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第1話 未来死体①

 壁に飛び散ったコーヒーの染みが、いつまでも残ってしまうように。人がこの世に残した「最期の声」は、いつまでもそこにこびりついたまま、なかなか薄れていかない。    淡い氷のような瞳を上げて、レイは探偵事務所の中を見渡した。どこかから、かすかな音が聞こえた気がしたのだ。しかし、来客用ソファの位置はそのままで、観葉植物の影が座面に落ちている。ふと焦点を引くと、デスクの端で、小さな甲虫がひっくり返っていた。六本の足が、弱々しく空中をかいている。レイは払い落とすことも、逃がすこともしなかった。  レイは手元に目を戻し、手紙の続きを読み始めた。少し大げさな感謝の言葉を、黒い手袋をはめた指で一行ずつなぞっていく。最後の署名まで読み終わると、レイはデスク横のキャビネットを開けた。ほとんどが黒と白で分類された書類ケースの中から、やわらかな黄緑色のケースを取り出す。レイは手紙を丁寧にたたむと、封筒の糊が他の手紙につかないよう、紙を一枚挟んでから、ケースの中にしまった。  いつの間にか、甲虫は動かなくなっていた。レイは同じ紙をもう一枚とってそれを包むと、くずかごに捨てた。窓のあたりにちらりと目をやってから、古びたコンピュータに向き直る。  ――階段を上ってくる、騒々しい足音が響いてきたのは、その時だった。  今度は、聞き間違いではなかった。まるで何かに追い立てられているか、とても腹を立てた人間が突進しているようだった。おそらく、上階の街金がどこかの客だろう。そう思っているうちに、足音はこの階で急停止した。レイが眉をひそめて立ち上がるのと、事務所の扉が開いたのは、ほぼ同時だった。 「失礼する!」  現れたのは、背の高い男だった。鍛え上げた筋肉を薄いシャツの中に押し込め、軍人のようにきびきびした雰囲気を漂わせている。一目で印象に残る、精悍な顔立ちをしていた。獅子のような金色の瞳が、異様なほど強い光をたたえている。  男は、三歩でデスクの前へやってきた。 「確認だ。ここは、〈残声師〉|黎《レイ》の事務所だ。そうだな?」 「はい。そうですが……」 「なら教えてくれ」  分厚い胸板が、威嚇するように上下した。 「――俺が死ぬ前、最期に言った言葉は何だ?」 「……はい?」  久しぶりに、本気で戸惑った声が出た。突拍子もない話にも、初対面とは思えない男の態度にも、問い質したいことが無数に浮かんでくる。だがまずは、何よりも―― 「あなたは、まだ生きているように見えますが……?」 「俺は死体を見たんだ。俺の、自分の死体を!」  男は、まるで話を聞いていなかった。目をぎらつかせ、息を荒げながら、デスクへ身を乗り出してくる。本能的に後ずさると、踵が椅子のキャスターにぶつかって音を立てた。 「俺の前では、絶対に誰も死なせない。たとえそれが俺自身でもだ。だから頼む、教えてくれ! 死ぬ間際、俺はなんて言ったんだ?」  ――こいつ、気でも狂ったのではないだろうか。  こめかみを引きつらせ、まじまじと男を見つめながら、レイは厄介ごとの予感に、深いため息をついた。

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