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【番外編】Episode Final『父上、今あなたの元へ参ります』

独房の石壁は、冷たかった。 だが、その冷たさすら、今のルインハルトには、不思議と心地よく感じられた。 処刑の日取りは、既に定められている。 ヴィルヘルムが、自らの手で兄を裁くという決断を下したことも、看守の話から漏れ聞いていた。 ――ヴィルヘルムらしい。 最後まで、逃げない男だ。 だが、それでいい。 否、それで、いいはずがなかった。 ルインハルトは、静かに、自身の手を見下ろした。 ――お前に、私を殺させはしない。 弟が、自分を裁く。それは、正しい裁きなのかもしれない。 だがそれは同時に、ヴィルヘルムに生涯消えることのない『兄殺し』の業を背負わせることでもある。 自分がどれほど憎まれ、どれほど断罪されようと構わなかった。だがその罪を、あの不器用な弟の肩に、これ以上乗せるわけにはいかない。 ――その血の汚れは、私一人で十分だ。 父を手にかけた、この手だけで。 ※ 処刑の日は、明日に迫っていた。 その、前夜。 懐に忍ばせていた、小さな刃を取り出す。看守の目を欺いて隠し持っていた、最後の道具だった。 これを選ぶのは、ヴィルヘルムのためばかりではない。 裁かれて命を散らすのではなく、自らの命は自らの手で幕を引きたいと願う、皇子としての矜持か。 あるいは愛する者を救えず、彼の望む未来も紡いでやれなかったことへの贖罪か。 刃を見つめながら、ルインハルトは静かに、これまでの人生を振り返っていた。 ――アナン。 あの、真っ直ぐな瞳をした青年の顔が、脳裏に浮かぶ。 お前と描いた未来には、もう、届かない。 お前を守れなかったこの手で、私は父を殺め、弟を追い詰め、そして今、自らの命を絶とうとしている。 「――お前のいる場所へは、行けそうもないな」 美しく、高潔で、どこまでも澄んだ目をした男だった。 同じ場所へなど、行けるはずもない。 呟く声は、ひどく乾いた――けれど、どこか安らかな声だった。 その表情に浮かぶのは、これまでの人生で何度浮かべたことがあったか分からない、作られていない笑みだった。 「父上」 刃を、自らの首筋に添える。 「地獄で、待っていてください」 一切の躊躇いはなかった。 むしろ、これまで生きてきたどんな瞬間よりも、その手は落ち着いていた。 刃を、引く。 熱い痛みが、一瞬だけ走った。 生温かな血潮が、音もなく胸元を濡らしていき、やがて、床に血溜まりを広げ始めた。 その彩は、父の死に際に見たものと同じ色をしていた。 ルインハルトは次第に意識が薄れゆくのを感じながら、自らの指を、流れ出た血に浸した。 ふらつく身体を、石壁に預ける。 震える指先で、壁に、文字を刻んでいく。 『父上』 ――なぜ、私を見てくださらなかったのですか。 最初の一文字は、まだ、整然としていた。 『父上』 ――なぜあなたは、あんなにも、遠かったのですか。 二文字目は、僅かに、震えていた。 『父上』 ――憎かった。あなたのようになりたくなかった。 文字が掠れた。 指先が乾き始める。 『父上』 ――それでも、あなたのように、揺るがずにいたかった。 もう一度、首元に触れる。 指先を濡らす液体は、温かかった。 『父上』 ――許してください。 筆致は、もう、判別が難しいほどに乱れていた。 指の力は、急速に失われていく。 『父上』 ――ですが、私はあなたを愛していました。 意識が、闇に沈んでいく。 だが、指を止めることは、しなかった。 『父上』 ――あなたが作った盤上でしか、生きられなかった私を、どうか。 これが、最後だと分かっていた。 『父……』 最後の力を振り絞った文字は、そこで途切れた。 消えかけた声で、囁く。 「――父上……今、あなたの、元へ、参ります」 指先が、力を失い、壁から滑り落ちる。 その瞳から光が失われていくなか、ルインハルトの表情は、かつてないほどに凪いでいた。 見て欲しかった。 抱き締めて欲しかった。 褒めて欲しかった。 叱って欲しかった。 ただの、息子として。 ――そして、今。 長く、苦しかった旅のその果てに、ようやくたどり着く。 「――迎えに……来て、ください…」 声にはならず、唇だけが微かに震えた。 返事は、なかった。 けれど。 それでも、彼は待っていた。 「ちち……うえ……」 その言葉を最後に、意識は、完全に閉じられた。 石の床に崩れ落ちた身体は、二度と動くことはなかった。 壁に刻まれた血文字だけが、月のない夜に静かに乾いていく。 まだ、誰も知らない。 血だまりの中に横たわるその男が、 最期の最期まで、皇帝ではなく、ただ一人の父を求め続けていたことを。 そして、皇子でも、第一皇子でもなく、 ただ一人の息子として、眠りについたことを。 了

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