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第14話 送り火

 盆の終わりが近づいても、彰人の帰宅は遅いままだった。  盆の法要や供物の手配に加え、連日の猛暑で亡くなる人が増えているという。彰人は詳しいことを話さなかったが、朝に届いた訃報を受け、夜にはその家の枕飾りを整えて帰ってくる日もあった。  遅い夕食を取りながら、朔はテレビの天気予報を見た。画面の中では日本列島のほとんどが赤く塗られ、明日も命に関わる暑さになると繰り返している。 「人って、暑いだけでも死ぬんだな」 「高齢者や持病のある人だけではない。水分を取らずに働き続ければ、若くても危ない」 「俺も一回倒れたしね」 「一回で済んだと思うな。明日も外の仕事なら、休憩を取れ」 「分かってる」  彰人は念を押すように朔を見たあと、麦茶を飲んだ。黒いシャツの袖を肘まで捲っている。盆に入ってから食欲が落ちているらしく、普段なら残さない飯が茶碗に少し残っていた。 「高瀬さんの方が倒れそう」 「俺は慣れている」 「そういうの、倒れる人が言うやつだろ」  朔は自分の皿に残っていた冷や奴を半分、彰人の小皿へ移した。 「食べて」 「お前が食べろ」 「俺は昼に弁当二つ食った。高瀬さんは?」 「移動の途中で食べた」 「何を」  答えないところを見ると、まともな食事ではなかったのだろう。朔が箸で冷や奴を指すと、彰人は諦めたように口へ運んだ。  こういうことをするたび、自分たちが何なのか分からなくなる。  恋人ではない。彰人はあの夜のことを後悔していないと言いながら、朔にもう一度触れたいとは答えなかった。それでも帰宅が遅くなれば必ず連絡があり、朔が作った夕食を食べ、体調を気に掛ける。朔も、彰人が帰るまで起きて待ち、食事を用意し、疲れた顔をしていれば少しでも食べさせようとする。  夏の間だけ同じ部屋で暮らしている他人としては、互いの生活に入り込みすぎていた。 「夏、嫌いなんだよね」  以前に聞いた言葉を思い出し、朔は尋ねた。 「忙しいから?」  彰人の箸が止まった。 「それもある」 「ほかにもあるんだ」 「ある」 「何?」  彰人は答えず、麦茶のグラスを持った。表面についた水滴が、大きな指を伝ってテーブルへ落ちる。 「俺が夏を嫌いなのは、おかしいか」 「おかしくない。ただ、理由を知りたかっただけ」 「知ってどうする」 「高瀬さんのこと、俺は何も知らないから」  彰人の目が上がった。  墓地で会った頃には、相手の過去など知る必要がないと思っていた。どこで生まれ、どんな家族がいて、何を好きになり、何を嫌いになったのか。それらを知ってしまえば、別れる時に持っていくものが増える。  今は、知りたかった。  彰人が夏を嫌うようになった理由も、誰の墓へ行ったのかも、黙り込む時には何を考えているのかも知りたい。自分の知らない五年前に、彰人という名を口にした少年のことも。 「俺のことは、話せるものがない。でも、高瀬さんにはあるだろ」 「今、話せることはない」  きっぱりと答えられ、朔はそれ以上尋ねなかった。  彰人は嘘をついているわけではない。けれど、話せないのではなく、話さないことを選んでいる。その選択の外に自分が置かれているのだと思うと、昨夜よりも冷たいものが胸の奥に残った。  食事を終え、彰人が食器を洗った。朔はテーブルを拭きながら、台所に立つ背中を見ていた。  広い肩にも、捲った袖から伸びる腕にも、今夜は触れられない。それでも離れたくないと思っている自分の方が、先に彰人を特別にしてしまったらしい。  盆の最終日、日が沈む頃になると、町のあちらこちらから煙の匂いが漂い始めた。  仕事を終えて駅から歩く途中、家の前に小さな焙烙(ほうろく)を置き、折った麻幹(おがら)に火をつけている家族を見かけた。橙色の炎は夕闇の中で揺れ、子どもが近づきすぎないよう、隣にいた大人が肩を抱いている。  迎えた死者を、今度は向こう側へ送り返す火だと彰人から聞いていた。  この数日、彰人の服から嗅いでいた線香の匂いと、家々の前から上がる煙の匂いが、朔の中で重なった。蝉の声はまだ絶えないのに、日が落ちる時刻だけは七月より僅かに早くなっていた。  死んだ人間は、帰る場所を迷わないのだろうか。  墓に帰るのか、生前に暮らした家へ帰るのか、それとも迎えてほしい人間のいる場所を自分で選べるのか。名前だけを覚え、顔も声も失った人間のところへも、誰かは帰ってくるのだろうか。  三枝晴希という名を思い浮かべても、朔の中には何も浮かばない。  以前は、それでも自分の名前だと思うことができた。自分の中に初めからあった唯一の言葉だから、ほかに何もなくても、それだけは自分のものだと信じた。  今は、晴希と聞けば彰人が顔を強張らせる様子を思い出す。その名前には自分ではない誰かの人生があり、彰人が話そうとしない過去と繋がっている。死者から借りたものだと知ってしまった名を、自分のものだと思い続けることは、少しずつ難しくなっていた。  代わりに、藤代という名が彰人の声で残る。  食事をしろと呼ぶ時。帰宅が遅い理由を尋ねる時。痛ければ言えと念を押す時。あの夜、触れるたびに自分だけを見て呼んだ時。  まだ、自分の名字だと完全に馴染んだわけではない。藤代朔と口にすれば、知らない男の名を借りているような感覚は残る。それでも彰人に呼ばれることには、もう抵抗も違和感もなかった。  彰人が藤代と呼ぶ時、それが自分を指す言葉だと知っているからだった。  それだけで、今は十分な気がした。  部屋に戻ると、彰人はまだ帰宅していなかった。遅くなるという連絡は入っている。朔は一人分の夕食を先に済ませ、彰人の分を冷蔵庫へ入れた。  居間の窓から、遠くに送り火らしい明かりが見えた。  向かいの建物の隙間に、小さな赤い点が見えた。風に揺れるたび、暗くなったり、また明るくなったりした。やがて炎が消えると、残った煙だけが夜の中へ薄く広がった。  日付が変わる前に彰人は帰宅した。  疲れてはいたが、先にシャワーを浴び、朔が用意した夕食を食べた。食事の途中で仕事の電話が入り、食べ終えるまでにいつもより時間がかかった。片づけを終えた頃には、彰人の目元にも濃い疲労が浮かんでいた。 「もう寝た方がいいよ」 「お前もだ」 「俺、明日は昼からだから」 「なら、なおさら夜更かしするな」  彰人は居間の冷房を見上げ、設定温度を一度下げた。 「今夜も暑い。切らずにつけておけ」 「高瀬さんは?」 「寝室にもある」 「そうじゃなくて」  続きを言う前に、彰人がこちらを見た。  朔は何でもないように肩を竦めた。 「おやすみ」 「おやすみ、藤代」  寝室の扉が閉まる。  朔は居間のソファの前に布団を敷き、明かりを消した。冷房の風が直接当たる位置を避けて枕を動かし、薄いタオルケットを腹に掛ける。目を閉じても、隣の部屋にいる彰人の気配ばかりを意識した。  冷房をつけたままにしておけと言われたが、低い運転音と肌を撫で続ける風が落ち着かず、一時間ほどして切った。  静かになったのは初めだけだった。  冷気が失われると、閉め切った居間にはすぐに熱が戻った。窓の向こうでは室外機の音が重なり、熱帯夜の空気そのものが建物を包んでいるようだった。首筋に汗が滲み、タオルケットを退けても眠れない。  冷房をつけ直せばいい。  枕元に置いたリモコンへ手を伸ばしながら、朔は動きを止めた。  本当に暑さだけが理由なら、それで済む。けれど今夜、寝室へ行く理由がひとつでもあるなら、暑さを使ってしまいたかった。  彰人のそばにいたい。  あの夜のことをなかったものにされたくない。もう一度抱かれなくても、同じ部屋で眠りたかった。  朔は起き上がり、寝室の前に立った。  一度目は、指を曲げただけで扉に触れられなかった。彰人が眠っているなら起こさない方がいい。迷惑だと思われれば、居間へ戻ればいい。そう考えている間にも、額から汗が落ちた。  朔は初めて、自分から寝室の扉を叩いた。 「高瀬さん、起きてる?」  少し間があり、内側から低い声が返る。 「どうした」  扉が開くと、彰人はまだ眠っていなかった。Tシャツと短パンを身につけ、片手には読みかけの本を持っている。寝室には冷房が効き、開いた扉から流れ出た空気が、汗ばんだ肌に心地よかった。 「居間、暑くて寝られない」 「冷房はどうした」 「切った」 「つけておけと言っただろう」 「風がずっと当たるの、落ち着かないんだよ。ここ、床に布団敷くのでもいいから、いさせてくれない?」  彰人はすぐには答えなかった。  朔の後ろにある居間を見て、それから寝室の床へ視線を落とす。ベッドと壁の間には人一人が横になれる程度の場所はあるが、布団を敷けば扉が半分しか開かなくなる。 「床で寝る必要はない。ベッドを使え」 「高瀬さんは?」 「俺が床で寝る」 「それなら居間と同じだろ」 「何がだ」 「一緒にいたいって言ってる」  口にすると、彰人の目が僅かに見開かれた。  朔はもう誤魔化さなかった。 「暑いのは本当。でも、冷房つけ直せば済むのも分かってる。それでも、ここに来たかった」  彰人の喉が動く。 「俺のそばにいて、どうする」 「何もしなくてもいいよ」  そう答えたあと、朔は少し笑った。 「できれば、何かしてほしいけど」 「藤代」 「嫌ならいい。ベッドだけ借りる」  彰人は長く息を吐き、扉を大きく開いた。 「入れ」  寝室に入り、朔はベッドの端に腰を下ろした。あの夜と同じシーツは、翌日のうちに自分で洗って掛け直してある。彰人は本を閉じ、ベッド脇のテーブルに置いた。 「お前がベッドを使え。俺は下でいい」 「一緒に寝られないほど狭くないだろ」 「あの夜は、眠るために入ったわけじゃない」 「最後は寝たよ」  彰人は答えなかった。  朔は壁際へ体を寄せ、空いた場所を軽く叩いた。 「高瀬さんが嫌じゃないなら、ここで寝て」  しばらく迷ったあと、彰人はベッドに腰を下ろした。  たったそれだけのことで、朔の胸が軽くなる。彰人が明かりを消し、二人で横になると、肩が触れない程度の隙間が残った。冷房の運転音が静かに続き、暗闇の中で互いの呼吸だけが近く聞こえる。  朔は横を向いた。  暗さに目が慣れると、仰向けになった彰人の輪郭が見えた。彰人は目を閉じず、天井を見つめていた。 「高瀬さん」 「何だ」 「キスして」  彰人の呼吸が一度止まった。 「何もしなくてもいいと言っただろう」 「できればしてほしいとも言った」 「そういう意味で寝室に入れたんじゃない」 「キスだけでも駄目?」  返事をしないまま、彰人が朔の方を向いた。  近づいた顔は、あの夜よりよく見えない。それでも頬に触れた手の熱と、迷うように動いた指先が分かった。  やがて唇が重なる。  ほんの僅かに触れ、すぐに離れるだけの口づけだった。  朔は彰人のTシャツを掴んだ。 「これだけ?」 「寝ろ」 「あの夜は、もっとした」 「分かっている」 「俺に触りたくない?」  彰人の手が頬から離れかける。朔はその手首を掴み、逃がさなかった。  暗闇の中でも、彰人の瞳に熱があることは分かった。朔の唇を見たあと、視線が首筋へ落ち、Tシャツの襟元で止まる。触れたいと思っていない人間の目ではない。  それなのに彰人は、自分から手を引いた。 「触れたくないわけではない」 「じゃあ、何で」 「今はできない」 「俺が嫌だから?」 「違う」  同じ答えばかりだった。  後悔していない。困ってもいない。嫌ではない。触れたくないわけでもない。それでも、なぜ拒むのかだけは話さない。  朔は彰人の手首を放した。 「高瀬さんのこと、ますます分かんなくなった」 「すまない」 「謝ってほしいわけじゃないよ」  背を向けようとすると、彰人の手が髪に触れた。  引き留めるほど強くはなく、栗色の髪を一度撫でただけで離れる。その中途半端な優しさが、拒絶よりも苦しかった。  朔は彰人のTシャツの袖を指先で摘まんだ。  彰人はそれを振りほどかなかった。  何もないまま夜は過ぎた。けれど隣にある体温と、一定の間隔で聞こえる呼吸に包まれていると、居間で一人だった夜よりも深く眠ることができた。  翌朝、枕元の目覚まし時計が鳴ると、彰人はすぐに起きた。  窓の外はまだ白み始めたばかりだった。彰人は朔を起こさないよう音を立てずにベッドを出た。朔も目を覚ましていたが、目は開けなかった。  クローゼットの扉が開く音がし、やがて寝室の扉が静かに閉じた。洗面所から聞こえてきた水音は、しばらくすると食器の触れ合う音に変わった。それらを遠くに聞きながら、朔は浅い眠りを行き来した。  出勤の支度を終えた頃、居間で彰人のスマートフォンが鳴った。  彰人が低い声で電話に出る。 「はい、高瀬です」  聞き慣れた声だった。  毎朝、仕事の連絡に応じる時と同じ、短く明瞭な名乗りである。  その声に、別の声が重なった。 『彰人はもう高瀬だから』  水の音がした。  東屋の軒から落ちる雫と、すぐそばを流れる川の音だった。湿った木のベンチに、二人の少年が座っている。隣には、制服のシャツを肘まで捲った少年がいた。  濡れた前髪の下に、苛立った目がある。  その顔を、朔は知っていた。 『それでもお前の兄貴だろ』  声を出したのは自分だった。  十七歳の藤代朔が、隣に座る少年に言っている。 『何年も顔見てないし』 『それでも今、帰ってきてるなら相談した方がいい』  少年は顔を背けた。  その横顔に、墓石に刻まれていた名が重なる。  三枝晴希。  記憶の中の少年は、死者の名を持ちながら、濡れた髪を鬱陶しそうに掻き上げ、確かに息をしていた。  彰人はもう高瀬だから。  それでもお前の兄貴だろ。  晴希が母親と同じ三枝を名乗り、兄が高瀬を名乗っていることを、自分は知っていた。  彰人。  晴希がそう呼んでいた兄の名だった。  居間では、電話を終えた彰人が寝室へ戻ろうとしている。扉の向こうから足音が近づき、ドアノブが動いた。  朔はベッドの上で目を開けた。  入ってきた男の顔を見た瞬間、五年間、別々の場所に沈んでいた二つの名前がひとつに繋がった。 ――高瀬彰人は、三枝晴希の兄だ。

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