10 / 18
第10話
第十話
前世では、死んだら地獄に行くのだと思っていた。
エースパイロットであるということ、それは、誰よりも数多く、敵機を撃墜したということだ。
人が乗っているのに。
戦争中であり、上官からの命令である以上、出撃しなければならない。敵機を攻撃しなければいけない。しなければ、自分がやられる。コックピットやエンジンを狙うようなことは極力避けて、脱出できるように撃ってはいたけれど、脱出して生還したかどうかはわからない。敵機のパイロットの何割かは、命を落としただろう、ヨナタンに撃墜されたことによって。
だから、前世の自分は地獄に落ちただろうと思う。たぶん。
今世は、どうだろう。
前世のように人を殺してはいない。でも、売春とか代理母とか、違法なことをしていた。自分の意思ではなくてクソ親父に命じられ、拒否したら殴られるからやらざるをえなかったのだけれど、それで糊口をしのいでいたのだから、自分の意思でやったのと大差ないだろうと思った。
ぼんやりとしか見えない目の前に、大きな、妙に眩いものが迫る。燦然と眩しい・・・。
白銀のペガサス。それは、前世でリヒャルトの愛機の垂直尾翼に描かれていた。
倒れてもう動けないジョナサンは、全体を見ることはできないのに、見えた。
大きな翼。長い鼻づら。神々しく力強い姿。碧い眸が、リヒャルトに似ている。
その眸が、行こうと誘う。また一緒に空を飛ぼう、天を翔けようと言ってくれているのが、確かに聞こえた。
―――いいのかな、俺、天国に行っても・・・?―――
売春や代理母をしたのは、厳密に言えば違法で、犯罪行為だったかもしれない。それなら、自分は地獄に行かなければならないと思う。
しかし、白銀のペガサスが迎えに来てくれた。
前世で護ってくれた、安心して背をあずけることができた僚機の、垂直尾翼に描かれていた。唯一で最愛だった男の、識別マーク。どんな戦闘区域でも、常に共に在った。
碧い眸が、告げてくれている。
凌辱され、利用されてボロボロになった穢い身体は、置いていけばいいと、言ってくれているのが聞こえた。
ジョナサンの魂は肉体から離れ、導かれて、ペガサスの背にふわりと乗せられた。
普通の馬は、ペガサスのように天空を翔けることはできないし、長距離を不休で駆け続けることもできない。
王太子が非常事態だからと持たせてくれた緊急通行証を使って、道筋の屯所や番所で馬を替え、リチャードとロバートとアーサーは夜通し駆け続けた。死に物狂いで、馬を駆った。
白銀のペガサスが天翔けた軌跡は、怪奇現象として騒ぎになっていた。瑞兆だと言う者もあれば凶兆だと不安を煽る者もいるらしい。三人には、天に架かった光の道のように見えている。いつまでも消えない流星のように、行き先を示している。導かれるままに、只管に走る。
次第に、ロバートとアーサーが遅れがちになった。ロバートはアルファだからともかく、アーサーはベータで、軍人でもないのだから、何時間も馬で疾駆し続ける体力など無い。
リチャードは速度を緩めず、単騎、脇目もふらずに馬を駆る。
白銀のペガサスが翔けた軌跡を追い、辿り着いた森は、初めて来たはずなのに、来たことがあったような気がした。どことなく、前世でヨナタンを匿って見送った別荘の周囲の森に、似ているように感じた。
東の空がわずかに白み始めている。森の中はまだ夜のままだけれど、塒へ帰るのであろう動物の気配が、そこここにある。森の奥へと分け入って行ったリチャードは、哀しげに佇む白銀のペガサスを見つけた。泣いているように見えた。
その足元に、変わり果てたジョナサンの身体があった。白銀のペガサスは動かなくなったジョナサンを護るように立ちはだかっていたが、リチャードが近づいていくと、怒ったように、けれど悲しげに嘶いて、ふっとその姿を消した。
リチャードは、間に合わなかった。信じたくない、信じたくなかったけれど、穢され、うち捨てられたジョナサンの身体はもう、動かなくなっていた。
「ヨナタン・・・」
アリスがジョナサンに渡した、ジョナサンが一枚だけ持ち出したリチャードのシャツは、ほとんど焼けてしまっていた。暴行者たちがふざけて燃やしたそれを、素手でつかんで、自分の身体で必死に火を消したのだろう。身体にも手にも火傷をした、その手で、シャツを握りしめて、ほんのわずかにだけ残っている、焼けていない部分に鼻を押し付けて、ジョナサンは息絶えていた。
つがいでもないのに。
わずかなリチャードの匂いを今際の際にもとめて、命を終えたのだ。
嘘だ。
嘘だ!
嘘だ!!
「うわああああああっ!」
冷たくなったジョナサンの遺体の横に膝をつき、リチャードは絶叫した。
どうして。
どうして、出会ってすぐにジョナサンはヨナタンだとわからなかった?
前世を思い出さなかった?
こころが、張り裂ける。
その感覚に、ひどい違和感を覚えた。
前世で、一緒に死ぬと言ったのに、死ななかった罰なのだろうか。
でも、死ぬなと言ったのはヨナタンだった。俺のことなんか忘れて、ツェツィーリアとしあわせになれ、なんて言うから、ふざけたことを言うなと怒鳴った。そうしたら悲しそうだったから、わかったから、責任を持ってツェツィーリアをしあわせにはする、でも、俺はお前を喪ったらしあわせになんかなれるはずがないと、涙でぐしゃぐしゃになりながら言ったのだ。
どうして忘れていた。
どうして思い出さなかった。
今まで、どんなに悲しいことやつらいことがあっても、こんなふうにこころが悲鳴をあげたことなどない。嬉しいことや愉しいことがあった時でも、特に高揚したこともない。
前世では、泣いたり笑ったり怒鳴ったり喜んだり、もっと感情が豊かであったように思う。皇国空軍という、いつ死ぬかもわからないところで戦いながら、それでも、生きているという充実感があった。同僚たちや上官や下士官や整備兵たちがいて、限界のギリギリのところで燃やすいのちが熱くて、生きることの尊さを全身で味わっていた。いつ死んでもおかしくないような生き方をしていても、生き抜いた。そういう生き方ができていて、そういう生き方を教えてくれた仲間たちに感謝していたから、自分にできることをして尽力した。
父親の出世のための道具として育てられた自分を、熱い魂を持った生身の人間だったのだと気づかせてくれたのが、仲間たちだった。
そして。
権力者の身勝手で無辜の民が危険にさらされるだけの愚昧な戦争だと思っていたけれど、無辜の民を護るために戦う男達の熱さに、目を開かされた。愚昧だったのは父だけではなく、父に利用されるだけだった自分もなのだと、遅まきながら気づいた。
だから、全力で任務を遂行して、国家のためなんかじゃなくて国土と国民を護ろうと邁進した。間断無い緊張の日々の中で、ロードワークと筋トレ、そしてヨナタンと抱き合う時だけ、無心になれた。ヨナタンが愛しくて、夢中になれた。強くて、可愛くて、唯一無二の存在だった。ヨナタン以上に愛せるひとなんて、未来永劫、いない。いるはずがない。
ものごころがつくよりも前から、父親には絶対に逆らってはいけないと教え込まれ、父の敷いたレールを歩まされた。父にとって都合の悪いことはリヒャルトの周囲から遠ざけられ、父の意向のとおりに生きることを強いられた。
だから、こころが正常に育たなかった。
なんだかよくわからない『物』だったこころを、温かい血がかよう人間のそれにしてくれたのが、ヨナタンだ。ただ重いだけだった持ち物、肉体と切り離して棄てることができないから仕方なく持ち歩いていた、鉛の塊のようだったそれを、温かくてたいせつな、人間の核であると、教えてくれた。
そんなヨナタンを愛してしまった。同性愛者だと知られたら後ろ指を指されてしまう、糾弾されてしまう。だから好きになんて、なったらいけないのに、愛してはいけないのに。
止められなかった。
リヒャルトを受け入れることは、危険なのに、身の破滅なのに、ヨナタンは受け入れてくれた。
愛して愛されて、けれど家族からも、同僚や仲間達からも、世間からも白い目でみられ、誹謗中傷され、なにもかも失った。
それなのに。
お前に愛されて幸せだったと言ってくれた。
信じていた仲間に裏切られ、エースの座から追われ、暴力までふるわれて、軍から除隊させられた。
同性愛者差別のために、医者に治療を拒まれ、病みやつれて死んでしまった。
リヒャルトをおいて、逝ってしまった。
そして、またしても。人の皮を被ったクソどもに、よってたかって蹂躙された。リチャードが遅かったせいで、助けられなかった。
今回は見送ることすらできなかった。酷い扱いをしたから、代理母なんて非情な扱いをしたから、思い出さなかったから、ジョナサンは見送らせてさえくれなかったのか。
「ジョナサン・・・、ごめん・・・。ごめん・・・!」
どうして、ジョナサンばかりが、こんな。
同性愛者差別、オメガ差別。
前世でも今世でも理不尽な差別で。
しなくてもいい苦労ばかりを、背負わされて。
だから少しでもいいから、その荷を軽くしてやりたかったのに・・・!
逆に、重くしたなんて。
自分を許せない。
前世と同じ、血の涙が頬をつたう。後悔という毒に、心が爛れて汚臭をはなつ。
法を犯してまで、まだ幼かったリチャードに暗示をかけて魂に箍を嵌め、前世を思い出させないようにしたという父親。前世でリヒャルトがヨナタンを愛したことが、そんなに気に入らなかったのか。生まれ変わっても自分の思い通りの人生を歩ませたいと思うほど、あの父親はリチャードに執着していたのか。
自分の理想の人生を歩ませたかったのか。
今世、リチャードがダブル・アルファだったからか。稀少な、貴重な存在である息子に、最上の人生を歩ませる父親になりたかったのか。
そんな父親の見栄のために、自分の人生は捻じ曲げられ、ジョナサンは利用されたのか。
情けない、自分を呪う。あんな父親のせいで、生まれ変わってまでも周囲に理不尽な迷惑をかけてしまった。護ると誓ったはずのジョナサンを護ることができなかった。
間に合わなかった。
もっと早く前世の記憶がよみがえっていれば、ジョナサンを、ろくでなしのクソ親父から救い出して、護ってやれたのに。
オメガだからって凌辱しようと寄って来る有象無象なんかには、指一本触れさせなかったのに!
「リチャード・・・」
やっと追いついたロバートとアーサーが来ていた。白々と明けていく中、膝をついたリチャードの前にあるジョナサンの惨たらしい骸を見て、蒼白になって涙を流した。
前世で同僚だったロバートたちは、自分とジョナサンのためにさまざまに手を尽くしてくれた。妹や妻だった女たちは全力で、前世の恩を返そうとジョナサンに心を尽くしてくれていたのに。
自分は、なにもしてやれなかった。・・・それどころか、使い捨ての道具、という目で見ていた。道具として扱った。利用した。
リチャードの血を吐くような慟哭が、静かな朝の森の中に響きわたった。
リチャードはアルファの父親とその正妻であるアルファの母親から生まれて自身もアルファだった、稀有な存在である。世界中の全てのアルファの中でも、人類史上七十人、現在において三人しかいない、特別なアルファなのだ。生みの親がオメガやベータであるアルファと区別して、ダブル・アルファと呼ばれる。
ダブル、の意味は。
その身体に、命をふたつ有している、心臓とか脳など、臓器ではない。言うなれば、魂。人間の核。ダブル・アルファはふたつ持っているそれを、自らが決めた相手に与えることができるのだ。端的に言えば、死んだ者に、ふたつあるおのれの命のひとつを与えて、生き返らせることができる。
しかし、大きな力を行使できるということは、当然、代償をその身に受けなければならない。他者に命を与え、死んだ者を生き返らせるという、人間の領域を超えた行為を、できるからとはいっても、やれば、その報いとして神の怒りを、その身に受けなければならない。
その報い、とは。
ダブル・アルファだった身が、普通のアルファになる・・・、なら、まあ、いい。ダブル・アルファと普通の・・・ランクSのアルファとに、能力的なちがいはほとんど無い。命をふたつ有していて、ただ一度だけ、それを誰かに与えることができる特別な力以外、さしたるちがいは無い。
しかし、ダブル・アルファは、その力を行使した場合、普通のアルファではなくてベータになってしまうのだ。だから人類の歴史上、この力を行使したダブル・アルファは、ふたりしかいない、らしい。有史以前のことはわからないが、世界中の文献や記録をすべて調べた結果として、そのように報告されている。人の上に立つ才能に恵まれた、選ばれた存在であるトップ・オブ・トップのアルファが、いくら神の領域の力を持っていても、それを行使すれば選ばれた身からありふれた身になってしまうことには躊躇するのだろう。優れたアルファであればあるほど、栄華栄達を極めた身であればあるほど、自分が一般人と呼ばれるただのベータになってしまうことには耐えられない。人間はみな、自分の身がいちばん大事で、自分がいちばんかわいい。自分がいちばん特別で、いちばん優位に立ちたい。どんなに大切なひとを救えるのだとしても、神に等しい力を有しているのだとしても、その力を使ったことによって自分が、選ばれた特別な存在から平凡な一般人になってしまうことは、上位のアルファであればあるほど、惑い渋るだろう。だから、歴史上ふたりしか、その力を使ったとされる記録は存在しない。
さらには。
そんな、神の領域の行為が行われる時、世界中で大きなエネルギーの変動があるという。バース性のエネルギーバランスがリセットされるのだ。
もともと、アルファは全人類の一割から二割、オメガは一割いるかいないか、と古今東西言われている。しかし、アルファばかりが尊重され、支配者層や富裕層がアルファの子どもを欲しがって、オメガをアルファの子どもを産ませるための道具であるかのように扱ったり、発情期があるオメガを卑しんで家畜だ奴隷だと蔑んで貶めて使い殺したりすれば、そのバランスは崩れて行く。世界は、歪む。
その歪みが、一気にリセットされる。巨大地震が起こるのと同じ理屈だ。
アルファに求められるノブレス・オブリージュ。それは天から与えられた能力を社会のために使え、というものだ。アルファの抜きんでた能力、知力体力、それは私利私欲のためではなく、社会のため、弱き者を助けるために使われなければならない。アルファたるにふさわしくない行いをしていたアルファは、リセットによってその力を天に没収される。古い文献には、他者を虐げていたアルファは、リセットが起こった時、アルファとしての体力能力を維持できなくなり、急激に劣化してベータに変異した、という記録がある。解読した学者によると、他者に、オメガに危害を加えていたアルファがベータに変異したらしい。のみならず生命エネルギーが一気に減った結果として急激に老いて、一夜にしてヨボヨボの老人になった、らしい。この生命エネルギーの消失は、アルファだけではなくベータにも見られた。アルファの腰巾着になってオメガを迫害していたベータが一夜にして老人になった。その数は、数えきれなかった、らしい。あくまで古い文献にあったことなので、伝説だと言ってしまえばそれまでのことであるが、リチャードがジョナサンに命を移譲してリセットが起こったとして、後ろ暗いところがあるアルファがベータになり一夜にして老人になったなら、またベータでも一夜にして老人になった者は、オメガを虐げていたということだ。
「その段階でもう老人の人は、どうなるの?」
「私に訊かれても困るわよ、わかるわけないじゃない」
アリスとアガサは、リチャードがそれをするなら全力でサポートすると、決意を固めた。
もしもリチャードがジョナサンに命を移譲してリセットが起こったら、リチャードを逆恨みする者が出て来るだろう。しかし、アルファである以上、社会的な地位が高ければ高いほど、面と向かっては抗議してくるはずがないわけで、疚しい過去を隠している上位層のアルファの動きには注視が必要だ。過去にその力を行使したふたりの元ダブル・アルファのうちのひとりは、逆恨みされて惨殺されたと、文献にはある。
しかし、リチャードは躊躇わなかった。直ちに動いた。ジョナサンの遺体を保存して、命の移譲の準備に全力を尽くした。リチャードのやろうとしていることを察知した父親が、そんなことは許さないと激昂し、リチャードを止めろと喚くのを殴り飛ばし、父の悪行をすべて社会に暴露して、貴族管理庁の特殊警備警察隊に身柄を取り押さえさせた。父が筆頭公爵の顔の裏側でしていた、脱税や密輸などあらゆる悪事を暴いた。
そうやって暴き立てたこれまでの悪行に加えて、現在進行中の陰謀も発覚した。それは、王族をすべて弑して、自分の息子を王にするというものだった。王族だった母親と自分の息子なのだし、ダブル・アルファであるリチャードこそが王位にふさわしいと、父親は妄信していた。帝国の皇帝と同じダブル・アルファである息子を王座に据え、ヘーゼルダイン王国を帝国と肩を並べる強大な国家にするという野望にとり憑かれていたのだ。それを聞いた王太子はじめ王族は震撼し、激怒した。リチャードの要請もあって、王太子はアディンセル公爵を裁判よりも前から、絶対に逃げることができない特別な地下牢に閉じ込めた。
父親が自分の邪魔をできないように状況を整えて、リチャードはジョナサンに自分のふたつの命のひとつをわけ与えて生き返らせる。そもそも父親こそが、一番後ろ暗いアルファじゃないか、と、鼻で笑いたくなった。そして、父の人形だった自分自身も、父と同じ、クソのようなアルファだったのだと、ちゃんとわかっている。
つまり、アルファではなくなるということに、いっさい躊躇いなど無い。
ジョナサンが生き返るなら。とりもどせるなら。
一度、鼓動が停止して冷たくなったジョナサンの身体に、おのれの命を注ぐ。それは、傍から見れば死体姦と、言えなくもない。
リチャードがジョナサンに命を注ぎ始めて、世界中でその現象が起こり始めた。
アルファだからと思い上がり、他者を軽んじて貶めたり虐げたりしていた者たちが、次から次に劣化し、ベータになった。さらにはまばたきの間に老化して八十代や九十代にしか見えない姿になった。のみならず、衰えからさまざまな病を発症し、痛みに苦しんだり寝たきりになった。
世界中が騒ぎ立て、原因追及に血眼になった。ダブル・アルファという、選ばれた特別な存在である男が、何度も売春させられ、代理母として胎を利用され、凌辱されてボロ布のように死んだ、つがいですらないオメガ男性に、自分の命を与えて生き返らせようとしている、そのためにバース性のエネルギーがリセットされるのだと新聞に書き立てられて世界中がその話題でもちきりになった。
アディンセル公爵邸の門前に新聞社の記者が山をなした。諸外国から王国に来ている各国の駐在大使が王宮に押しかけて、国王命令でアディンセル公爵令息による命の移譲を止めさせるようにと迫った。中でもアルファの権力者がオメガを奴隷にしているA国やオメガに人権を認めていないB国などの大使は、血相を変えて王政府に詰め寄った。特にA国は、国王がアディンセル公爵令息を制止しないのなら国交断絶、直ちに国へ帰って開戦の準備をすると喚き立てた。
しかし超大国である帝国の大使は涼しい顔でのたまった。
「是非とも完遂していただきたい。我が国の皇帝が労せずして、その施政が天道であると証明される千載一遇の好機ではありませんか。こんな貴重な歴史的イベントが我が君の在位中に起こるなど、天恵以外のなにものでもありませんなあ」
帝国はオメガを保護し、たいせつにするように国民に教育している。だから帝国の為政者たる皇帝はリセットの影響は受けない、老化も劣化もしないと言い切る帝国の大使に、王太子もにっこりと笑みを返す。
「我が国も是非、そのようにありたいものです」
王太子と帝国大使の連名で出された帝国海軍への要請に、帝国政府とかつてリチャードと一緒に演習に参加した海軍将校たちは直ちに動いた。その機動力に物を言わせ、疾風迅雷の速さでA国の近海に艦隊を派遣、制海権を掌握してA国海軍の動きを封じた。
少し前から、王国にはマジックテレビが普及し始めている。まだ自国では生産できないそれは、帝国からの輸入品で高価で、平民は買うことも見ることもできない。貴族なら購入可能ではあるが、平民には高嶺の花だ。
「父があ然としていたよ」
アーサーはそう言って顔をほころばせた。田舎の両親にマジックテレビをプレゼントしたのだ。今頃、夢中で見ていることだろう。
アーサーを愛おしげに見るロバートの前でも、マジックテレビが起動している。映し出されているのは、アディンセル公爵邸の門前だ。国営放送のレポーターが口角泡を飛ばしてしゃべっている。
『今、人類史上三例目となるダブル・アルファからの命の移譲が、このアディンセル公爵邸の中で行われております! 人類史上七十人しかいないダブル・アルファから命を譲られるのは、ジョナサン・クロフォード氏! 父親から暴力をふるわれ、売春を強要され、代理母として無理矢理に妊娠、出産をさせられていたという悲劇的な生い立ちの、オメガの男性です! つい先日、暴行陵虐致死事件の被害者として命を落とされました。バース性の専門家の解説によりますと、アディンセル公爵令息がクロフォード氏に命を移譲するにあたり、過去にオメガを虐待したり、アルファがまっとうすべき社会的責務を怠っていたアルファから生命エネルギーが消失するということです! オメガを虐げたり凌辱したり身勝手につがいを解消したアルファは、劣化してバース性が変異してベータになり、また一夜にして老化してヨボヨボの老人になるということなのです! 皆さん! 周囲でアルファからベータに変わった人物、また一気に老化した人物がいたら、注視してください! ノブレス・オブリージュを怠ってきた、疚しいアルファであった人物です! ベータでも同様です! オメガを暴行したなどの犯罪歴がある人物は、老化します。老化したその姿で、本来生きるはずの寿命まで生きます、死ぬことはないのだそうです。なお、過去にクロフォード氏を買春したり代理母として利用したり暴行した容疑者逮捕につながる有力な情報を提供いただいた方には、アディンセル公爵家から謝礼として金貨百枚が提供されるということです』
青くなったり、生きた心地のしない日々を過ごしているアルファ、もしくはベータの男が何処に何人いるか、リチャードは知らない。しかし全員に、後悔させてやる。死ぬまで恥を晒せばいい。アルファからベータになって、それまで驕り高ぶって他者を踏みつけにしていた人生を嘆くがいい。レイプ犯たちの年齢など知らないが、若く荒々しい世代、仮に二十代だったとして、容貌と健康状態が九十代になった状態で、さだめられていた寿命までの長い人生を生きて、文字通り生き恥を晒し、周囲から嘲笑され、恥辱にまみれて憤死すればいい。
中には警備隊に自首してきた者もいたし、ジョナサンを代理母に使ったアルファらしい人物から非公式に接触があって、力の行使を止めるように嘆願や脅迫があったり、アディンセル公爵邸に侵入を試みる者があったりという事件も起きた。捕縛された侵入者は、リチャードを暗殺しろという仕事を請け負ったらしい。
どんな妨害にも、リチャードは意志を変えなかった。決然として、おのれの持つ力を行使した。
貴族社会というのは、なにをどうやっても裏社会との付き合いを完全に切ることができない。広大な領地を治め、商会や工場や鉱山を経営して巨額の金を動かす以上、群がってくるハイエナをすべて追い払うことはできないし、鉱山労働者などには脛に瑕のある荒くれ男たちがいて、徒党を組んで悪事を企んだりする。だからリチャードの父はさまざまに策を弄して、そうしたハイエナたちや荒くれ男の集団を巧く御していたが、それは犯罪すれすれだったり、時にまっとうな一般市民の目には理不尽に映る方法もあったし、闇から闇への金の動きは、数えきれないほどあった。
公判手続きに時間がかかっているが、裁判では確実に有罪になるだろうし、リチャードはそうするためのありとあらゆる証拠を警備隊や王政府の貴族管理庁に提出した。ジョナサンへの命の移譲を妨害する父親の勾留期間を伸ばし、刑を重くして服役期間も長くするために、アディンセル公爵家の黒歴史のすべてを晒した。
そういったすべてを理解した上で、アディンセル公爵家の指揮は、逮捕された父親に代わって母親が執った。夫の横暴でおとなしい賢夫人を演じていたが、もともとありあまるほどの才能があるアルファで、現国王がいなかったならば女王として即位していたかもしれない才媛である。リチャードが口を出すまでもなく、家宰や各方面責任者の尻を蹴飛ばし、海千山千の貴族や官僚や取引先を相手に、毅然として渡り合った。その手腕は、父など余裕で凌ぐみごとさであり、王太子やロバートの父も全面的積極的にアディンセル公爵家の商会や工場を支えたのもあって、やがて騒動につけ入って工場を乗っ取ろうとか有能な従業員を抜き取ろうとか弱体化させて業界から追い落とそうとする動きに関しては静まって、世間の関心も徐々に薄れていった。
リチャードは一歩も外に出ず、ジョナサンの復活のためだけに我が身を使った。公爵家の運営その他、いっさい気遣い不要と母親が言ったし、弟妹・・・、異母妹ふたりはもちろん、同母の弟妹も協力を惜しまなかった。アーサーは主治医として公爵邸に通い、ジョナサンの身体を診察した。
アルバートとジェフリー、遠方に住んでいたジョナサンの弟妹も、自分たちになにかできないかと駆けつけた。弟妹を全力で護っていた長兄に、今こそ恩を返したい。そう願い出たジョナサンの弟妹に、リチャードはただ、祈っていてほしいとだけ、伝えた。ジェフリーはロバートに助言してもらって、母親と父親の死後離婚を申し立て、父親の存在自体を拒絶した。未来永劫、母にも兄にも自分たちにも近寄らせない、という決意だ。
「メテムサイコシスなんて信じてなかったですけど、本当にあるんですもんね。今度生まれて来る時には、母にはあのクソ親父を選ばないでほしいですよ」
兄のためにも、自分たちのためにもそう思うと、ジェフリーはアルバートに言った。苦労と絶望ばかりだったジョナサンの人生がリセットされて幸せになるために、できることならどんなことでもすると、決意を固めていた。
誰よりも優しくて、強くて、弟妹に尽くしてくれた。ジェフリーには普通に嫁をもらって、子どもを作って、幸せになってほしいと、兄は願ってくれていた。
今度は自分が、その言葉をそっくり返したい。どうか、兄が素敵なひとに愛されて、大切にされて、幸せになってほしい。
アディンセル公爵令息は前世で兄と恋仲で、愛しあっていたのに添い遂げることができなかったのだという。そんな眉唾な話、ジェフリーは最初は信じられなかったけれど、人類史上七十人しかいないダブル・アルファでランクSでもあるアディンセル公爵令息が、ベータになってしまうことを躊躇いもせず、兄に命を移譲すると聞いては、信じないわけにはいかない。
ジョナサンの身体は、ゆっくりゆっくり修復していった。理不尽に傷つけられてこときれた肉体が元通りに癒えるのには、時間がかかる。脈打つことを止めた心臓が再び動いて温かい血液を全身に送り、活動を止めた細胞がよみがえり、失われた部位や傷を修復していくには、生きている身体の何倍もの時間がかかる。
リチャードの知らないどこかで、リチャードの知らない何人ものアルファがベータに変異し、老化した。何人ものベータの男たちが、ある者は急激な老化現象で容貌が激変し、ある者は健康状態が急激に悪くなった。ジョナサンだけではなく世の中のオメガを虐待した、すべての者たちが瞬時に老化し、劣化した。バース性のエネルギーバランスがどれだけ歪められていたのか、人類は思い知らされた。
終身刑になったアディンセル元公爵・・・リチャードの父も、ベータになったし老化したと、刑務所から報告があった。貴族籍から抹消されたし、二度と会うつもりもないのでどうでもいいと、リチャードは思った。
コリンズとアボットは病魔に侵されて寝たきりになったと、セシルから聞いた。
オメガを奴隷にしたり人権を認めていなかったA国やB国では、国民の半分が八十代以上の寝たきり老人になり、奴隷だったオメガが帝国に救い出されて解放されたので、労働力が不足して国家として立ち行かなくなった。ヘーゼルダイン王国に援助を求めてきたが、王国だって他国に援助するような余裕など無い。半分とまではいかなかったにしても、働き盛りだった世代の四割近くがいきなり老化したり劣化して、正常に働けなくなったのだ。それらはすべてオメガを虐待していた者たちだから救済する必要無し、という王太子の公言もあったので、老化しなかった人々は老化した者たちに哀れみの目こそ向けたが、手を差し伸べない。中には無理矢理につがいにしていたオメガに自分の介護をさせようとした元アルファもいたが、居丈高に命令した途端、身体の痛みが倍になり、病の症状も深刻になった。ベータに命令しても同じだった。きちんと対価を払い、お願いして世話をしてもらって、してもらったことにこころから感謝をすれば、痛みは酷くならなかったが、それに気づいた者はわずかだった。
オメガを差別していなかった者たちは、老化も劣化もしなかった。
どこの誰がアルファからベータになったか、異常な老化をしたか、リチャードは気にもとめなかった。ジョナサンをよみがえらせ、謝って、産んだ子どもを抱かせてやる、そのためだけに、夜を日に継いで、命を注ぎ、自分の身体を使い、自分の命を削った。その間、リチャードとジョナサンの子どもは、アリスとアガサが面倒を看た。前世の記憶があるから、未婚でまだ子どもを産んでいない今の状態でも、できる。セシルもこまめに訪れて、リチャードにそっくりな赤ん坊を慈しんだ。前世のヨナタンがツェツィーリアの子どもにしてくれたように、手遊びをして、絵本を読んでやって、子守唄を歌った。
リチャードはジョナサンにかかりっきりだが、かならず一日に一度は赤ん坊を抱き上げてしっかりと目線を合わせ、絶対にジョナサンにお前を抱かせてやるんだと言い聞かせている。
ともだちにシェアしよう!

