37 / 37
第37話 終わりのない環②
「やれやれ。ひどい目にあった」
探偵事務所のソファにどっかりと座り込み、勝手に淹れたコーヒーに口をつけながら、ジンがぼやいた。
「大人になってから、あんなに怒られるとは思わなかった。おかげで筋肉痛だ」
「良い上官に恵まれましたね」
レイの口調には、同情も罪悪感もなかった。しかし、ジンはニヤッとした。
「あんたもだろ。イツキにしこたま怒られてたじゃないか」
「……また勝手に盗み聞きしてたんですか」
「署から聞こえる範囲なら好きにすればいいって言ったじゃないか。それをわかっててあそこに行ったのはあんただ」
言い返せなくなったレイは、首を振って、手帳を引き寄せた。
店員の青年の犯行は、一連の未来死体事件に付随して処理されていた。店長の罪を知りながら黙殺し、明確な殺意を持ってレイに接近したのだ。ただ、最終的には殺人未遂で終わったので、店長ほど重刑にならずにそのうちまたレイが危険にさらされるのではないかと、ジンは心配した。
「それは大丈夫でしょう」
レイは淡々と言った。
「焼却場でも見ましたが、あの店長に恨みを持つ霊はたくさんいます。彼がわが子のように可愛がっていたあの店員も、おそらくその標的になる。いつまで正気を失わないでいられるか、むしろ心配なぐらいです」
「……あんたが言うと、心配してるように聞こえないな」
「そうでしょうね。どうも私は詐欺師らしいので」
店長の言葉を混ぜっ返す、わかりにくいレイの冗談に、ジンは一瞬神妙な顔をしてから仕方なさそうに笑った。
メールの着信音が、応接テーブルの天板を振動させた。
「もう次の依頼か?」
「ええ、そのようです」
コーヒーに口をつけながら文面を確認していたレイは、ジンがまじめな顔でこちらを見ているのに気が付いた。
「どうしましたか?」
「いや。……あんた、この先もその仕事を続けるのか?」
レイの手が止まった。音をたてないようにコーヒーカップをテーブルへ戻し、静かに言う。
「「代償」が、気になりますか」
しかし、驚いたことに、ジンは首を振った。
「もちろん、それもある。でも、あんたの時間をどう進めるかは、あんたが決めることだ。俺が言いたいのは、そうじゃなくて……」
言葉を探すように一度切ってから、ジンはレイをじっと見つめた。
「ずっと思ってた。人間が死に際に残す言葉なんて、たいていは後悔や恨みで、碌なもんじゃないだろう。それをずっと聞き続けるのは、酷なことじゃないのか?」
レイは、まじまじとジンを見た。
「……そんなことを心配されるとは、思っていませんでした」
正直な感想を言うと、ジンがため息をついた。
「それに、昨日みたいに恨みを買うことだって多いだろ。逆に、あんたの力を利用しようとするやつだって、いくらでも出てきそうだ。そうしたら、あんたは……あんたの望むように死ぬことは、できなくなるかもしれないんだぞ」
レイは目を伏せて、しばらく黙っていた。コーヒーの湯気が優しく揺らぎ、皿に盛られたドーナツの上を漂った。前の道をにぎやかな話し声が通り過ぎるのを待って、小さく息をついて顔を上げる。
「そうですね。それでも私は、この仕事を続けるつもりです」
金色の瞳を、まっすぐに見つめる。恐怖に支配されてではなく、心の底からただレイを案じている彼の表情に、穏やかな決意が胸に満ちていった。
「これからも、私は自分の生の一日を、誰かの死の声に捧げて生きていく。でもそれは、いつか私が死ぬためではない。しっかりと生を生きるために、私はそうします。なぜなら、私の命はもう私のものではなく……あなたに、いただいたものなので」
レイはドーナツを掲げて、ちょっと微笑んだ。甘いメープルの香りがするそれは、終わらない環の形をしていた。
「もらいものは、きちんと大切にします。いつか、そう言いましたからね」
まぶしいものを見たように、ジンがそっと顔を伏せた。その口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。少しずつ身体が揺れていき、やがて彼は声を立てて笑い始めた。
つられて口元を緩めながら、レイはドーナツをかじった。
「何かおかしかったですか?」
「いや」
ジンはまだ笑っていた。
「あんたは、何も。――たぶん俺が、ずっとそうだったんだ」
独り言のように言ってから、ジンは頭を振って立ち上がった。短い距離を歩いて、レイの隣に座る。レイが首をかしげながらドーナツを食べ終わるのを待ってから、ジンはようやく口を開いた。その顔から、もう笑みは消えていた。
「俺からもらったものなら、あんたは大切にしてくれるのか」
静かな声が、二人の間に一滴落ちた。
部屋の空気が変わったのを感じて、レイの背筋が自然と伸びた。指先を紙ナプキンで拭って、ジンの方へ体を向ける。ジンも、レイの方を向いていた。二人は、ひざが触れあいそうなほど近くに座っていた。
「それなら、もしも……」
ジンの声が、わずかに震えた。
「もしも、〈英雄〉を――俺をもらえるとしたら……あんたは、それも大切にしてくれるのか?」
レイの口が、かすかに開いた。事務所の静寂に、自分の鼓動がやけに響くようだった。ジンがいま何を聞いているのか、その力を持たないレイにもわかるような気がした。――同じものを聞いたジンが、わずかに目を大きくした。
ジンの手がゆっくりと上がり、ためらいがちにレイの頬を包んだ。少しでも身じろげば止まってしまいそうなほどの力加減で、ゆっくりと顔を引き寄せられる。ジンが何をしようとしているのか、レイは正確にわかっていた。わかっていてなお、止めなかった。
先に目を閉じたのは、レイだった。
口に押しあてられた命の熱は、数度レイを食んでから、静かに離れた。思わず目を開けて見上げると、ジンの眉がこらえきれなかったようにゆがんだ。もう一度重なった唇が、今度は角度を変えて、先ほどよりも深く触れてくる。レイは、無意識にジンの胸元を掴んだ。銀髪に、長い指がもぐりこんだ。
ようやく顔が離れると、レイは音のない吐息をついた。それを聞き取ったジンが、本当に幸せそうに笑う。あまりにも屈託のないその笑顔に、レイは思わず明後日の方向に視線をそらした。
「……いきなり、とんでもないものを贈ってこないでください」
「嫌だったか?」
ジンは即座に聞いたが、あまり意味のない確認だった。レイの膝の上で、手のひらを下にして重ねられている大きな左手と白い右手を、二人とも長いあいだ退けようとしなかった。
「さて」
ようやくジンが眉を上げ、テーブルに放置されていた携帯電話の方へ首を傾げた。
「仕事の邪魔はしないぞ。調査に行くんだろ?」
「はい」
レイは頷いて立ち上がり、片づけを始めた。
「今度も、少し時間がかかるかもしれません。曙トンネルで「声落とし」だそうです」
「そりゃ、また危なそうな場所だな」
ジンは肩をすくめて、事務所を出ようとするレイに自然と並んだ。レイのものと色違いの水色のライトを取り出し、ベルトのカラビナにかちりとつなぐ。レイはそれをじっと見つめていたが、何も言わなかった。ジンも、何も聞かなかった。
階段の暗がりから出ると、高い青空が広がっていた。本格的に色づき始めた街路樹の匂いが、肺を爽やかに洗っていく。
視線を戻したレイは、すぐ横に立っているジンを見つめて静かに笑った。ジンが眉を上げる。
「どうした?」
「いえ」
レイは呟いた。
「ふと思ったのです。これで私は……あなたの〈残声〉を聞かなければならなくなったのだなと」
自分の声に諦めが混じっていないことに、レイは少し驚いた。ただ、これから始まる長い休みへの、穏やかな期待だけがそこにあった。
「その必要はないぞ」
しかし、終わりを恐れる男は、いつだってそれ以上の幸福をレイに与えようとしていた。見上げた視線の先で、ジンが不敵に笑った。
「俺の〈残声〉はもう決まってる。先に言っておこうか? ……あんたの名前だよ」
片腕で抱き寄せられ、耳元で生者の声がする。
「レイ。――〈残声師〉、レイ」
(完)
ともだちにシェアしよう!

