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第13話 記憶

 目を覚ました時、(さく)は一人でベッドにいた。  薄いカーテンを透かした朝の光が、見慣れない角度から顔に当たっている。体に掛けられた毛布は腰のあたりまでずれ、隣のシーツには、誰かが横になった跡らしい浅い皺だけが残っていた。  一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。  知らない男の部屋で朝を迎えることには慣れている。目を開ける前に、前夜の相手と場所を思い出し、余計なものに触れないように起き上がり、求められない限りは言葉も交わさず出ていく。それがいつもの朝だった。  けれど、ここは知らない部屋ではない。  壁際に置かれた本棚も、窓のそばに立つ濃い色のカーテンも、ベッド脇のテーブルに並んだ二本の水も知っている。片方のボトルは半分ほど減っており、もう片方は蓋が開けられたまま、手を伸ばせば届くところに置かれていた。  昨夜、彰人(あきひと)が用意したものだった。  記憶が繋がると、体のあちらこちらに残る感覚まで急に鮮明になった。唇には何度も口づけられた熱があり、腰から腿にかけては重い疲労が残っている。体の奥に僅かな痛みはあったが、これまで雑に抱かれた翌朝に覚えたものとは違っていた。無理に広げられた傷の痛みではなく、時間をかけて触れられ、自分から彰人を受け入れたことを思い出させる鈍い感覚だった。  気持ちよかった。  その言葉を頭の中に浮かべただけで、頬のあたりが熱くなる。  セックスが本当に気持ちいいものだと、二十二歳になって初めて知った。相手が満足したかどうかではなく、自分の体が何を感じているのかを考え、もっと触れてほしいと口にした。声も表情も作る余裕をなくし、最後には彰人の名まで呼んだ。  行為のあとには、離れたくないとも言った。  そこまで思い出したところで、朔は毛布を頭まで引き上げた。  眠気の中で口にしたことは、どこまで彰人に聞かれていたのだろう。あんなふうに抱かれたら離れられなくなる。また触ってほしくなる。朔自身、昨夜までは知らなかった望みを、何ひとつ隠さず曝け出した気がする。  それでも、後悔はなかった。  彰人に抱かれたことを、一度きりの間違いにしたくない。次は自分から触れたい。あの大きな手が自分のために動き、口づけの合間に低い声で自分の名を呼ぶのを、もう一度聞きたかった。  居間の方から、食器の触れ合う音がした。  彰人は起きている。  朔は毛布から顔を出し、床に落ちていたTシャツに手を伸ばしかけた。昨夜脱いだ服をそのまま着ることに少し抵抗があり、彰人がベッドの脇に畳んで置いていた部屋着を借りた。肩も袖も朔には大きく、裾は腿の半ば近くまであった。  寝室を出ると、彰人は台所に立っていた。  既にワイシャツとスラックスに着替え、味噌汁の鍋を火に掛けている。テーブルには焼いた鮭と卵焼き、胡瓜の浅漬けが二人分並び、炊飯器からは炊きたての米の匂いが漂っていた。  いつもの朝だった。 「起きたか」  彰人は鍋の火を弱め、朔を見た。その視線が、借りた部屋着に一度だけ落ちた。 「体はどうだ。痛みはないか」 「少しだけ。でも、平気」 「強くなるようなら言え。出血は」 「ないと思う」 「思うではなく、あとで確認しろ」  それだけ言うと、彰人は椀に味噌汁をよそった。  昨夜の気まずさを持ち込まないようにしているのかもしれない。朔が恥ずかしがると思い、普段どおりにしている可能性もある。そう考えながら椅子に座ったが、彰人は朝食の間も、今日の仕事はあるのか、帰りは何時頃になるのかと、毎朝しているのと同じことしか尋ねなかった。  朔の方から昨夜の話を持ち出すこともできなかった。  自分を抱いてどうだったのか。また触れたいと思ったのか。あの男のところへ行かせたくないと言ったのは、朔をほかの男に渡したくないという意味だったのか。  どれも、口にすれば答えを求めていることが明らかになる。  これまでなら、相手の気持ちなど知ろうともしなかった。次に誘われれば応じ、連絡がなければそれきりでいい。求められている間だけ相手の望むものになり、終われば何も持ち帰らない。その方が楽だった。  彰人に対しては、同じようにできなかった。 「今日は休みだったな」 「うん」 「無理に外へ出るな。今日も三十八度まで上がるらしい。……夏は嫌いだ」 「高瀬さんは?」 「仕事だ」 「知ってる。何時に帰るの」  彰人は少しだけ考えた。 「分からない。盆の依頼が重なっている。遅くなるなら連絡する」 「夕飯、作って待ってる」 「体が痛むなら寝ていろ」 「痛くないって」  少し強く返すと、彰人は黙った。朔の顔を見たあと、手元の味噌汁に視線を落とす。 「無理はするな、藤代」  呼ばれた瞬間、胸の内側が僅かに温かくなった。  ただの名字だった。役所でも病院でも、日雇いの現場でも使う、自分のものらしい名前である。以前は呼ばれても、自分と同じ名字の誰かが近くにいるのだと思うことがあった。彰人から繰り返し聞くうちに、今では考えるより先に、自分へ向けられた声だと分かるようになった。それでも、藤代朔になったつもりはない。  それなのに昨夜、触れるたびにその名を聞かされた時には、ほかの誰でもなく自分だけを求められていると思った。  同じ呼び方なのに、今朝はさらに違って聞こえる。  朔は返事の代わりに頷き、卵焼きを口に入れた。  甘さのあとに、出汁の味がした。  彰人は、昨夜のことなどなかったように仕事に出た。  玄関まで見送ると、彰人はいつものように、戸締まりをすることと、外へ出る時には連絡することを念押しした。朔が返事をすると、彰人は一瞬、何かを言いかけた。それでも結局は「行ってくる」とだけ告げ、扉の向こうへ姿を消した。  部屋には、朔一人が残された。  居間のソファの前には、昨夜敷かなかった布団が畳まれている。寝室のベッドには二人で眠った跡が残っていたが、彰人はシーツを替えろとも、そのままでいいとも言わなかった。  朔は朝食の食器を洗い、洗濯機を回した。彰人から借りた部屋着を脱ぐ前に、もう一度だけ袖に顔を寄せる。洗剤と、僅かに彰人の匂いがした。  自分が彰人に惹かれているのだと、認めるしかなかった。  食事を用意してくれるからでも、眠る場所を貸してくれるからでもない。彰人が帰れば安心し、遅ければ時計を見る。自分以外の死者の話をしている時でさえ、その低い声を聞いていたいと思う。昨夜、知らない男のもとへ行くなと引き留められた時には、怒るより先に嬉しかった。  彰人も、自分を特別に思っている。  そうでなければ、あんな顔で電話を切ることも、ほかの誰でもなくお前を抱きたいと言うこともないはずだった。朔の体を気持ちよくするためだけに時間をかけ、終わったあとまでそばにいる必要もない。  だからこそ、何もなかったように出ていった彰人の気持ちが分からない。  男を抱いたのが初めてだったから、朝になって後悔したのだろうか。朔が思ったよりも簡単に縋り、面倒になったのかもしれない。あるいは、知らない男に触れさせないという目的を果たしただけで、もう一度抱きたいほどではなかったのか。  洗濯機の中で水が回り始める。  低い音を立てて衣類を呑み込む水を見ているうちに、頭の奥で、別の水音が重なった。  川だった。  薄茶色に濁った水が、普段より高いところまで迫っている。東屋の屋根を打っていた雨は止んでいるのに、木々の葉から落ちる雫が絶え間なく水面を叩いていた。  誰かの声がする。  まだ成人していない、苛立ちを含んだ少年の声だった。 『彰人はもう高瀬だから』  朔は咄嗟に洗濯機に手をついた。  水音が遠ざかり、目の前には透明な蓋の中を回る衣類だけが残る。膝から力が抜けそうになり、洗面台の縁に腰を預けた。  今のは、夢ではない。  五年前の川だと思った。そう判断できる理由は分からないのに、喫茶店で水に浸かる感覚が蘇った時と同じように、体の方がその場所を知っている。  彰人。  少年は確かにそう言った。  今の彰人と、記憶の中で少年が口にした彰人が同じ人間なのかは分からない。珍しい名前ではないが、どこにでもいるほど多くもない。高瀬という姓まで重なっているなら、偶然ではない可能性がある。  それでも、声の主が誰だったのかを思い出せなかった。  顔も見えない。なぜ川沿いの東屋にいたのかも、誰のことを話していたのかも分からない。ただ、彰人はもう高瀬だから、という短い言葉だけが、水の音とともに頭の中に残った。  朔はスマートフォンを手に取った。  仕事中の彰人に、過去に会ったことがあるかもしれないと伝えることはできる。けれど、何も確かではないまま話せば、彰人は詳しく尋ねるだろう。どこで、誰から、何を聞いたのかと問われても、今の朔には答えられない。  それに、彰人が何かを知っていたとしても、向こうから話すつもりがないことは分かっていた。  墓地で初めて会った時から、彰人は時々、朔の向こうに別の誰かを見る。死者の名を使うなと何度も怒りながら、その死者との関係を尋ねても答えない。盆に誰の墓へ行ったのかも、夏を嫌う理由も話そうとしない。  彰人には秘密がある。  朔はメッセージの画面を閉じた。  曖昧な記憶を差し出して彰人の秘密だけを聞き出すより、自分が何を思い出したのかを先に確かめたかった。  その夜、彰人が帰宅したのは十時を過ぎてからだった。  連絡を受けていたため、夕食は冷蔵庫に入れてある。玄関を開けた彰人は、朝と同じワイシャツを着ていたが、襟元は汗で僅かに色を変え、体にはまた線香の匂いが染みついていた。 「おかえり」 「ただいま。起きていたのか」 「まだ十時だよ」 「体は」 「もう平気」  彰人は朔の顔を見ただけで、昨夜のことには触れなかった。  彰人は温め直した夕食を食べ、シャワーを浴び、寝る支度をした。食事中には今日訪ねた家の盆提灯が風で倒れかけたことや、会社の冷房が追いつかないほど人の出入りが多かったことを話した。彰人は朔の作った茄子の煮浸しを残さず食べ、味が濃すぎなかったかと尋ねれば、ちょうどいいと答えた。  すべて、あの電話が鳴る前までと同じだった。  彰人が寝室へ入る頃、朔は居間のソファの前に布団を敷いた。  一度は同じベッドで裸になり、互いの熱が分からなくなるほど近くにいたのに、眠る場所だけが元に戻っている。彰人は朔にベッドで寝ろとも、寝室へ来いとも言わなかった。  扉が閉じる前に、朔は声をかけた。 「高瀬さん」  彰人が振り返る。 「昨日のこと、後悔してる?」  尋ねるつもりはなかった。けれど、このまま何日も何も言われないことの方が耐えられなかった。  彰人の表情が固くなる。 「していない」 「じゃあ、何で何も言わないの」 「何を言えばいい」 「それも俺に聞くの?」  朔は笑おうとしたが、うまくできなかった。 「またしたいとか、昨夜だけだとか。俺があんなこと言って、困ったとか」 「困ってはいない」 「それなら、また触ってくれる?」  彰人は答えなかった。  欲しくないのなら、そう言えばいい。彰人は朔の体を使うために嘘をつくような男ではない。少なくとも昨夜までは、そう思っていた。  沈黙が長くなるほど、拒まれたのと同じことのように感じられた。 「分かった。もう聞かない」 「藤代」 「おやすみ」  背を向け、布団に横になる。彰人はしばらく扉の前に立っていたが、やがて何も言わないまま寝室へ入った。  扉の閉まる音は小さかった。  それでも朔には、二人の間に固い板を差し込まれたように聞こえた。

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