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第18話 残夏
東屋の柱と、穏やかな川の流れが戻ってきた。
朔はベンチに座ったまま、息をすることができなかった。
手が震えている。
五年前、最後には届かなかった晴希の腕を探すように、何もない空間へ指を伸ばす。爪が掌へ食い込むほど握っても、濡れた手首の感触は消えなかった。
「晴希」
声にした途端、涙が落ちた。
「ごめん」
川は何も答えない。
あの日とは違う静かな水が、朝の光を乗せて流れていく。
「お前を救えなくて、ごめん。手を離して、ごめん」
晴希を殺したのではなかった。
助けたかった。それでも助けられず、自分だけが岸へ引き上げられた。十七歳の朔には、死んだ親友と生き残った自分の間にあるものを、事故という言葉で分けることができなかった。
「死んで忘れようとして、ごめん」
一度は自分の命まで捨てようとした。忘れたかったわけではないのかもしれない。それでも結果として、自分の名前よりも大切だったはずの友人の顔も声も失った。
「お前のこと、忘れてごめん」
身を折るように俯いた。
涙が膝へ落ちる。謝っても晴希は戻らない。五年間をなかったことにも、最後に離れた手をもう一度掴むこともできない。
それでも今度は、忘れずに生きていくしかなかった。
砂利を踏む音がした。
初めは、朝の散歩をする人間だと思った。音は次第に近づき、やがて走る靴音へ変わった。乱れた呼吸が、東屋の入口で止まる。
「やっと見つけた」
その声を、間違えるはずがなかった。
朔は顔を上げた。
彰人が立っている。
ワイシャツの襟元は開き、袖は肘まで捲られていた。駅から走ってきたのか、額から流れた汗が顎まで伝い、肩が大きく上下している。
「どうして」
「晴希のスマートフォンを見た。最後の履歴に、いつもの場所へ来いと残っていた」
彰人は呼吸を整えながら東屋へ入った。
「お前が思い出したと言った場所は、ここしかない」
「全部、思い出した」
朔の声は震えた。
「晴希を助けてやりたかった。ろくに飯食ってなくて、母親も帰ってなくて、だから先生か彰人さんに相談しろって言った。晴希が怒って、帰ろうとして、岸が崩れて」
言葉にするほど、あの日の水が喉へ戻ってくる。
「水の中で腕を掴んだのに、離した。俺だけ助かって、晴希を助けられなかった」
彰人が目の前へ膝をついた。
「ごめんなさい」
朔はもう一度謝った。
次の瞬間、強く腕を引かれた。
彰人の胸へ顔がぶつかる。背中へ両腕が回り、息が詰まるほど固く抱き締められた。汗の匂いがした。外気の熱を帯びたシャツ越しに、彰人の体温が伝わってきた。
「俺の方こそ、すまなかった」
耳元で、彰人が言った。
「お前が晴希を助けようとしていたことも、お前がどれほど辛かったのかも、何ひとつ分かろうとしなかった」
朔の後頭部へ回された手が震えていた。
「メッセージを読んだ。晴希に飯を食わせて、家へ泊めて、母さんのことを誰かに相談しようとしてくれていた。あいつを助けようとしていたお前を、俺は五年間も憎んだ」
「でも、俺がもっと早く先生に言ってたら」
「それを言うなら、俺がもっとあいつのことを気に掛けるべきだった。母さんのところへ置いていったまま、何年も顔を出さなかった。あいつが何も言わないのを、困っていないからだと思い込んでいた」
彰人の腕から、逃げようとは思わなかった。
それでも縋りつくこともできず、朔は体の脇へ手を下ろしたまま、その言葉を聞いていた。
「俺は晴希を殺してしまったのに」
「殺していない」
彰人は迷わずに答えた。
「お前は助けようとしてくれた」
「でも、助けられなかった」
「それは俺も同じだ」
背中へ回されていた腕が、僅かに緩んだ。
彰人は朔の肩を掴み、顔を見る。逃げることも、何かを隠すことも許さないような目だった。
「晴希のことだけじゃない。お前にも謝らなきゃいけない」
朔は黙って彰人を見た。
「最初は、五年前の真実を知るために近づいた。記憶を失ったという話も、都合の悪いことから逃げるための嘘かもしれないと疑っていた。部屋へ置けば、いつか何かを思い出すと思った」
昨日の朝に答えられなかったことを、彰人は一つずつ口にした。
「だんだん、お前に惹かれていく自分が許せなくなった。晴希を殺したかもしれない男だと思いながら、帰りが遅ければ心配して、ほかの男に触れられるのが我慢ならなかった」
朔の肩を掴む指に、力が入る。
「お前を抱いて、満たされた。お前が俺を選んだと言ったことも、離れたくないと縋ったことも嬉しかった。それを認めれば、晴希を裏切るような気がした。だから、お前には何も言わず、自分の中だけでなかったことにしようとした」
「俺には、復讐じゃないって言っただけだった」
「ああ」
「だったら何で抱いたのかって聞いても、答えなかった」
「答えるのが怖かった」
彰人は一度、息を呑んだ。
「お前を抱いたのは、復讐じゃない。お前が好きだったからだ。今も好きだ」
朝の光の中で、その言葉だけがはっきりと届いた。
朔がどれほど欲しがっても、一度も与えられなかった言葉だった。今さら聞いたところで、隠されていた事実も、知らないまま体を許したことも消えない。
それでも、胸の奥で凍っていたものが少しずつ溶け、痛みを伴って動き始める。
「傷つけて、すまなかった。もう遅いかもしれないが、俺はお前が大事だ。今度は、お前が何を選んでも受け入れる」
「まだ、許せるか分からない」
「分かっている」
「高瀬さんの言うこと、すぐには全部信じられない」
「それでいい」
彰人は目を逸らさなかった。
「信じてもらえるまで、何度でも話す。もう、都合の悪いことを伏せたまま、お前に選ばせたりしない」
朔は、ようやく彰人のシャツを掴んだ。
汗を吸った布が掌の中で皺になる。彰人の胸へ額をつけると、速い鼓動が聞こえた。
「俺も、高瀬さんが好きだよ」
彰人の息が止まった。
「だから、あんなに傷ついた」
「……ああ」
「好きじゃなかったら、黙っていなくなって終わりにできた」
「すまない」
「それは、もう聞いた」
朔は濡れた目のまま、僅かに笑った。
彰人の腕が再び背中へ回る。今度は閉じ込めるような強さではなく、朔が離れようとすれば離れられる力で抱き寄せられた。
二人はしばらく何も言わず、川の音を聞いた。
朝日は少しずつ高く昇り、東屋の中へ細長い光を落としている。川面を渡ってきた風はまだ夏の熱を含んでいたが、夜の間に冷えた朔の指先を温めた。
「今日は実家へ帰れ」
やがて彰人が言った。
朔は腕の中から顔を上げる。
「五年ぶりだ。顔を見せてやれ」
歩いてきた道の先に、自分が生まれ育った家がある。場所も、そこにいた家族の顔も、今は思い出せた。それでも五年間、何の連絡もせずにいた家の扉を開けることを考えると、足が竦んだ。
「帰って、どうすればいい?」
「それは、お前が決めろ」
「分からないよ」
「今すぐ決める必要はない。謝りたいなら謝ればいい。会いたかったなら、そう言えばいい。これからどこで暮らすかも、何の仕事をするかも、自分でやりたいことを選べばいい」
自分には何もないから、唯一覚えていた名前を使い、与えられた仕事をして、求められれば体を差し出してきた。
今は、藤代朔として生きてきた十七年と、何者でもないと思いながら生き延びた五年の両方がある。そのどちらも消すことはできないが、これからを同じように他人へ預ける必要はないのかもしれなかった。
「高瀬さんのところに帰るかどうかも、俺が決めていいの」
彰人の顔が強張った。
「ああ」
答えるまでに、僅かな間があった。
「お前が帰りたくないなら、無理に戻る必要はない」
彰人はポケットへ手を入れた。取り出した銀色の鍵を、朔の掌へ載せる。
「これは、返しておく」
郵便受けへ置いてきたはずの合鍵だった。
「でも、もう夏は終わるよ」
明日になれば九月である。
暑さが和らぐまで。夏が終わるまで。初めから、あの部屋にいられる期限はそこまでだった。
彰人は黙らなかった。
「夏が終わっても、俺は、できればお前に帰ってきてほしい」
不器用に途切れた言葉だった。
それは、彰人の方から朔へ初めて差し出された願いだった。
鍵を握る。
掌の中で温まった金属は、今度は何かの代わりではなかった。彰人の部屋へ戻るかどうかを、自分で選ぶための鍵だった。
「分かった」
朔は答えた。
「ちゃんと考える」
それから四日後の夕方、玄関の鍵が動いた。
彰人は台所で米を研いでいた手を止めた。
今朝、朔から『今日帰る』という短いメッセージが届いていた。何時になるのか、迎えが必要なのかと返したが、それきり既読だけがつき、返事はなかった。
鍵が開き、扉の向こうで大きな荷物の擦れる音がする。
彰人が玄関へ向かうと、黒いリュックサックを背負った朔が、段ボール箱と紙袋を両腕に抱えて立っていた。足元には見覚えのあるスポーツバッグがあり、箱からは茄子や胡瓜の入った袋と、葉のついたままの枝豆が覗いている。
「持って帰れって。こんなに食べられないって言ったんだけど」
「先に荷物を下ろせ」
「重い」
「見れば分かる」
彰人は段ボール箱を受け取った。
ずっしりと腕に重みが掛かる。朔が自分のものとして持ち帰った荷物の重さだった。
実家で何を話したのか、これからどうするつもりなのか、聞きたいことはいくつもある。けれど今は、玄関の外ではなく中に立つ朔の顔を見た。
朔は少し迷うように唇を結んだあと、はにかむように笑った。
「ただいま」
彰人は、今度は言葉を呑み込まなかった。
「おかえり」
(了)
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