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前編|食べ頃は三日後
七月一日。
東京は朝から三十度を超えていた。
テレビの向こうで、気象予報士が梅雨明けを告げる。その三分後、榊伊織は僕に別れを告げた。
「別れよう」
ダイニングテーブルの上には、昨夜、僕が買ってきた桃が二つ並んでいた。
まだ硬い。食べ頃は三日後だと、青果売り場の札に書いてあった。
「一緒に住むのをやめるってこと?」
「恋人をやめたい」
伊織は目を逸らさなかった。
冗談で逃げられる隙も、聞き間違いにできる曖昧さもなかった。
「いつから考えてた?」
「春から」
「そっか」
それ以外の言葉が見つからない。
エアコンの風が、テーブルの上の紙を揺らした。
大阪支社への異動について。
二年間の大型プロジェクト。主任としての着任。伊織がずっと手がけたがっていた、古い劇場の再生計画。
「断ったんだって?」
「まだ返事はしてない」
「どうして黙ってたの」
「直人が東京にいるから」
僕は紙の端を指で押さえた。
言ってくれればよかった、とは言えなかった。
三月、北海道の観光誌から、三か月間の撮影依頼が届いた。会社員になってからも細々と写真を撮り続けていた僕にとって、初めて名前を出してもらえる仕事だった。
返事は、一週間待ってほしいと伝えたまま。
伊織には話していない。
「北海道の仕事、直人も断るつもりだろ」
「なんで知ってるの」
「パソコンにメールが出てた」
「勝手に見た?」
「見ようとしたんじゃない」
責める場所を探した僕より先に、伊織が視線を落とした。
「俺たち、相手のためって言いながら、相手を言い訳にしてる」
冷蔵庫が低く鳴った。
僕は写真を諦めようとしていた。
伊織は大阪を諦めようとしていた。
どちらも頼まれていないのに、勝手に差し出し、いつか相手が気づいてくれるのを待っていた。
「このまま一緒にいたら、いつか直人のせいにする」
「僕だって、伊織のせいにするかもね」
「うん」
「だから別れる?」
「嫌いにならないと離れられなくなる前に」
窓の外で、今年最初の蝉が鳴いた。
夏が始まった。
僕たちの五年が、終わった。
*
交際を終えても、暮らしはすぐには終わらなかった。
賃貸契約が切れるのは八月末。大阪の仕事も北海道の撮影も、始まるのは九月からだった。
僕たちは二か月かけて、三年分の同居生活を解体することにした。
伊織の本。
僕のカメラ。
二人で選んだ食器。
どちらが買ったのか思い出せないタオル。
段ボール箱に、油性ペンで名前を書いていく。
大きな青いマグカップは伊織の箱へ、小さな白いカップは僕の箱へ入った。
「逆じゃない?」
「青いほう、いつも直人が使ってた」
「伊織が選んだやつだよ」
「じゃあ、そっちが持っていけばいい」
「別にどっちでもいい」
口にしてから、二人とも手を止めた。
それが僕の癖だった。
夕飯も、休日の行き先も、住む場所も。
伊織が選んだものを受け入れておけば、嫌われずに済むと思っていた。
そのくせ心の底では、自分の希望を見つけてくれることを期待していた。
「青、持っていく」
僕は伊織の箱からマグカップを取り出した。
「気に入ってるから」
「うん」
伊織は白いカップを自分の箱へ移した。
「俺は、こっち」
たったそれだけのやり取りが、五年間できなかった。
別れた途端、少しずつできるようになった。
別れを告げられた日に並んでいた桃は、三日後、同時に食べ頃になった。
伊織が皮を剥き、僕が皿を出した。
包丁を入れると、甘い匂いが部屋に広がった。
「半分、食べる?」
「食べる」
桃は、驚くほど甘かった。
*
七月最後の日曜日、押し入れの奥から花火が出てきた。
去年の夏、コンビニで買ったものだ。
「結局、やらなかったな」
伊織が透明な袋を持ち上げる。
「来年でいいって、僕が言った」
「来年は勝手に来ると思ってた」
「来たけどね」
同じ形では、来なかった。
日が暮れてから、近所の河川敷へ持っていった。
土手には、僕たちと同じように花火を手にした家族や学生がいた。小さな光が、川沿いに点々と浮かんでいる。
伊織がライターを傾けた。
火薬に火が移り、白い火花が弾ける。
「近い」
「火、もらわないと消える」
「前髪、燃やさないでよ」
「燃えたら写真に撮ればいい」
「撮らないよ」
「今、カメラ持ってるだろ」
肩に掛けた古い一眼レフに触れた。
荷造りの途中、処分する箱へ入れていたものを、伊織が拾い上げた。
『これは捨てるな』
そう言って、僕の箱へ戻した。
久しぶりに覗いたファインダーの中で、火花が伊織の横顔を照らしていた。
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