚を撫で、顔を寄せても、先ほどのような作り物の笑みは浮かばない。  唇が触れる直前に一度止まり、朔の目を見る。 「キスするぞ」 「いちいち言うの?」 「悪いか」  朔は僅かに目を細め、自分から距離を縮めた。  初めのキスは、ひどく不器用だった。  角度が合わず、互いの鼻先が触れる。唇を重ねたまま動こうとして歯が当たり、朔が小さく息を漏らした。笑われたのかと思って離れかけると、首の後ろに腕が回される。 「やめるなよ」 「痛くなかったか」 「このくらい平気」 「平気かどうかじゃなくて、嫌なら言え」 「嫌じゃない」  答えを聞いてから、もう一度口づけた。

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