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番外編 もしも…①

「うーん……」  悠心はずらりと並んだ参考書を前に悩んでいた。 「やっぱり、これかなあ」 「結局、月条(つきじょう)式が一番だよな」  悠心が手を伸ばした数学の参考書を見て、友人の那智が頷く。那智の黒髪がかすかに揺れるのを、悠心はじっと見つめた。  (あれ……那智って、黒髪だったっけ)  なぜかそんなことをふと思って、自分の髪の毛をつまんで見た。焦茶色の髪の毛だ。昔はよく生徒指導の先生に染めているのかと疑われていた。だけど、人生で一度も染めたことはない。正真正銘の地毛だ。 (疲れてるのかな)  塾や習い事に加え、最近は生徒会の仕事も増えてきた。もしかしたらもっと休めという体からのサインなのかもしれない。  悠心は軽く頭を振った。   「悠心くん、決まったのか」 「うん」  別のコーナーを覗いていた宏樹が戻ってくる。相変わらず角度が計算し尽くされた七三分けは、一切の無駄がない。黒縁メガネをくいっと押し上げた宏樹は、悠心の持つ参考書に目を細めた。 「月条式……まあ、安牌だろうな」  悠心の持っているものは上級編だ。初級と中級はすでにクリアしている。   「だよね。ちょっと待ってて、買ってくる」 「急ぎたまえ」 「うん」  悠心はみんなを待たせまいと、小走りで会計へと向かった。    ◆ 「これからどうしようか」  本屋を出た悠心は、那智と宏樹を見た。  夏の終わり。街には夕陽が差し込み、三人の白い学生服を柔らかく照らしている。 「まだ五時か……」  那智がちらりと腕時計を見る。今日は三人が習い事も塾もない貴重な日だ。まだ帰るには惜しい。  楽しそうに遊びに繰り出す学生たちを横目に、悠心はごくりと喉を鳴らした。 「か、カラオケとか……いっちゃう?」  意を決して提案すると、意外なように那智が目を見開いた。   「カラオケ……やぶさかではないな」  宏樹がわずかに口角を上げながらメガネを押し上げる。 「昔行ったきりだから、ほとんど初めてみたいなものだけど……」 「悠心、行きたいんだろ? 行こうぜ」  爽やかに笑う那智に後押しをされて、悠心は控えめに笑った。少しの緊張と高揚感を覚えながら、スマホでマップを調べる。  悠心たちはカラオケ店に向かって、勇んで歩き出した。 「そういえば、那智くん。君はやはり次の選挙では会長になるのか」 「いやあ、会長はちょっと。あんまり目立ちたくないし。……まあ、悠心が会長やるなら、副会長やるけど」 「俺、生徒会長とか無理だよ。今のまま、庶務でいい」  悠心はスマホから顔を上げ、思わず抗議した。  宏樹が残念そうに眉を寄せる。   「むう……那智くんが生徒会長になったら、風紀委員の予算を上げてもらおうと思っていたのだが」 「ああ、確かに。会長なら予算とかある程度操作できそうだもんね。……へへ、じゃ、じゃあ立候補しようかな。那智が副会長なら安心できるし」 「俺が支えるから安心してよ」 「うん。……あれ?」    雑談に夢中になっているうちに、いつの間にか知らない道に入り込んでいた。 「あ、ちょっと通り過ぎたかも」  スマホを見ると、カラオケ店はとっくに通り過ぎてしまっている。見知らぬ路地に入っていたようだ。 「戻ろうか」  那智がそう言って踵を返した時。 「——あれぇ〜? 白蘭のやつらじゃん」  いかにも治安の悪そうな声が聞こえてきた。 「本当だ。白のボンボンたちがいるぜ」 「なんでこんなとこいんのか知らねえけど、ラッキー」  見てみると、三人の黒い学生服を着た男たちが悠心たちを面白そうに見ていた。  派手な髪の毛に、ピアスやアクセサリーだらけの姿。 「……黒条か」  宏樹がぼそりと呟く。不良高校として有名な黒条高校は、悠心たちが通う白蘭高校とは昔から犬猿の仲だ。 「ちょうど小遣い足りなくなってきたとこだったんだよなあ」  黒条の生徒たちが悪辣に笑う。悠心は思わず一歩後ずさった。 「君たち、やめたまえ。問題になるぞ」  宏樹が前に出ると、一瞬黒条生たちがぽかんとした。 「ぶっ……ギャハハハ!」  そして、一斉にゲラゲラと笑いだす。 「やっ、やめたまえ、だってよぉ!」  腹を抱えて笑う黒条生に、ムッとして思わず前に出かけた悠心だが、「相手にしない方がいい。戻ろう」と那智に肩を掴まれる。 「で、でも……」  宏樹が笑われて黙っていられない。  それに……なんだか、バカにされたままではむずむずして落ち着かない。  悠心は腹の底からふつふつと湧き上がるものに戸惑いながらも、目の前の男たちを睨みつけた。    不服そうな顔に目ざとく気づいた黒条生が、笑いを引っ込めて睨みつけてくる。 「なんだその顔。坊ちゃんのくせに生意気だな」 「……てか、コイツオメガじゃね?」 「ほんとだ」  ふと、悠心の首に嵌る白い首輪に気がつくと、にやにやし始める。那智が悠心を庇うように前に出る。 「……あ?」  悠心は思わずドスの効いた声を出して睨みつけた。 「ゆ、悠心?」 「え、あ」    那智の困惑したような声に、ハッとして瞬きをする。知らない間に、ものすごく眉間に力が入っていたらしい。 「……那智くん、悠心くん。冷静にな。私が気を引いている間に逃げろ」  宏樹が黒条生から目を離さないまま、ぼそぼそと告げる。悠心は首を振った。 「だ、ダメだよ。宏樹も一緒に……」 「つかよお、なんなんだよそのギャグみてえな髪はよぉ」  黒条の生徒が宏樹の七三分けを指さして笑った。   「…………なんだと?」  途端にぴくりと宏樹の眉が持ち上がる。 「その七三の髪だよ! 昭和かっての! ダッセェ〜!!」 「ギャハハハ」  その瞬間、宏樹がものすごい形相になる。 「……言いてえことはそれだけか?」  ぐっと低くなった声で、メガネを外す。 「ひ、宏樹?」  悠心はいつもとまるきり雰囲気の違う宏樹に戸惑う。まるで生粋のヤンキーのような雰囲気だ。    宏樹が黒条生にずいっと詰め寄る。大柄な体がより際立った。 「へ?」  黒条生たちは思ったよりも宏樹の体格が良いことに驚いて固まっている。 「……七三はなぁ」  小さく呟いた宏樹が、真ん中の男の襟元を掴んだ。 「俺の魂なんだよぉ!」  吠えて、片手で思いきり持ち上げる。男の足が地面から離れて悲鳴が上がった。 「な、何しやがんだこのやろう!」  両脇にいた黒条生たちが慌てて宏樹に掴み掛かる。けれど、宏樹はびくともしない。  喧嘩だ。  その瞬間、悠心の中で何かがカチリと嵌った気がした。   「——いいぞ、宏樹ぃ!」  気がつけば、悠心も地面を蹴っていた。さっきまでの恐怖は、どこかに吹き飛んでいた。心臓がどくどくと脈打つ。  怖いはずなのに、なぜかわくわくして仕方がない。  (なんか……こっちの方が楽しい!)  公式を解く時と同じような——いや、それ以上の興奮が体の隅々まで満ちる。 「二人とも、何してるんだよ」  那智が驚いたような声を上げる。 「なあ、やめろよ。二人とも何して……なあ……」    そして、にわかに下を向いて、静かに溜息を吐く。 「……二人だけでずりいぞ」    かすかに笑うと、那智は腕まくりをして悠心の隣に立った。  ——そうこなくちゃ。  悠心は無敵になった気持ちで、黒条生たちの拳をかわしていった。 「な、なんだコイツら! 白蘭のボンボンじゃねえのかよ!」 「なんでこんな喧嘩慣れして——」 「よそ見してんなコラァ!」  悠心が思い切り地面を蹴って飛び蹴りをすると、黒条の生徒が倒れる。   「ぐへぇ!」 「……く、くそっ! オラァ!」 「おせぇ」  大きく振りかぶった拳を軽くいなし、足を払う那智。勢い余った黒条生がつんのめって壁に激突した。  宏樹は殴られたら倍の力で殴り倒し、那智は冷静に戦況を見つつ最小限の動きで相手を制圧していく。悠心は軽い身のこなしで相手を翻弄し、得意の蹴り技を繰り出す。 「——な、なんなんだよ、こいつら……」  気がつけば、勝負はあっという間についていた。  「うう……」とうめきながら地面に倒れ伏す黒条生たちに、那智が鼻を鳴らす。   「意外とあっけねえな」 「黒条で俺たちに喧嘩売るバカがまだいんのかよ」  宏樹がポケットに手を入れ、眉をひそめた。 「あれ、コームがねえな……ん? コーム? あれ、私は何を……?」  一息ついたその時。 「なんだなんだぁ?」  ぞろぞろと路地にガラの悪い連中が集まってきた。 「コイツら、のびてんじゃねえか」  地面に倒れ伏す仲間を見た男たちが眉をひそめ、次に悠心たちを見る。 「……まさか、こいつらに?」  白蘭高校の制服を着た悠心たちを見て目を丸くする。宏樹が七三分けの前髪を撫でつけた。  一気に剣呑な雰囲気に変わる男たちに、悠心はぐっと拳を握った。 「——ちょっと、何やってんの」  その時、神経質そうな美声が響いた。途端に、男たちが道を開ける。  ガラの悪い男たちの間から姿を現したのは、線の細い美少年だった。  黒い学生服をきっちりと着込み、襟元まで隙なく覆われている。 「り、凛さん!」  凛と呼ばれた少年は不機嫌そうに悠心たちを見た。 「買い出し頼んだはずだけど……何これ」  ゴミでも見るかのような目つきで倒れている黒条生たちをちらりと見下ろす。 「……やったの、お前たち?」 「……先に絡んできたのは、こいつらだ」  悠心が答えると、凛が目を細めた。   「そんなこと聞いてない。お前たちなんだね」  そう言って、倒れている一人を覗き込む。 「あーあ。白蘭なんかに負けて。情けない。……買い出しサボってるのも気に入らないから、粛清ね」  にこりと凛が笑うと、倒れている三人が震え始める。   「そ、そんなぁ……っ」 「回収して」  冷淡なその一言に、男たちが倒れている仲間を担ぎ上げる。 「お、おい……仲間じゃないのかよ」  思わず悠心が口を開くと、笑顔のまま凛が悠心を見た。そして、首元に嵌ってある首輪を見て無表情になる。 「……首輪を隠しもしない温室育ちのオメガ。一人はアルファで……少しは腕が立つみたいだね。もう一人は、力任せのでかいベータ。まあ、ここに転がってる奴らじゃ無理か。……はあ、メンツ丸潰れ」  悠心たち三人を順に見渡した凛は、やれやれ、と首を振った。  暗い目でじっと悠心を見つめる。 「潰れたメンツは、取り戻さなきゃね」  その一言で、黒条生たちが一気に戦闘態勢に入った。悠心たちも身構える。 「——おい」  その時、低く硬質な声が殺伐とした空気を切り裂いた。  黒条生たちの動きがぴたりと止まり、しんと静まり返る。  凛がぴくりと反応した。  悠心は声の主を呆然と見上げた。

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