17 / 18

第17話 五年後の八月三十一日

 古いスマートフォンの画面が点いたのは、日付が変わる少し前だった。  五年間、一度も充電されていなかった端末である。充電器へ繋いでもすぐには反応せず、壊れているのかと思い始めた頃になって、暗い画面の中央へようやく電池の形が浮かび上がった。  彰人(あきひと)は、 その間に冷蔵庫の朝食を温めた。  二人分だった食事を一人で食べ、空になった器を洗って水切り籠へ伏せる。何を口へ運んだのか、ほとんど味は分からなかった。手を動かしていても、居間の景色は元には戻らなかった。手を動かしていても、居間の景色は元には戻らなかった。引き出しの半分は空いたままで、洗面所には黒いコップが一つしかない。冷房を止めると、部屋には機械の音さえなくなった。  連絡のつかない(さく)が、今夜どこで眠るのか分からない。  彰人は何度目かになる電話をかけた。返ってきたのは、電源が入っていないことを知らせる同じ音声だけだった。  古い端末が起動する。  薄く傷の入った画面に四桁の暗証番号を求められ、彰人は指を止めた。思いつく数字は一つしかなかった。晴希の誕生日を入力すると、ロックはあっさりと外れた。  弟の誕生日を知っているだけで、兄でいられたつもりになっていた。  待ち受けに使われていた写真は、放課後の教室らしかった。窓から差す夕日と、机の間に伸びた誰かの影だけが写っている。人物の姿はない。それが晴希の撮ったものなのか、誰かから送られたものなのかも分からなかった。  彰人はメッセージの一覧を開いた。  最後にやり取りをした相手は、藤代朔だった。  事故のあった八月三十一日の午後、三通だけが残っている。 『話したいことがある』 『俺は無いよ』 『いいから、いつもの場所に来て』  初めと最後が朔で、間の一通だけが晴希だった。  いつもの場所。  朔が思い出したと言っていた、川沿いの東屋が頭に浮かぶ。前日までの雨で岸が緩み、川の水量が増していた日、二人はそこで会っていた。  彰人は履歴を遡った。  晴希から送られた言葉は少ない。大丈夫、いらない、平気だから。どれも短く、会話を終わらせるための返事に見えた。その間を埋めるように、朔からのメッセージが並んでいる。 『今日もうち来ていいから』 『お前んちのお母さん、まだ帰って来ないの?』 『ちゃんと飯食ってる?』 『昨日渡したパンだけじゃ足りないだろ』 『バイトの金も引き出せないのはおかしいよ。お前の金だろ』 『先生に相談しよう』 『先生が嫌なら、兄貴に相談しろって』  同じようなやり取りは、一日だけに限らなかった。  母親がいつ帰ったのかを尋ね、夕食を食べたのかを確かめ、自分の家へ来るように何度も誘っている。返事のない夜には翌朝また連絡し、学校へ来れば話を聞こうとしていた。  晴希は母親が忙しいだけだと返していた。金はある、飯も食べた、余計なことをするな。ある夜には、彰人には絶対に言うなと送っている。  彰人は画面から目を離せなかった。  母親が何日も家へ帰らないことは知らなかった。生活費を置かず、晴希が自分で働いた金まで自由に使わせていなかったことも、一人で食事も取れずにいたことも知らない。  五年前の夏、彰人は数日だけ地元へ戻っていた。  晴希から連絡はなかった。顔を合わせてもいない。それを、弟の方が会おうとしなかったからだと思っていた。両親の離婚で姓が分かれ、次第に連絡が途絶えたあとも、晴希は母親と暮らすことを選んだのだから、自分が口を出す必要はないと決めつけていた。  そうではなかった。  晴希は十七歳だった。母親を悪く言うことも、何年も顔を見せなかった兄へ助けを求めることもできず、何も問題はないと言い張るほかなかった。  その晴希を、朔だけが見ていた。  食事を分け、自宅へ泊め、教師へ話そうとした。嫌がられても見捨てず、彰人を頼れと繰り返していた。  事故当日の短いやり取りを、もう一度見る。  話したいことがあると呼び出したのは朔だった。彰人に相談するよう説得し、それでも晴希が聞き入れなければ、教師へ話すつもりだったのかもしれない。  川で交わされた言葉までは、どこにも残っていない。  それでも、朔が晴希を殺したはずがなかった。  晴希が生きていた頃、これほど必死に助けようとしていた男が、あの日だけ突然、川へ突き落とすはずがない。晴希の腕に残った痕は、傷つけるために掴んだものではなかった。流されようとする弟を、最後まで離すまいとした手の痕だった。  俺が殺した。  河原で繰り返していた朔の言葉を、彰人は自白だと思った。弟を置いて家を出た自分ではなく、最後に一緒にいた朔だけを憎んだ。その方が、何も知らなかった自分と向き合わずに済んだからである。  朔は親友を助けられなかったことを、自分の罪にした。  彰人は弟を助けられなかったことを、朔の罪にした。  二人とも、晴希の死から動けないまま、同じ五年間を過ごした。  けれど、今の朔は失っていた記憶を取り戻し始めている。  自分が晴希を殺したと思い込み、十八歳になる前に一度死のうとした人間が、ひとりで事故の日の記憶へ近づいている。彰人の正体を知り、信じていたものまで失った直後に、同じ思い込みへ辿り着けば何をするか分からない。  彰人は立ち上がった。  壁の時計は午前零時を回っている。地元へ向かう終電は、既に出たあとだった。  もう一度、最後の履歴を見る。  いつもの場所。  朔が思い出した川沿いの東屋。事故からちょうど五年になる八月三十一日。  そこへ向かったという確証はない。それでも今の彰人には、ほかに縋れる場所もなかった。  始発の時刻を調べ、駅までの経路を確かめる。必要なものを鞄へ入れ、玄関へ向かったところで、テーブルの端に置いた銀色の鍵が目に入った。  郵便受けから拾い上げたあと、無意識にそこへ置いていたらしい。  彰人は鍵を取り、ポケットへ入れた。  まだ夜の明けない駅へ向かった。  朔は、駅前の屋根のあるベンチで夜を明かした。  終電が着いたあと、駅の明かりは間もなく消えた。自動販売機と街灯だけが人のいない広場を照らし、時折、迎えの車がロータリーへ入ってきては、誰も乗せずに去っていった。  眠ることはできなかった。  荷物を両脇へ置き、背もたれへ体を預けても、目を閉じるたびに川の音がした。晴希が怒った顔と、水の中から伸びてきた腕が、繋がらないまま何度も浮かんだ。  やがて空の下の方が薄く明るくなり、新聞配達のバイクが駅前を横切った。シャッターの閉じた店の前を、犬を連れた人が歩いていく。始発の時刻が近づくと駅舎にも明かりが点き、昨日とは違う一日が始まりかけていた。  八月三十一日。  晴希が死んでから、今日で五年になる。  朔は荷物を駅の貸しロッカーへ入れ、黒いリュックサックだけを背負って歩き始めた。  どちらへ行けばいいのか、頭で考える必要はなかった。駅前の道を抜け、古い商店街へ入る。店はほとんど閉まっていたが、錆の浮いた看板や、二階の窓に掛かった色褪せたカーテンを見れば、次に何があるのかを思い出せた。  角の肉屋では、晴希と何度もコロッケを買った。  二つ買って、揚げたてを紙袋から出し、行儀が悪いと言いながら歩いて食べた。晴希はいつも先に食べ終え、朔の手に残った半分を欲しがった。腹が減っているならもう一つ買えばいいと言っても、いらないと笑った。  商店街を抜けると、緩やかな坂道がある。  自転車で並んで上り、途中から競争になった。晴希は立ち漕ぎで先へ行き、頂上まで着くと、遅いと笑いながら待っていた。帰りは二人ともブレーキを握らずに下り、通りかかった大人に怒鳴られた。  記憶の中では、晴希はどこにでもいた。  笑い、怒り、腹を空かせていた。墓石に刻まれた名前でも、水の中で伸ばされた腕でもなく、十七歳まで生きていた一人の人間だった。  坂の先に、川が見えた。  五年前には土のままだった岸は、低い柵と遊歩道が整備され、斜面もコンクリートで固められていた。流れは穏やかで、朝の光を細かく反射している。あの日の濁った水も、崩れた土も残っていない。  それでも、少し上流へ歩くと東屋があった。  屋根や柱は塗り直されていたが、形は記憶と同じだった。朔は中へ入り、木のベンチへ腰を下ろした。  川の音がする。  目の前を流れている穏やかな水の音に、五年前の濁流が重なる。朝の光が白く滲み、塗り直された柱が濡れた木へ変わった。 『お前、何日食ってないんだよ』  十七歳の朔は、隣に座る晴希を見ていた。  制服の半袖から出た腕は細く、手首の骨が以前よりも目立っている。前日まで降っていた雨は既に止んでいたが、東屋の軒からは雫が落ち続け、すぐそばの川が轟々と音を立てていた。 『食ってるって』 『昼だって、一人で教室出ていくだろ』 『昼休みまで朔と一緒にいたくないんだよ』 『なんだよ、それ』 『余計なお世話だって言ってんの』  晴希はベンチから立ち上がった。  朔も追うように立つ。 『なあ、先生に相談しようって』 『何を相談すんだよ』 『親から飯食わせてもらってないって言うんだよ。バイトの金も自分で下ろせないって』 『そんなこと言って、どうする』 『お前んち、おかしいって』 『母さんを犯罪者にしたいわけ?』 『そうじゃない。でも、このままじゃ駄目だろ』 『母さんは仕事で忙しいんだよ』 『違うだろ。お前を放っておいて、家に帰らないんだろ』 『お前には関係ない!』  晴希の声が、川音にぶつかるように響いた。  怒っていた。それ以上に、怖がっていた。自分の家で起きていることを誰かに知られ、今までと同じではいられなくなることを恐れていた。  あの頃の朔には、そこまで分からなかった。ただ、このまま放っておけば晴希がどうにかなってしまうと思った。 『今日、彰人さん帰ってきてるって言ってたよな。相談しろって』 『彰人だって関係ないだろ! もう何年も顔も出さないくせに!』 『それでも、お前の兄貴だろ』 『もう高瀬だよ。俺の兄貴じゃない』 『晴希』 『もう帰る』  晴希は東屋を出た。  雨上がりの空から、目を開けているのが辛いほど強い日差しが降り注いでいた。濡れた木々が光り、増水した川だけが前日までの雨を抱えたまま、茶色い水を激しく押し流している。 『待てよ。そっち、危ないって』  晴希は振り返らなかった。  東屋から遊歩道へ戻る近道をしようと、岸の斜面へ足を掛ける。雨を吸った土へ靴底が沈み、そのすぐ下で地面が崩れた。  晴希の体が傾いた。  朔は駆け寄り、晴希が咄嗟に伸ばした腕を掴んだ。  両手で引き上げようとした。晴希の濡れた手首へ指が食い込み、爪の下へ泥が入る。それでも一人分の体重を支えきれない。朔の膝の下でも岸が崩れ、二人の体は土と一緒に川へ落ちた。  冷たい水に呑み込まれる。  上下も分からないまま流され、岩へ肩をぶつけた。息を求めて顔を上げると、少し離れたところに晴希が見えた。  朔は水を掻いた。  流れに押し戻されながら、それでも晴希へ手を伸ばした。指先が触れ、一度離れ、もう一度その腕を掴む。  晴希の顔が水面へ出た。咳き込み、息を吸おうとして口へ水が入る。朔もまともに呼吸ができなかった。流れの中で互いの腕を掴み、離れないことだけで精一杯だった。  岸から誰かが叫んでいた。  何を言っているのかは聞こえない。晴希の腕は濡れ、激しい流れに引かれるたび、朔の指の間から少しずつ滑った。 『離すな』  自分が言ったのか、晴希が言ったのかも分からなかった。  朔は指へ力を込めた。  それでも次の瞬間、濁流が二人の間に割り込み、晴希の体を強く攫った。  掴んでいた晴希の腕が、朔の指の間から抜けた。  もう一度伸ばした手は、何にも届かなかった。  晴希の顔が遠ざかる。水面へ浮かんだ手が一度見え、それも茶色い水の中へ消えた。

ともだちにシェアしよう!