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番外編 もしも…②
そびえるように立つ長身の男が、まっすぐに悠心を見下ろしていた。
「あ……」
思わず、喉から空気が漏れる。
黒条の制服に身を包んだ男は、これまでのどんな男たちとも格が違った。
服の上からでもわかる、鍛え上げられた体躯。その佇まいは、抜き身の刀を思わせた。
そして何より印象的だったのは——その目だった。
悠心を見下ろす、切れ長の漆黒の目。
その目に野生の獣を思い出して、悠心は思わずぞくりと背筋を震わせた。
男の視線にさらされた悠心は、肌が焦げ付くような錯覚を覚えた。
——でも、なんか……なんだろう。
言い難い、小さな引っ掛かりを覚える。
「……貴良」
凛がその男を見て、困惑したような声をあげる。貴良と呼ばれたその男は、瞬きもせずに悠心をじっと見つめている。
悠心も、貴良と呼ばれた男のことを大きく目を見開いて見つめ返していた。
「……悠心」
那智にそっと腕を掴まれる。その瞬間、貴良が目を細めた。
「そいつに触んな」
貴良が悠心の腕を掴み、ぐいと自分の方へ引き寄せた。
ふわりと清涼な香りがした。その奥にかすかに混じる、ぴりっとしたシナモンの香りにくらりとする。
何するんだ、そう言おうとしても、体からは力が抜けて、今初めて会ったばかりのこの男の体温を不思議なほど心地よく感じてしまう。
「急に何を……!」
那智が声を荒げて貴良へ詰め寄るが……悠心の顔を見て足を止めた。
「……悠心?」
ぼうっとしたまま、悠心は自分の身に一体何が起こっているのか分からなかった。那智の言葉が、どこか遠くに聞こえる。
那智が息を飲むのがわかる。
「悠心くん、なんだか様子がおかしいぞ」
宏樹がメガネをかけて、訝しげな顔をする。
「……お前が」
ふと、頭上にある貴良の低い声が落ちた。
「俺の運命か」
貴良の声だけが、悠心の世界にはっきりと響く。
獣のようなその目をぼんやりと見上げた。
悠心はその瞳に映る、今まで見たこともない乙女のような自分の顔を見つめた。
「——来い」
ぐい、と腕を引かれる。悠心は抵抗もできないまま、貴良に連れられるままだった。
「ちょっと、貴良!? どこに……」
「あとは任せた」
「ええ……!?」
呆然とした声が悠心の後ろから聞こえてくる。
「総長、一体どうしちまったんだ?」
「あんなの、今まで見たことねえよ」
「悠心!? おい、離せ! 悠心!」
那智が、宏樹が心配している。
でも、悠心は振り返ることができなかった。
目の前の広い背中は、黒い制服を着ている。総長、という言葉。
もしかしたら、とんでもない相手なのかもしれない。
けれど、今はこの手を振り払えなかった。
「乗れ」
大型バイクに跨った貴良に促されて、ようやくハッと我に返る。
「ち、ちょっと待って。いきなりなんなんだよ!」
「うるせえ。……お前もわかってんだろ」
その言葉に息を飲む。
貴良の強い視線に見透かされて、悠心はぐっと唇を噛んだ。
「で、でも……」
「俺は欲しいもんは必ず手に入れる」
だから、来い。
そう言われて、悠心はふらふらとバイクに近づいた。
「ど、どこ行くの」
バイクに跨ると、「掴まれ」と腕を貴良の腹に回される。密着すると、ますます貴良のフェロモンの香りを強く感じて息が乱れる。
「俺んち」
「は、はあ……?!」
驚いていると、あっという間にバイクにエンジンがかかる。
バイクが重低音を響かせて走り出す。悠心は慌てて貴良の腰に回した腕に力を込めた。
——め、めちゃくちゃだ……!
ほおを撫でる風に火照りを意識させられながら、内心で悲鳴を上げた。
そして、うるさいくらい早鐘を打つ胸の鼓動の片隅で——どこか拭えない違和感を覚える。
強引で力強い目の前の男に、抗いがたい魅力を感じながらも……何か違うと思ってしまう自分がいる。
その正体を探ろうとしたとき、目の前の黒い背中がゆっくりとぼやけ始めた。
「んん……」
悠心はうっすらと目を開けた。ぼうっと白い天井を見上げる。
「——悠心?」
その時、低く硬質な声が聞こえてきた。
「……貴良?」
見ると、貴良が悠心を覗き込んでいた。切れ長の目は悠心をじっと見下ろしている。
その目に一瞬、夢が重なってどきりとする。
「起きたか?」
そう言ってかすかに目尻を和らげる貴良。理知的で穏やかな眼差しに、悠心はほっと体から力を抜いた。
「うなされていた。悪い夢でも見ていたのか」
心配そうにする貴良に、悠心は思わず抱きついた。
「た、貴良だ……!」
思い切りその体に顔を埋めると、困惑しながらも少し嬉しそうに貴良が言う。
「どうした。俺はずっとここにいるぞ」
端的で、ぶっきらぼうにも聞こえるその声。色気なんてない。
だけど……それがいい。
「ん……あれ、ここって」
しばらく貴良に思いのまま抱きついていた悠心は、ふと周囲を見回した。
「サンクチュアリだ。そろそろヒートが来るから、一緒に来たんだろ?」
「……あ、そっか」
悠心は目を見開いた。真っ白なこの部屋は、悠心が初めて一人でヒートを耐え抜くことになった部屋だ。
「ここ、懐かしいな」
「ああ……そうだな」
貴良との苦い思い出を思い出して、貴良に抱きつく手に少し力が籠る。
「あの時、貴良が抱いてくれなくて……けっこうへこんだ」
「……ああ」
貴良が申し訳なさそうに目を伏せる。
でも、と悠心は貴良のほおを撫でた。
「俺のこと、気遣ってくれてたんだよな。あんときは分からなかったけど……ありがとな」
悠心がそう言って目を細めると、貴良の口元がわずかに緩む。悠心の手をそっと掴んだ。
「今回は……良いんだな?」
悠心の意志を確かめる言葉。
真剣な目に、悠心は胸の奥がじわりと温かくなる。
「うん。……そう言ってくれる貴良だから、いい。てか、したいよ」
貴良にうなじを噛まれて、つがいになってから初めて迎えるヒート。
どうなってしまうのか未知で、少し怖くもあったが——貴良とだから、大丈夫だと思える。
「俺も……正直どうなるのか予想ができない。悠心が嫌だと思うことがあったら、すぐにセーフワードを言ってくれ。センサーが反応して、アルファ用の鎮静ガスが……」
「大丈夫だって」
くすりと笑って、貴良を引き寄せる。愛しい恋人に唇を重ねると、貴良の目に少しだけ熱が宿った。
「……まだ、ヒートじゃないぞ」
その目に、夢の中の貴良を思い出して、一瞬胸の奥が跳ねる。
「……うん。でも、ほら。そろそろだから」
自分から漏れるフェロモンが少しずつ濃くなっていっているのを感じる。
「ヒートが来てから、なんて決まりないじゃん? それに、ヒート前にいちゃいちゃしてた方が、やりやすそうだし」
「やりやすそうって……」
「……いちゃいちゃ、しないの?」
「…………する」
上目遣いで言えば、あっけなく貴良は白旗を上げた。満足して笑えば、口付けられる。
——やっぱり、貴良はこうでなくちゃ。
少しずつ深くなっていく口付けに夢中になりながら、悠心は貴良にそっと体を預けた。
◆
「……ちょっと待って、今なら解けんじゃねえか!?」
ヒートが明けて、シーツの上で貴良といちゃいちゃだらだらしていた悠心は、不意にはっと思いついた。
「……何がだ?」
「問題! なんか問題出して! あ、えっと……数学! 大学受験レベルの!」
「……」
貴良は訝しげな顔をしながらも、すらすらと即座に問題を出してくれる。
悠心はその問題に真剣に耳を傾け——叫んだ。
「わかんねえー! くそっ、今なら解ける気がしたのに! 夢の俺は月条式の難しいやつまでやってたのに!」
「……どうした、悠心」
少し引いている貴良をよそに、悠心はピンク頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
悔しがっていると、貴良が薄く笑った。
「教えてやろうか」
「…………うん」
優しい貴良の顔に、きゅんきゅんとして、途端に悠心は静かになった。
「やっぱ、貴良のこういうとこ、好き……」
「? 俺も、悠心が好きだ」
「た、貴良……!」
がばりと貴良に抱きつくと、ぽんぽんと背中を撫でられる。
「……それにしても、悠心、いつの間に月条式までやってたんだ?」
「…………え?」
その言葉に思わず貴良の顔を見る。
「月条式は信頼できる。俺も昔は持っていた」
「え……? つ、月条式って……マジであんの?」
「? ああ。そうだな……俺はこれをやっていた」
スマホで検索をかけた貴良に画面を見せられて、悠心は思わず口をあんぐりと開けた。
そこには、ついさっき夢の中で手に取った参考書と、まったく同じ表紙が映っていた。
「そういえば……さっき、どんな夢を見ていたんだ?」
貴良の問いに、悠心はまだ衝撃を受けたままぎこちなく言葉を紡ぐ。
「えっと……俺が白蘭で、月条式やってて……で、貴良が黒条で……」
「なんだか……妙な夢だな」
「うん。貴良はオラオラで、すっげえ強引でイケイケで……」
「…………」
「……貴良?」
突然黙り込んだ貴良に、思わず貴良を見ると、不機嫌な顔をしていた。
最近は、貴良の感情もずいぶんわかるようになった。
「……そっちの俺の方が良いか」
拗ねてしまった貴良に、盛大にほおが緩んでいく。もう月条式のことなどどうでも良くなった。
「今、俺の目の前にいる貴良が一番好きだよ」
そう言うと、ようやく貴良の顔から険が取れた。満足そうなその顔に小さく笑って、キスをする。
「……で、でも、たまにはオラオラしてくれてもいいよ」
「……オラオラって、どんなだ」
不機嫌になるかと思ったが、案外貴良の反応は悪くない。
そのことに希望を見出しながら、悠心は貴良の胸板を指先でもじもじとなぞる。
「んー、俺のもんになれよ、的な……?」
「もうつがいになってるだろう」
「そうだけど……ロマンなんだよ。お願い、一回でいいから!」
上目遣いでお願いすると、しばらく貴良は黙った。
それから、そっと顎を取られる。
「……好きだ。俺のもんになれよ」
静かに告げられる低い声と、少しだけ不敵な表情。
悠心は言葉を失って、目の前の端正な顔を見つめた。
「……こんな感じか?」
「……や、やば……!」
悠心は高鳴る鼓動のまま、耳まで真っ赤になった。
少し気恥ずかしそうにしている貴良が可愛くて、こらえきれずに顔中にキスを降らせた。
番外編 『もしも……』end
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