15 / 18
第15話 暴かれる嘘
寝室の扉が開き、彰人 が入ってきた。
仕事の電話を終えたばかりらしく、片手にはまだスマートフォンを持っている。既にワイシャツと黒いスラックスに着替え、ベルトも締めていた。ベッドの上で目を開けている朔 を見ると、僅かに足を止める。
「起きていたのか」
聞き慣れた低い声だった。
毎朝、自分を起こし、食事をしろと呼び、帰宅が遅ければ理由を尋ねる声である。その声と、扉の前に立つ男の顔を、朔は知っている。
今より少し若い顔だった。
白い天井から、朝なのか夜なのかも分からない光が落ちている。消毒薬の匂いが鼻の奥に残り、体のあちらこちらが、自分のものではないように重かった。少し動くだけで腕へ繋がれた点滴の管が引かれ、乾いた喉から息が漏れる。
ベッドの脇に、彰人が立っていた。
黒い服を着ていた。喪服だったのかもしれない。けれど記憶の中の朔には、その意味を考える余裕がなかった。ただ、自分を見下ろす男の目が、病室のどこよりも冷たかったことだけを覚えている。
『お前が殺したのか』
彰人の唇が動いた。
『違うなら、どうしてあんなことを言った』
何を尋ねられているのか分からなかった。答えようとしたのかもしれない。けれど声は出ず、彰人がもうひとつの言葉を突きつけた。
『お前が言ったんだ。俺は晴希 を殺したって』
白い光が揺れた。
彰人の顔も、病室の壁も、水の底から見上げているように歪んで遠ざかる。耳の奥で川の音がしていた。
「藤代」
現在の声に呼ばれ、朔は息を吸った。
寝室には朝の光が差し込み、冷房の運転音が静かに続いている。腕に管はなく、体に残っているのは、あの夜に彰人から与えられた熱と、昨夜同じベッドで眠った温もりだけだった。
彰人が一歩近づく。
「どうした。顔色が悪い」
「高瀬さん、三枝晴希のお兄さんなんだね」
彰人の足が止まった。
驚いた顔はしなかった。何かを恐れていた人間が、ついにその時を迎えたように、手にしていたスマートフォンをゆっくり下ろす。
「……思い出したのか」
否定しなかった。
それだけで、先ほどまでなら疑う余地のあった記憶が、動かしようのない事実になる。
「少しだけ。川沿いの東屋で、晴希と話したこと。晴希が、高瀬さんのことを彰人って呼んでた」
「ほかには」
「今、病院のことも思い出した」
彰人の表情が僅かに強張った。
「俺に、お前が殺したのかって聞いた」
「ああ」
「俺が晴希を殺したって言ったの」
「救助された直後、お前は何度もそう言っていた。俺も聞いた」
彰人の返事は短く、言い逃れを探す様子もなかった。
朔は掛け布団の上で指を握った。水の中で誰かの腕を掴んだ感触は、以前から時折夢に現れた。しかし、その相手が晴希だったのか、なぜ二人で川へ落ちたのかは思い出せない。自分が殺したという言葉も、今の記憶にはなかった。
「本当に、俺が殺したの」
「警察は事故だと判断した」
「高瀬さんは、そう思わなかったんだろ」
彰人は答えなかった。
その沈黙を、朔はこの部屋で何度も見てきた。尋ねられたことに嘘はつかない代わりに、都合の悪い部分だけは口にしない。以前は、それでも彰人は不器用なだけなのだと思っていた。
今は、沈黙の向こうに何が隠れているのか分かる。
「墓で会った時から、俺が誰か知ってた?」
「知っていた」
「藤代朔だってことも?」
「ああ」
「俺が何も覚えてないのも知ってた」
「記憶を失ったとは聞いていた。だが、実際に会うまで、どこまで本当なのかは分からなかった」
「嘘かもしれないと思ってたんだ」
「その可能性は疑っていた」
朔は笑おうとした。
唇が動いただけで、声にはならなかった。
彰人は初めから、自分を知っていた。墓石の日陰で倒れかけていた時も、喫茶店でこれまでの暮らしを尋ねた時も、図書館で五年前の記事を見せた時も、目の前にいる人間が晴希と一緒に川へ落ち、生きて戻った藤代朔だと分かっていた。
分かっていて、知らないと言った。
「それで、俺に近づいたの」
「晴希の死について、何か覚えていないか確かめようと思った」
「記憶を探すのを手伝うって言ったのも、俺のためじゃなかった?」
「最初は違った」
「じゃあ、部屋に置いたのも、何か思い出すか見張るため?」
彰人はすぐには答えなかった。
「……最初は、そのつもりだった」
最初は。
その言葉が、朔の胸の内側へ引っかかった。
「いつから違ったの」
彰人の目が揺れる。
「俺が倒れて病院に連れていった時? 荷物を持ってきた時? 毎日飯を作ってくれるようになった時?」
「藤代」
「あの夜には、もう違った?」
彰人が息を止めた。
朔はベッドの上で身を起こした。彰人から借りた部屋着の襟元から、彰人に何度も口づけられた肌が覗く。あの夜にこの場所で何をしたのか、彰人も忘れてはいないはずだった。
「高瀬さんは、俺が誰か知ってた。俺が晴希を殺したかもしれないって思いながら、何も知らない俺を抱いたんだ。俺に、復讐したかった?」
「違う」
「じゃあ、何で」
彰人の唇は動かなかった。
体に触れられた時には、あれほど何度も名前を呼ばれた。どこが痛むのか、何をすれば気持ちがいいのか、声にしなくても分かろうとするように見つめられた。終わったあとには体を拭き、水を飲ませ、眠るまで隣にいた。
その男が、今は何も答えない。
「知らない男のところに行かせたくないって言ったよね。ほかの誰でもなく俺を抱きたいって」
「言った」
「俺が高瀬さんを選んだと思った?」
「……ああ」
「選べるわけないだろ。俺は高瀬さんが誰か知らなかったんだから」
彰人の顔から、僅かに血の気が引いた。
朔は初めて、彰人を傷つけたと分かった。それでも言葉を止めることができなかった。自分の方が、何を渡したのかも知らないまま、あまりにも多くを差し出していた。
「俺、あんなふうに誰かに触ってほしいと思ったことなかった。高瀬さんがいいって、自分で決めたつもりだった。離れたくないって言ったことまで、全部知ってるくせに黙ってたんだ」
「すまない」
「謝ってほしいんじゃない」
昨夜も、同じ言葉を口にした。
あの時は、触れられない理由を教えてほしかった。今は、教えられなかった理由が分かってしまった。
「晴希を殺したかもしれない俺が、何も知らずに高瀬さんを好きになって、抱かれて喜んでるのを見たかった?」
「違う」
「それが復讐だったの」
「違う」
「だったら、何で抱いたの」
彰人は答えなかった。
部屋の外で、炊飯器が炊き上がりを知らせる音を鳴らした。いつもの朝なら、彰人が味噌汁をよそい、朔がまだ眠いと言いながらテーブルにつく時刻である。壁の向こうでは、新聞配達のバイクが遠ざかり、どこかの部屋で玄関の扉が閉まった。
今日も、ほかの人間の朝は何事もなく始まっている。
彰人は腕時計へ目を落とした。
それだけの動きに、朔はまた笑いそうになった。
「仕事、行くんだ」
「今日、俺が担当する告別式がある」
「分かってる。行きなよ」
「藤代」
「死んだ人を待たせるわけにはいかないんだろ」
責めるつもりで言ったわけではなかった。彰人の仕事を軽く考えたことはない。朝になれば誰かの死を引き受け、残された人間が別れを終えるまで立ち続ける。その姿を知っているからこそ、彰人を好きになった。
けれど今、自分との話より死者のもとへ行く男を、穏やかな気持ちで送り出すことはできなかった。
「帰ったら話す」
彰人は言った。
「俺が隠していたことも、お前に近づいた理由も、全部話す。今度は何を聞かれても答える」
「今は答えられないのに?」
「順を追って話させてほしい。今は、時間がなさすぎる」
彰人の右手が僅かに上がった。
朔の肩へ触れようとしたのかもしれない。けれど、その手は何にも触れずに下ろされた。
「帰ったら、必ず話す」
ここにいてくれとは言わなかった。
行かないでほしいとも、帰ってくるまで待っていてほしいとも言わない。彰人の中では、仕事を終えてこの部屋へ戻れば、朔がいることが決まっているらしい。
昨日までの朔も、そう思っていた。
彰人が帰ってくるまでに夕食を作り、玄関の音を聞けば、おかえりと言うつもりだった。
「分かった」
朔は答えた。
「帰ったら話そう」
彰人が出ていくと、部屋は急に広くなった。
玄関の扉が閉まったあとも、しばらくは廊下を歩く足音が聞こえていた。やがてエレベーターが動き、低い機械音も止まる。
テーブルには、彰人が用意していた朝食が二人分並んでいた。
焼いた鮭と卵焼き、豆腐の入った味噌汁。炊飯器の中には米が炊けている。彰人は朔の分までいつもどおり用意していたらしい。
朔は椅子に座らなかった。
冷めていく味噌汁の表面を、立ったまま見ていた。
彰人が帰れば、すべてを話すと言った。
初めは晴希の死について調べるためだったが、今は違う。その先を聞けば、彰人が自分を大切にしたことまで、すべて嘘だったわけではないと分かるのかもしれない。復讐で抱いたのではないという言葉を、信じられる理由も見つかる可能性がある。
それでも、ここに残ることはできなかった。
あの手に触れられれば、今度こそ離れられなくなる。
彰人が何を隠し、なぜ近づいたのか分かったあとでさえ、嫌いになんてなれなかった。
晴希を殺したかもしれない自分が、その兄を好きになった。
彰人の中にどれほどの憎しみが残っているのかも分からないのに、優しく抱かれた記憶だけを信じ、また触れてほしいと思っている。
このまま待っていれば、彰人が帰宅した時に、怒るより先に縋ってしまう。
朔は寝室へ戻り、床に落ちていた自分の服へ着替えた。
居間の収納から衣類を出し、黒いリュックサックとスポーツバッグへ詰める。初めてこの部屋へ来た時には、引き出しの半分にも満たなかった荷物である。彰人と暮らすうちにTシャツや下着は僅かに増えていたが、それでもすべてを収めるのに時間はかからなかった。
洗面所からは、薄い青色のコップと白い歯ブラシを持ち出した。
黒いコップだけが残った洗面台は、初めから一人で使うために作られたかのように、何の違和感もなかった。自分のものを隣へ置いていた一か月余りが、最初からなかったことにされていくようだった。
借りていた部屋着は畳んでベッドの上へ置いた。彰人から買い与えられたタオルを持っていくべきか迷い、結局、スポーツバッグの隙間へ入れた。自分のために選ばれた物を残しても、彰人には使い道がない。
朝食には手をつけられなかった。
けれど、彰人が作ったものを、そのまま傷ませることもできない。鮭と卵焼きの皿、味噌汁の椀へ一つずつラップをかける。茶碗の米も一膳ずつ包み、すべて冷蔵庫へ入れた。
スマートフォンを手に取る。彰人とのメッセージを開けば、昨日までの短いやり取りが並んでいた。仕事へ行く。夕食はいらない。遅くなる。分かった。気をつけて帰れ。
その中に、朔を好きだという言葉は一つもなかった。
電源を切り、ポケットへ入れる。
玄関で靴を履き、最後に部屋を振り返った。
この部屋で過ごした時間は、地元を離れてからの四年間よりずっと短い。それなのに、台所のどこに醤油があり、どの棚へ皿を戻し、冷房を何度に設定すれば彰人が何も言わないのかを知っている。彰人が帰ってくる時刻も、風呂上がりに飲む水を冷蔵庫のどこへ入れておけばいいのかも分かる。
自分がこれからどこへ行けばいいのかだけが、分からなかった。
朔は扉を閉め、鍵をかけた。
合鍵は、集合玄関の郵便受けへ入れた。
銀色の鍵が底へ落ち、小さな音を立てた。
ともだちにシェアしよう!

