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後編|二本目の花火

「撮らないんじゃなかった?」 「撮りたくなったから」 「そっか」  伊織の手元で、光が小さくなっていく。  最後のひと雫が落ちる寸前、もう一度シャッターを切った。 「北海道、まだ間に合うの?」 「昨日、行くって返事した」 「そう」 「伊織は?」 「大阪に行く」 「そっか」  暗い川面を、街の明かりが流れていた。 「よかった」  どちらが先に言ったのか、わからなかった。  一本目の花火が消える。  僕たちはすぐに、次の一本へ火をつけた。       *  八月三十一日。  二人で暮らした部屋には、段ボール箱さえ残っていなかった。  僕の荷物は北海道へ。伊織の荷物は大阪へ。それぞれ昨日のうちに送り出した。  床には、ダイニングテーブルがあった場所だけ、四角く色の薄い跡が残っている。 「鍵、置いとく」  伊織が玄関の棚に鍵を置いた。 「うん」 「飛行機、何時?」 「夕方」 「遅れるなよ」 「伊織こそ、新幹線」 「まだ余裕ある」  靴を履き、立ち上がる。  もう、この部屋へ帰ってくることはない。  伊織がドアノブに手をかけた。 「直人」 「なに?」 「元気で」 「伊織も」  少しだけ間が空いた。 「さよなら」  五年間で、一度も言われたことのない言葉だった。  行ってきますでも、またあとででもない。  僕は青いマグカップの入った鞄を抱え直した。 「さよなら、伊織」  ドアが閉まる。  足音が遠ざかっていく。  追いかけなかった。  夕方、僕も空になった部屋を出た。       *  一年後の七月一日。  僕は清澄白河の小さなギャラリーにいた。  三か月で終わるはずだった北海道の仕事は、別の土地の撮影へつながった。会社を辞め、今は旅と暮らしを撮る仕事をしている。  初めての個展には、十五枚の写真を並べた。  雪原に残る靴跡。  港で網を繕う手。  雨上がりの無人駅。  いちばん奥には、去年の河川敷で撮った一枚。  暗闇の中、線香花火を持つ伊織の手だけが写っている。  題名は『夏の始まり』。  閉館五分前、入口のベルが鳴った。  顔を上げる。  一年ぶりに見る榊伊織が、そこに立っていた。 「手、勝手に展示した?」 「顔は出てないからいいかと思って」 「使用料、高いよ」 「いくら?」 「飯一回」 「それでいいの?」 「まずは」  伊織が写真の前に立つ。  あの日より少し短くなった髪。見慣れない腕時計。僕の知らない一年が、いくつも増えていた。 「写真、仕事にしたんだな」 「うん」 「楽しい?」 「大変だけど、やめたくない」 「そっか」  伊織の口元がわずかにほどけた。 「大阪は?」 「劇場、先月完成した」 「おめでとう」 「ありがとう」 「今日は東京に用事?」 「昨日、戻ってきた」 「転勤?」 「会社を辞めた」  思わず伊織を見る。 「独立する。東京でやりたい仕事があるから戻ってきた」 「僕がいるからじゃなく?」 「俺が、ここでやりたいから」  伊織が一歩、近づいた。 「ここに来たのは、直人に会いたかったから」  一年前なら、その二つを同じ意味にしていた。  人生の行き先も、相手への気持ちも、ひとまとめにして預けていた。  今は違う。 「昔に戻りたい?」 「戻りたくない」  返事は早かった。 「戻ったら、また同じことをする」 「じゃあ、何しに来たの?」 「今の直人に会いに来た」  ギャラリーの時計が、閉館時刻を告げた。  外では蝉が鳴いている。  去年と同じ、夏の始まり。  僕は伊織の前に立った。 「僕も、伊織に会いたかった」 「うん」 「もう一度、恋人になりたい」  今度は、伊織に決めてもらうための言葉ではない。 「僕が、そうしたい」  伊織はすぐには触れなかった。 「手、つないでいい?」 「それくらい、自分で決めればいいのに」 「二人のことだから聞いてる」  差し出された手を見る。  去年、花火を持っていた手。  あの日は、離れていく光を撮ることしかできなかった。 「うん」  指先が重なる。  伊織の手は、一年前と同じ温度だった。 「何、食べたい?」  ギャラリーの照明を消しながら、伊織が聞いた。 「冷たい麺」 「俺はカレー」 「両方ある店、探そうか」 「そうしよう」  どちらかが我慢するのではなく、二人で次の行き先を探す。  扉を開けると、真昼の熱を残した風が入り込んだ。  僕たちは、元いた場所へは戻らなかった。  さよならの、その先へ歩き出した。

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