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第一話 ボジョレヌーボー解禁間近

ボジョレヌーヴォーの解禁を控えた10月のワイン物流倉庫には、ピリピリとした静かな緊張感が漂っていた。 倉庫内は、高級ワインに適した15度の温度と60%の湿度とが常に保たれている。遮光された窓ひとつない、広大な空間。高い天井に並ぶ水銀灯型LEDが硬質な白い光を真っ直ぐに落としている。その光を鏡のように跳ね返すエポキシ樹脂のグリーンの床は、日々従業員達によってピカピカに磨き上げられているのだった。 来たる狂乱のシーズンを前に、倉庫内はじわじわとレイアウト変更が進んでいた。いつもなら隙間なくワインケースで埋め尽くされているはずの床の一画が、ヌーヴォー専用のスペースとしてぽっかりと巨大な空白を作り出して、それがかえって嵐の前の不気味さを引き立てている。 長谷川紗生(さき)は、この冷んやりとした定温倉庫の「リフトマン」だ。 2トンのリーチリフトのステップに立ち、流れるような動作でハンドルを回す。 持ち上げた高級ワインのパレットをわずかに浮かせてバックする。紗生は遠心力を読んで、自身のしなやかな体を美しく傾けて車体の挙動をコントロールすると、目的の重量ラックの前でピタリとリフトを停止させた。 まるで巨大なジャングルジムのような重量ラックの黒いフレームがそびえ立つ。紗生はその最上段、高さ4メートルの位置にある2本の平行な鉄のバーを見上げる。 フォークのツメを高く突き上げると、上へ伸ばすほど、その先端は荷の重みでしなって揺れた。落とせば数百万円が一瞬で吹き飛ぶ緊張感の中、カチャ、カチャ、と小刻みな金属音を響かせ、紗生のレバーを操る指先が、正確にそのブレを制御する。 彼のシャープな目が鉄骨の隙間を狙い、狂いなくパレットを鉄のバーの上へと、静かに着地させた。 やがてトラック到着のピークが過ぎ、プラットホームの熱気が引いていく。賑やかだった荷受場が静まり返る中、紗生はキーを抜いてリフトから軽やかに飛び降りた。 紗生は、そのまま隣のギフト用の手作業梱包ラインへと足早に向かった。 そこでは、先輩社員の秋山トオルが、仕切り板を化粧箱にセットする作業に追われていた。 「トオルさん、リフトの仕事ひと段落したんで、こっち手伝います!」 そう言うが早いか、紗生はトオルの真隣にすっと体を寄せ、素早い動きで仕切り板を手に取って、その場所を自分のテリトリーにしてしまった。 顔を上げたトオルが、困ったように微笑んで自分の背の影に庇うように、紗生を受け入れる。色素の薄いクセっ毛と、首や腰がきゅっと締まった華奢な身体、童顔のせいで、二人が並んでいると、トオルの方が年下に見えた。 若手のリフトマンであり、手作業のラベル貼りや重いワインケースの積み替えも率先して行うフットワークの軽い紗生は、現場のお姉さま(パートさん)たちからも絶大な人気を誇ってる。 ――しかし、どういうわけか、紗生はいつもトオルの隣りにピッタリと張り付いているのだった。 (紗生くん、お姉さま方がちょっと苦手なのかな?みんないい人達なんだけどな……) 主婦のパートさんと男性社員とで男女比が極端に偏っている職場だ。若くて端正な顔立ちの紗生が、少し気圧されているのかもしれない。 (もし紗生くんが、負担に感じてるなら、先輩の僕がうまく盾になって守ってあげなくちゃ) そんなトオルの密かな決意を露知らず、紗生は隣で手際よくワインボトルを化粧箱に詰めていく。 15℃の空気は、体を動かしていなければすぐに肌寒さを感じる涼しさだ。肩が触れ合う程の距離にいる紗生の体から放たれる微かな熱が、トオルのウインドブレーカー越しにじんわりと伝わってくる。 (はぁ、紗生くんは体温が高くて温かいな。人間暖房器みたいだ) 心の中でそんなことを考えていた、その時。ボトルを受け渡す瞬間、二人の指先が触れ合った。 「……手、冷たくない?」 トオルがそっと尋ねる。触れた紗生の指が、自分の体温よりもずっと冷たかったのだ。 「実は、手先だけ冷え性なんですよ」 「へーっ、意外だなぁ。体はこんなに熱いのに」 夏場、倉庫から一歩外に出た瞬間に「外気、絶望的ですね……。もう一生ここに住ませてください」と本気でへたり込んでいた暑がりの紗生が、こんなに冷たい手をしていたなんて。 心配したトオルは思わず、ボトルを持つ紗生の長い指に、自分の手を重ねて確かめる。 「本当だ、冷んやりしてる……」 「ちょ……、トオルさん、離してください」 紗生の耳が、一瞬で真っ赤に染まった。 紗生の嫌がることをしてしまった。トオルが慌てて手を引こうとした弾みに、ボトルの重心がぐらりと傾く。 「あっ、危な……っ」 二人の間で落ちかけるボトル。それをとっさにプロの反射神経で、トオルと紗生が左右から手を伸ばした。二人の手のひらの間に挟み込むようにしてどうにか持ちこたえたのは、一本何万円、下手をすれば何十万円もする高額の割れ物だ。 「セーフ!セーフ!」 とトオルが慌てた声を出した。 「ですよね。割れてないですね」 紗生がボトルを回し眺めて傷一つないことを確認する。 二人は悪戯が見つかった子供のように、どちらからともなく「ふふっ」と吹き出し、目を見交わした。 「ちょっと気が緩んじゃったね」 「はい。ここからは集中して終わらせちゃいましょう!」 互いの照れ隠しのようなやり取りの後、二人は再び手元の作業へと意識を集中させた。いつも通りの優しい先輩と優秀な後輩。そんな心地よくて、どこかじれったい距離感の日常がまた動き始める。

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