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第9話

第九話  出産から、一週間が経過したが、リチャードは来ない。アリスによると、あのままずっと、王太子の私邸に軟禁されているのだそうだ。そんなに無理矢理に記憶をよみがえらせたりして、こころや脳にダメージを負ったりしないのだろうか。  せっかくいい家に生まれて、しかもダブル・アルファなんてすごい存在で、恵まれた人生を歩んでいるのだから、自分なんかのために無理矢理に記憶をよみがえらせるなんて、しなくてもいいのではないかと、ジョナサンは思う。自分は金のために胎を貸した、ただの代理母のオメガでしかないのだ。そしてリチャードは、アルファの子どもを得るために代理母を買った、ただのアルファ。以前にクソ親父に売られていた自分の胎を買った他のアルファと同じだ。  そう、無理矢理に思い込もうとした。たまたま、前世の記憶がもどっただけ、たまたま、胎を売った相手がリヒャルトの転生だったというだけ。  それなのに、こころに吹く風が止まなくて、寂しくて、寒くて仕方が無かった。王太子殿下やロバートたちの厚意は、とても嬉しい。幸せになって欲しいと言ってくれること、退院後、アディンセル公爵邸にもどりたくない、居たくないようだったらおいでと言ってくれるデイヴィッドの心遣いはありがたいことだ。  しかしなぜか、その厚意にすがる気にはならなかった。  朝食後、アリスがいない時を見計らって、ジョナサンはこっそり病院から抜け出して、銀行に向かった。契約した時に渡された通帳。ジョナサンの名義の口座には、契約どおりの金額が振り込まれていた。  それを全額、ジェフリーの口座に送金した。  母がいない以上、もう、自分にはいらないものだ。 ジョナサンはほっと息をついた。  母が死んだ以上、もう、自分も、生きていなくてもいい、はずだ。  リチャードに前世の記憶がもどらないなら、会う必要も無い。会いたいけれど、あの冷たい無機質な目で見られることに耐えられないと思った。自分を抱いても記憶がもどらなかったということは、リチャードにとって、自分はその程度の存在でしかないということなのだろう。ましてや、リチャードはアルファで、社会的にも高い地位にあって、輝かしい未来があるのだ。  もうこれで、自分の存在は用済みだ。いつ死んだっていい。アリスとアガサが言っていたようにアディンセル公爵が口封じのために自分を始末したいのなら、それでもいい。でもあえて願うなら、できればジェフリーの手を煩わせないような、悲しませないような死に方で死にたい。叶うなら、誰にも見つからないように、誰にも迷惑をかけないように、すうっと消えてしまえればいいのに。 「ああ、そうか・・・」  ジョナサンは唐突に理解した。  これは、前世の晩年の、あの時と同じだ。  あの時は、リヒャルトと妹さんたちの厚意が嬉しくて、でも心苦しくて、迷惑をかけるわけにはいかないと、別荘の裏の森の奥深くでひっそりと死のうと抜け出した自分を、リヒャルトは必死で捜し回ってくれて、見つけてくれて、泣いてくれて、怒ってくれて、抱きしめて連れもどしてくれた。  どこにも行くなと、最後の最後までそばにいろと、死ぬまで、いや、死んでからだってずっと、想っているからと言ってくれた。  温かくて、ついつい、甘えてしまった。思い出しても、感謝しかない。  だから、今度は、リチャードの邪魔にならないように。  今の、前世の記憶が無いリチャードにとっては、自分なんか思い出すことすら面倒な、いらない存在なのだから。  たんなる使い捨ての道具。  前世の晩年も、アリーセとアガットがいなかったら、こうやって死に場所を探していただろう。誰にも捜されずに、森の奥に隠れて野垂れ死ねばいいと思っていたのだから。  前世と違って、両親にも弟妹にも迷惑はかけていない。前世の家族には、つらい思いをさせてしまった。同性愛者の身内として後ろ指をさされ、肩身が狭かっただろう。今世の弟妹は、非力ながらも父親の暴力から庇って、自分が食べるのを我慢して少しでも多く食べさせてやって、護ってやることができた。父と母はさておき、弟妹は貧しいながらも独立して働いて、自分の人生を歩んでいる。  それなら、もう、王太子殿下のお手をわずらわすのも、しのびない。  リチャードが、前世の記憶がよみがえることを苦痛であると感じるようなら、無理強いはしないでほしいと、王太子殿下に伝えたい。アガサが使えと言って持たせてくれたマジックカードからは、ジェフリーとアルバートとアガサとアリス、それからリチャードにはマジックメッセージが送れるけれど、王太子殿下の連絡先はわからないので、アリスに、申し上げてほしいとマジックメッセージを入れた。リチャードにも・・・、見るかどうかはわからないけれど、元気で、長生きしてほしいとメッセージを入れた。リチャードに前世の記憶が無くても、顔を見れて、リチャードの子どもを産むことができてよかった。  アディンセル公爵邸の離れには、まだ少し、私物がおいてあるが、たいした物ではないから、どうでもいい。適当に棄ててくれればいい。  一番大きくて棄て場所に困る物。それは、自分自身だ。  どこか、誰にも見つからずに、ひっそりと消えていける場所はないだろうか。前世とちがって戦時中ではないから、人目につかずに死ねるような場所はなかなかない。 ―――あ、あそこなら・・・――― ふっと思い出した場所。 まだオメガだと判明する前に、平民学校の遠足で行った、リッピンコットの森。前世で晩年を過ごしたリヒャルトの別荘の周囲の森に似ていた。今から馬車に乗ったとして、暗くなる前にたどり着けるはずだ。  アディンセル公爵邸や病院にもどるのとは逆の方向、郊外へ向かう長距離馬車の離発着所へと歩き、ジョナサンはふらりと乗り込んだ。  ジョナサンからのマジックメッセージを見てすぐに、アリスはロバートに面会を求めた。 「前世でもそうだったんです! 空軍を除隊させられてから後、兄の別荘でお世話していたのですけど、病で余命幾ばくもない身体で、どこかでひっそりと死のうと思っていらしたっぽくて、お身体が弱られていたのに、こっそり部屋を抜け出して、姿を消そうとされたことがあって、私たち、必死で探したんです! なんとか見つけて連れもどすことができましたけど・・・。ヨナタンさん、意固地で! しまいにはもう、お兄様、ガチギレして、本気で、ギャン泣きして怒ったんです! 最後の最後まで絶対ここにいろって、閉じ込めるぞバカ野郎って・・・」 狂乱して叫ぶアリスをなんとか宥めて、ロバートはアーサーにメッセージを送り、王太子の私邸に集合した。  リチャードが軟禁されている王太子の私邸の一室に、ロバートとアーサーが飛び込んできた。 「リック! ジョナサンがいなくなった!」 「ふうん。だから?」 眉ひとつ動かさないリチャードに、ロバートはカッとなった。 「きみは居場所を知っているのではないのか!?」 「は? なぜ?」 もともとの住家も知らないし、死んだという母親以外に家族がいるのかどうかも知らない。知れば忘れられなくなるから、関われば手放せなくなるから、ジョナサンのことはなにも知らないままでいようとした。素性もなにもわからない、ただのオメガ。子どもさえ生まれたならあんなものは、もう、どうだっていい。対価は払った。どこへでも消え失せてほしい。二度と、会う必要はない。  会ってはいけない。 「対価は払った。あの男がどこへ行こうと、俺には関係ないことだが・・・」 リチャードの碧い眸が、濁った色になって眇められた。 「お前たちもあれを、使いたいのか?」 そのベータの、代わりに。  いくらキレイでも、ベータの男では子どもは産めないから・・・、リチャードが言い終えるよりも前に、アーサーの右ストレートが、リチャードの左頬に炸裂した。 「ふざけるな!」 アーサーがリチャードの胸座を掴む。 「俺たちへの侮辱は、後で聞いてやるが、お前は! あれほどまでに大切にしていたヨナタンを、使う、だと!?」 熱くなるアーサーとは逆に、ロバートのほうが怒りを押し殺した声で言う。 「リック。頼むからこれ以上、俺たちを怒らせるな。期待には応えてくれなくてもいいから、せめて人倫に悖る発言はしないでくれ」 オメガバースは、人間の中の獣性を剥き出しにして見せる、ということは、ロバートもアーサーも理解していたつもりではいた。  しかし、そのケダモノの本性が自分の中にあることを嫌悪忌避する心理には、理解が及ばない。アーサーがベータだから、アルファとオメガの組み合わせのようにヒートやラットにふりまわされるわけではないから、本能の忌まわしさを呪うリチャードの気持ちには、寄り添えない。  かたや熱く、かたや冷たく激昂するアーサーとロバートを、リチャードは不思議なものを見るかのような目で見る。 「仲間・・・?」 前世の記憶が無いリチャードには、なんのことなのかわからない。  じんじんと痛む左の頬に手を当てながら、アーサーを見る。  冷たい美貌が怒りに歪む凄絶な様を見る。 「アーサー、大丈夫か?」 なぜか殴られたリチャードではなく殴ったアーサーのほうが痛そうな顔で、倒れてしまいそうで、ロバートは心配する。 「お前の恋人は、ずいぶん暴力的なんだな」 頬をおさえながら吐き棄てるリチャードを、ロバートの眸がひたと見据えた。 「俺からも殴られたいか? リチャード。きみを見損なった。きみには失望した!」 ロバートに失望されるような仕事上のミスなどした覚えは無い。憮然として頬をおさえているリチャードではなくアーサーを抱き支えて労わるロバートを見ながら、リチャードはとまどう。ロバートとアーサーが何に怒っているのかまるでわからず、ただ、アーサーの拳を避ける程度のことは、できたはずなのに、どうして動けなかったのか。  殴られた左頬がじんじんと熱い。 旦夕に迫ったいのちが、お前だけがいればいいと言ってくれたのに、なぜかアルトゥルが来た。せっかく来たのに邪魔だというわけにも帰れというわけにもいかず・・・、二人で看取って、そして、アルトゥルに憶えていてほしいと、頼んだ。  何を?  梢を渡る風のようにざわざわと。  夏の木漏れ日のように、きついコントラストで明滅する。  鮮やかな緑色。  頭の奥が、ぐらぐらする。  自分を見上げて笑う、いとしいひと。  あれは、誰だ?  リチャードは頭が落ちるのを支えるように、強くひたいに手を当てて呻いた。なにかが、内側からがんがんと叩いている。卵生の生き物が孵化するように、なにかが、硬い殻を割ろうとしている。殻じゃなくて、頭が割られるんじゃないかと思う。座っているのにバランスを崩して、椅子から落ちそうになった。 「リチャード?」 リチャードの異変に気付いて、ロバートが声をかける。 そこへ、アディンセル公爵が来た。 「息子を返していただこう。これ以上仕事が滞るのは、国家の損失だろう」 「待っていただきたい、アディンセル公!」 ロバートは子供の頃からアディンセル公爵家と家族ぐるみのつきあいだったし、家格も遜色ないし仕事でも頻繁に顔を合わせているから、遠慮なく物が言える。 「人ひとりの命がかかっているのです! どうか今は・・・」 「人、とは、代理母として使ったオメガのことですかな? そんなものよりも明日の陸軍との強襲揚陸戦の演習のほうが大事でしょう? リチャードにとっても、海軍にとっても」 アディンセル公爵の目の中に、ロバートはいつか見た鬼火を見た。 「ただのオメガではありません! 彼はわれわれにとって、・・・リチャード自身にとって、とても大切な存在なのです。このままにはしておけない、どうしてもリチャードに、彼のことを思い出させたいのです!」 ロバートの必死の説得を冷笑し、リチャードの父は爬虫類のように底冷えのする眸で、二人を見た。 「無駄だよ。リチャードは前世を思い出さない」 「なに!?」 「!?」 一瞬、なにを聞いたのかわからなかった。 ロバートもアーサーも、自分の耳を疑い、愕然とした。 「アディンセル公・・・?」 リチャードの父は、ひとの命よりも自分の欲望を優先することをためらわない、氷のように冷たい声で言う。 「前世でわたしの期待を裏切った。息子のそんななさけない姿を見るのは、一度でたくさんだ。だから、生まれてすぐの時から、息子の魂には暗示をかけた。深層心理に干渉して、魂を拘束する特別な暗示だ。リチャードの場合は、前世の記憶を封印する、そういう形に固定したのだよ」 深層心理、と聞いて、ロバートたちはまさかと思った。 「待ってください。それは、黒魔術なのでは?」 黒魔術は法律で禁止されている。なかでも魂に干渉する術は、依頼者も術者も死罪とされる重犯罪だ。 「前世で関わった人間・・・、特に皇国空軍の関係者のことを思い出さないように、リチャードには強い暗示がかけてある。だから、子どもの頃からあれだけ一緒にいても、息子はきみを思い出さない。親として今度こそ、息子には道を踏み外させない。ましてや、今世の息子はダブル・アルファだ。神に選ばれた存在なのだよ。今度こそ完璧な人生を歩ませたいと願うのが親心というものでしょう」 まさか、リチャードの父親に前世の記憶があったなんて思わなかった。愕然と立ち尽くすロバートとアーサーを尻目に、さっきまで額を押さえて茫然としていたリチャードはすっと立ち上がる。その顔から、感情や表情が消える。 「演習のカリキュラムはできあがっております。この顔だけ、なんとかできれば」 アーサーの右ストレートがクリティカルヒットしたリチャードの頬は、赤や紫に鮮やかに腫れあがり、端整な美貌をいたいたしく歪めていた。 「アガサに化粧品でも塗らせて隠せ。早くしろ」 そう言って踵を返そうとしたリチャードの父親は、まったく気配を感じさせずに後ろに立っていたデイヴィッドの強烈な一撃で、一瞬にして昏倒させられた。さらにその後ろから、王太子が現れる。 「演習は中止になりましたよ」 言っても既に意識が無いアディンセルには聞こえていないが。  「リチャード」 リチャードは目線だけは王太子に向けるが、その眸の色は、前世のように深くも美しくもない。  が、かまわず王太子は言った。 「きみが、一番たいせつに想うのは、誰かな?」  郊外へと走る馬車の窓から、空を眺める。  前世では空を飛んでいた。ここではない血塗られた空。血腥い前世を思い出したことで、いろいろふっきれた。王太子殿下やロバートたちに会えたことで、苦痛しか無かった今世の最後にわずかばかりいい想い出ができた。  思い残すことなど、なにもない。  死んでも、また次に生まれ変わるのだと、今度こそ信じることができる。メテムサイコシス(輪廻転生)は夢物語なんかじゃなくて、本当にあるのだとわかった。だから、次は。  次こそは。  リチャードも自分も、普通に出会いたい。出会える。  前世のように愛し合うことを許されない世でもなく。  今世のように異常な関係でもなく。  こんな汚れた身体じゃなくて、普通に。  問題があるとすれば、リチャードに普通が理解できるか、だな、と考えて、ちょっと笑ってしまった。前世でも今世でも息子を意のままにしたがる男が父親で、しかも今世は人類の歴史上七十人しかいない特別なアルファだなんて、映画の主人公みたいだ。きっと何度生まれ変わっても、あの無駄に顔がいい男は、普通、なんて言葉は理解しないだろう。そもそも奴の辞書には、普通なんて言葉は無いにちがいない。  とんでもない金額が自分の口座に振り込まれているのを見てびっくりしているジェフリーに、マジックメッセージが届いた。 「アルバートさん?」 『ジェフ! ジョニーがいなくなった!』 「え・・・?」 『ロバートさんから連絡があった! まだ安静にしてなきゃいけないのに、病院にいないんだ!』 「え・・・?」 たいせつな兄。世界中でいちばん大切な、大好きな兄。  その兄が、いなくなった。クソのような父親に売春させられ、胎を売られ、身勝手なアルファから利用されて、自分の血肉を削って子どもを産んで、疲れ果てて、それなのに、楽をさせてやりたかった母の命の灯火は消えて、だから兄は、もう、生きる理由を失ってしまった。命を削って子どもを産み、報酬としてもらった金をジェフリーの口座に振り込んで、どこかに姿を隠した。誰にも見つからない場所で、ひとりで、ひっそりと死んでいこうとしている。  王太子の私邸に、アリスとアガサとセシルがジョナサンの産んだ赤子を抱いて駆けつけてきた。リチャードに赤子をつきつけ、叫ぶ。 「ヨナタンさんはわたしたちを・・・、ツェツィーリアの子どもを助けてくださった恩人なんですから! 今度は私たちの番です! なんとしてもジョナサンさんを助けなきゃダメです!」  前世で。  ヨナタンに助けられたのだ、アリーセもアガットも、ツェツィーリアの子どもも。  リヒャルトとツェツィーリアが皇都の本宅に行かなくてはならなくて留守だった家に、不埒者が押し入った。女子供と病人しかいないと知っての狼藉だった。  病みやつれた身体で、しかしかつてエースと呼ばれた男は瞬時に戦闘態勢に意識をシフトした。冷静に引き出しを探った。自死のために隠し持っていた小銃を、そこに入れてあったのだ。自死のために持っていたものだから、銃弾は一発だけしか装填していない。手の中にそれを隠し、呼吸を整え、ヨナタンは機を窺った。アリーセとアガットと乳児に当てる事無く、精確に不埒者を戦闘不能にした。アリーセとアガットと乳児を護るために。  ヨナタンの死後、その話を聞いたヨナタンの両親は、アリーセとアガットが命の恩人だと言っている自分の息子を罵倒した。同性愛者というだけでも恥晒しなのに、殺人まで、と泣き叫ぶヨナタンの両親に、アリーセとアガットは言ったのだ。自分たちやツェツィーリアの子どもが、死ねばよかったのですか、と。しかし、皇国の法律では同性愛者には如何なる権利も無く。人を護っても称賛もされず。  同性愛者で殺人者、そういう汚名を着せられて、葬儀も一族の墓に入ることも拒否された。敗戦後、同性愛者を差別する法律が廃止され、さらに十年の時を経て、名誉が回復された。さらに月日が流れて、リヒャルトの父やヨナタンの両親をはじめとする同性愛差別をやめることができなかった老害世代が死んでから、ヨナタンとリヒャルトは一緒の墓に埋葬された。リヒャルトは、ヨナタンと一緒の墓に入ることを父母や親族に邪魔させない、それだけのために自死せず、同性愛者差別をやめることができなかった世代の死をひたすら待ち、見届けて、それから死んだのだ。  そこまでしてヨナタンとの来世を願ったのに、父親はまた、リチャードの邪魔をした。アリスとアガサは怒り心頭だった。黒魔術を使ってまで息子の人生を好き勝手にする父親なんて、ぶん殴って、蹴っ飛ばしてやりたい。  リチャードは、つきつけられても赤子を抱こうとせず、再び椅子に腰を下ろした。父親に拒絶されたと思ったのかはわからないが、まだ首の据わらない赤ん坊は、もぞもぞと動いたと思った直後、大きな泣き声をあげた。前世でツェツィーリアが産んだ子どもの声とそっくりな、元気な命がほとばしるような、かわいく瑞々しい声だった。  嬰児の泣き声には、普通は産んだ母親にしか察知できないらしい、さまざまなメッセージが詰まっている。言語ではない、魂の、いのちのメッセージが、リチャードの耳から脳を劈いた。  「っ・・・」 「お兄様・・・?」 頭が割れるように痛い。  いや、割れるのは、頭ではない。  頭蓋骨の中にもう一枚余分に被せられていた、邪魔な殻。  脳に被せられていた、タールのようにべったりと貼りついて魂と脳とを遮断していたそれが割れて、消えた。  シナプスがつながる。海馬ではなく魂に刻まれていた、前世の記憶が、脳へとなだれ込む。  魂の奥底に封印されていた記憶が、血みどろの鮮やかさで、噴き上げてくる。魂を叩く銅鑼の音のような轟音とともに、いちばん大切な記憶が脳を満たした。  こころを満たした。  それは、峻烈で過酷だったけれど、一瞬一瞬が宝石のように光り輝く、そんな日々の記憶。  今日の出撃で、自分が死ぬかもしれない。  明日の出撃で、仲間が死ぬかもしれない。  綱渡りのようなぎりぎりのところで命を繋ぐ。その躍動に、心が滾る、身体中の細胞が生きていることの尊さを叫ぶ。そういう場所にいた。戦争なんて、しないほうがいい。しないにこしたことはない。しかし、愛する人々を、大切な国土を護るためには、戦わなければならないと言い含められた。理不尽ではあっても、かけがえのない日々と、それから、背をあずけ合える仲間がいた。  しかし、裏切られた。  最愛の人が、貶められた。同僚に、友軍に、護った自国民に、後ろ指をさされ、その献身を無にされた。  愛した人は失意のどん底で病を得て、枯れ葉のように朽ちて逝った。  いちばん大切な命を、見送った。  いちばん大切なひとと同じ墓に入るためだけに、生きたくもなかったのに長生きして、邪魔者が老いて死ぬのを待った。すべての邪魔者が死んで、やっと、願いを叶えた。愛する人と、次の世での再会を祈って、人生を閉じた。  アディンセル公爵が法を犯してまでリチャードにかけた黒魔術による暗示は、リチャードの中に蜷局を巻いていたリヒャルトの後悔に巧妙に憑依し、絡みついて根を下ろしていた。ヤドリギのように、寄生虫のように、リチャードの中に巣食っていた。前世のリヒャルトが皇国空軍に入るよりも前、父親によって洗脳教育されていた状態に魂を拘束して、殻の中に封じ込めていた。  その殻を、赤ん坊の生命力にあふれた泣き声が割ってくれた。未来だけしかない、未来へ向けて猛然と這い始めた、純粋無垢な命が、突き破ってくれた。  ただ、いたいけな命は、良くも悪くも混沌で、要不要の区別などできない。  思い出すべき部分と思い出さなくてもいい部分の区別など、できない。  だから、全部の記憶をぐちゃぐちゃに、リチャードの頭のなかに一度にすべてまとめて出現させてしまった。つらかったことも悲しかったことも、嬉しかったことも驚いたことも、あらゆるなにもかもを、全部いっぺんに。  それは、普通の人間の脳の容量では、対応できない量で。 「お兄様?」 「リチャード?」 ぐらり、とその身体が傾いだ。座っていたその姿勢のままで、リチャードは意識を失い、物のようにその場に倒れた。  リチャードが倒れる瞬間、その身体に異変が起きた。突如として、内側から白銀に光り出したのだ。その眩さは到底、正視できず、誰もが目を蔽ってしまう。指の間からなんとか見ようとするものの、下手をすれば失明しかねないような強い光だ。  それが一瞬、なにか動物の姿になったように見えた。大きな翼をもった、しなやかな獣が前脚を高く上げて嘶き、地を蹴って空へと駆け上がった。  リッピンコットの森では、その日、領主主催のキツネ狩りが行われていた。  先代領主は穏やかな人柄で、キノコ狩りに森を解放したり、領民の子ども達を集めて魚のつかみ取り大会を開催したりしていた。王都の平民学校の子ども達の遠足の場として提供したこともあった。  当代はそうしたことは不要だと考えるタイプで、森は自分専用の狩場としている。死んだ家畜をわざわざ森に運ばせて狩りの獲物を誘き寄せようとまでする男だ。領民は立ち入り禁止で、薪一本拾うことすら許されない。花を摘んだ子どもを鞭で叩くような、残忍で非情な領主なのだ。  親族や懇意にしている人々を招いて賑々しく行われたキツネ狩りは、しかし散々だった。いつもたくさんの野生動物がいる森に、今日に限って獲物は影も形も無く、キツネはおろかウサギ一匹出て来ない。どんなに猟犬たちを急き立てても、山鳥の一羽すら飛ばない。まるで死に絶えたような森に、人々は最初は憮然とし、次第に慄き始め、なにかよくないことの前触れではないかと囁きあって、中には急用が入ったなどと言い出して帰る者まで出た。 娘を嫁入りさせるべくもてなすために招いた大きな商会の跡取り息子は不満げに顔を顰めているし、お気に入りの猟犬はキツネ罠にかかって怪我をするしで、踏んだり蹴ったりだ。  不機嫌の絶頂にいる領主と顔を合わせたらなにを言われるかされるかと従者たちは恐れおののき、少しでも距離をとろうと後ろへ下がる。  もう、日が暮れるのに、領主は意固地になっていた。なにか一匹でも仕留めなければ気が済まなかった。キツネじゃなくても、なにか獲物を取らなければ、帰るわけにはいかないと、歯ぎしりしている。  従者のひとりが、目の端に動くものを捉えた。 「領主さま! あちらの方向になにか動くモノがございます!」 獲物に悟られないように、器用に小声で叫ぶ従者の心遣いに、領主はにんまりと笑みを浮かべ、弓に矢をつがえた。  自分の中から出て空を駆けていった神獣を追わなければと、こころが叫ぶ。あの神獣は、ジョナサンがどこにいるか知っているのだ。その身を按じて、焦がれて、不甲斐無いリチャードには任せておけないから、行ったのだ。  あれは、リヒャルトだ。  前世の思念だ。  リチャードが思い出さないから。  前世のリヒャルトが、時空を超えて顕現した。ジョナサンの居る場所へと、翔けて行った。前世のように空を飛んで。いや、前世よりも速く。前世ではせいぜい音の速さだったが、あの神獣は光の速さで空を駆けて行った。  その後を追わなければならないのに、身体が動かない。  遠い未来で、あるいは別の世界で。  ヨナタンに会えたら、わかるはずだと、きっとまた、好きになると、前世のリヒャルトは信じていた。メテムサイコシスを信じていたわけではなくて、自分の勘のようなものを、信じていた。  そんなリヒャルトの気持ちをさしおいて、死期をさとってからヨナタンは、何度かこっそり抜け出して、森の奥にわけいっていた。リヒャルトの別荘で死んだら迷惑をかけてしまうから、森の奥でひっそり死ねればと思ってのことだったが、リヒャルトに泣かれて、ようやっと命を閉じるまでにいる、もう黙って出て行かないと約束した。迷惑にならないように早く死ぬようにする、なんて言うから、ふざけたことを言うな、一分でも一秒でも長生きしてくれと、リヒャルトはかきくどいた。アリーセたちも口を揃えて、一日でも長くお兄様のそばにいてあげてくださいと泣いた。  短い間だったけれど、穏やかに過ごした。過ぎた日々を思い出して語り合い、先に逝ったローベルトやダーヴィドの想い出話に笑い合いながら、徐々に近づいてくる死を見つめながら、生を慈しんだ。  だんだんと弱って、痩せて、動けなくなって、枕も上がらなくなった頃。  ヨナタンは言ったのだ。頬がこけて、熱でぼんやりした顔で、へらりと笑って。  お前に愛されて、幸せだった、と。  同性愛者だと迫害されたのは、青く美しい空を血に染めた天罰だ。だから・・・、もう、俺のことは忘れて、ツェツィーリアをたいせつにしてあげてほしい、と。 ただ、涙だけが流れた。  乗りたいと望んだわけでもない鋼鉄の翼で、無辜の民を護るために、大好きだった空を血に染めて戦っていた英雄なのに、同性愛者だというだけで後ろ指をさされ、貶められて、失意のどん底に叩き落とされた。病に苦しんでも、治療すら拒否された。 見も知らぬ数えきれない人々を護るために戦ったのに、どうして、こんな死に方をしなければならない?  リヒャルトはもともと神など信じていなかったけれど、この時は本気で、神なんていないと思った。恩恵だとか慈悲だとか、そんなもの一回だって与えて寄越したことなど無いじゃないか、もっとまじめに仕事しやがれと、神を詰ってやりたかった。それでも、死にゆく命の前で不道徳なことを言うのもどうかと思ったから、地獄で待ってるというヨナタンに、お前は天国に行けるから大丈夫だと、らしくもなく言ってやったのに。  それなのに、ヨナタンは。  もうしゃべるのもしんどいはずなのに、まぶたを開けることもできないのに、そのくせ口元は、片方だけつり上げて笑っていて。  残される者の気持ちなんか考えなくていいのに、愛されて幸せだったと言った。  リヒャルトの求愛を受け入れたことで、地位も、名誉も、家族もすべてを失ったのに。  軽口叩いて、ふざけあって笑い合って、美味しい物を食べて、抱き合って、そうやって一緒に過ごせれば、それだけでよかったのに。  そんな過ごし方はできなかった。  だったら、平和な世の中に生まれ変わった今度こそ、前世でできなかったことをしたい。なにも特別なことをしたいわけではない。ただ、一緒にいたい。他愛もない話をして、笑い合って、そして・・・。  早く、見つけて、抱きしめたい。今度こそ、一緒に。  領主の射た矢が脚に命中して倒れたジョナサンを、従者たちが取り囲んだ。 「なんだ、こいつ?」 「なんでこんなところに人がいるんだ! こんなところに人がいるなんて思わないだろう!」 従者が、ジョナサンの脇腹を蹴る。その痛みにジョナサンは呻き、わずかに身をよじった。 「う・・・」 「まだ死んでないですよ」 「どけ」 領主は馬に乗ったまま近寄って、ジョナサンを見下ろした。  ひとりが意識の混濁しているジョナサンの髪を掴んで引っ張り、顔を領主に向けさせる。 「土地の者か?」 「いえ、初めて見る顔です」 小さな手荷物を漁った男が、なにか引っ張り出した。 「なんだ、これ、シャツ?」 「ずいぶんでかいな。しかもこれ、シルクじゃないか? なんでこんな高級なシャツを持っているんだ?」 脇腹を蹴った男が、したり顔で笑った。 「こいつ、オメガですぜ」 男はランクは低いものの、アルファであった。 「なんでわかるんだよ?」 ベータの従者の問いに、アルファの従者は鼻で笑って答える。 「お前ら知らねえのか? オメガってのはよ、つがいのニオイに発情するんだ。こいつ、つがいに棄てられてよ、シャツ盗んできたんじゃねえの」 男たちの笑みが、じわりと残忍になった。中でも領主の目が、加虐の色に光った。 「本日の獲物、だな」  リチャードが意識を失っていたのは、数分かそこらだっただろうか。  揺り起こされて、飛び起きたリチャードは前世のリヒャルトの記憶がもどっていて、自分のしたことを思い返して蒼白になり、またぶっ倒れそうだった。  息が止まるかと思った。 「嘘・・・、だろ?」 大切に想っていたはずなのに。  なんで、ヨナタンを思い出さなかった・・・?!  それだけではない。あろうことか、自分がジョナサンを、アルファの子どもを得るための代理母として使った、・・・だと? 「嘘じゃありません」 見た目は十代の少女だけれど、前世の記憶がもどったセシルは、前世のツェツィーリアと同じ白い顔を強張らせ、泣きながら言った。 「リチャードさま。リヒャルトさまは・・・、貴方の御心は、ジョナサンさんを救うべく時空を超えて、光となって飛んで行きました。どうか、早く追いかけてください!」  「うっわたまんねえ! オメガの中ってこんなイイのですか!? 女よりイイです・・・っ」 オメガだと知られてしまえば、もうされることはひとつしかなかった。複数の男たちに輪姦されて、もう、虫の息だった。それでも、男たちの凌辱はやまず、汚らしい欲望の吐け口として、動かない身体を貪られた。 最初にジョナサンを蹴った従者は主人に似て加虐的だった。一度では飽き足らず、二度三度とジョナサンを貪った。馬上からその様子を見ている領主は、アルファだけれど高慢ちきな男なので、汚らしいオメガにむらがる自分の従者たちを死肉に群がるハイエナのようだと蔑むことで、さんざんだったこの日の留飲を下げていたが、弱者の身体だけではなく心を、精神までいたぶり嬲りつくしてやろうと思いついた。  ジョナサンの荷物の中にあったリチャードのシャツを引っ張り出した従者を呼びつけ、陰惨な笑みを浮かべて言った。 「そのシャツに火をつけて燃やしてしまえ」  ジョナサンは朦朧としていたけれど、燃え上がった炎を見て、息を飲んだ。 「返せ・・・っ」 のばした手を、男たちのひとりに踏み躙られる。  手の痛みよりも、リチャードのシャツに火をつけられてしまったショックが大きくて、身体よりもこころを踏み躙られる。 最後の力を振り絞って男を突き飛ばし、燃えているシャツに覆いかぶさって、火を消そうとした。 「っ!」 シルクが焼ける嫌なニオイがした。 「この野郎!」 突き飛ばされてカッとなった男が追いかけてきて、ジョナサンの脇腹を蹴り上げた。蹴られた衝撃で、口からは吐瀉物が噴き出した。 「はっ、よかったなあ、ゲロで火が消えるぜ!」 しかし、突き飛ばされた男は腹がおさまらなかったようで、二度、三度と蹴りつけた。  そこに、白銀に輝く大きな翼が舞い降りてきた。もう動けないジョナサンを執拗に足蹴にする外道に向かって打ち下ろされた翼に、外道は羽虫のように吹き飛ばされて転がった。 「ぎゃっ!」 ジョナサンを護るように立ちはだかる、眩く神々しい姿。碧い怒りの炎が吹き上がり、従者たちを焼いた。 「ひいいいっ」 従者たちは腰を抜かし、必死に後退った。他の従者が弓に矢をつがえ、至近距離な上にあわてているから狙いもそこそこに射る。 「!」 神獣に、矢は当たらない。見えない何かに遮られて、矢は地に落ちる。  ペガサスの怒りの凄まじさに、領主の乗っている馬が怯えて暴れ、領主を振り落とした。 「うわあっ」 領主は落馬し、馬は遁走する。 「ばっ、バケモノだあっ!」 バケモノというには神々しく荘厳な姿なのだが、愚劣な男達の目には、神獣ではなく禍々しい魔獣のように見えているのかもしれない。 「祟りだ! 森の神がお怒りだ!」 従者たちは口々に叫んで逃げ出す。 「待てお前たち! 主を置いて行くなど、恥ずかしいと思わないのか?!」 馬から落ちた際に脚を捻ったのか、立ち上がれない領主が叫ぶ。が、我先にと逃げ去って行く者たちはもどってなど来ない。 「ひいいっ」 ペガサスの静かな威嚇が、領主にとっては死神に見つめられるように感じられたらしい。  這って逃げる領主と走り去る馬と強姦者達を睨みつけていたペガサスは、もどってこないことを確認しながら、ゆっくりとジョナサンに歩み寄った。しかしジョナサンはもう、動けない。手も火傷していて動かせない。  燃えてしまったシャツは、焦げたニオイと自分が吐いたもののニオイがするだけで、リチャードのフェロモンの匂いはしない。それでも、必死に手繰り寄せて鼻をちかづけていた。  リヒャルト。その形に、口が動いて、止まった。  白銀のペガサスは長い鼻づらをジョナサンにおしつけ、悲しげに鼻を鳴らす。その碧い眸から、涙が溢れた。

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