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 一七時から来る予定だったヘルプが風邪を引いてしまったらしい。そういえば、土曜日は秦野も出勤だったはず。  それなら、一緒に働けるってことか!  終話したスマホを持ったまま飛び上がるように体を起こすと、煎餅みたいな硬い布団の下で床がギシギシと鳴った。 「朝っぱらからなにぃ〜? うるさいんだけどぉ……」  襖の向こうで、耳にまとわりつくような甘ったるい声がした。 「ああ、ごめん」  襖の向こうでは、まだ、ぶつぶつとなにか言っていたが、聞こえないように頭まですっぽりと布団を被った。すると、しだいに二度目の眠気が遠くからやってくる。一五時ごろにアラームをセットしないと、と思いながら、意識は布団に吸い込まれていった。  次に目を覚ますと、スマホの時計は一六時を示していた。襖の向こうには、もう人の気配はなかった。つんとくる煙草の匂いだけが、襖一枚隔てたこちらの部屋にまで残っている。  この匂いは苦手だ。スウェットの袖で口許を覆い、キッチンの奥にある洗面所へ向かった。  家から店までは一時間近くかかる。急いで支度を済ませると、家を飛び出し、そのまま最寄り駅まで駆けた。  到着するなり着替えを済ませ、ネイビーのサロンを引っかけて店頭に出た。  「おはようございます」と、つぶやくように挨拶をしながら、パントリーとフロアをつなぐ細いドアを押し開ける。バックルームの鍵をオーダープリンターの横へ置いた、その瞬間。ドリンクカウンターのほうから声をかけられた。 「休みなのにごめんね!」  ドリンクカウンターにいた店長が、俺のほうへ駆け寄ってくる。 「暇だったので全然」 「そう? 本当にありがとう。……あっでも今日は土曜日だから、秦野くんがいるんだけど」  店長はレジに立つ秦野をちらりと見る。ポポールのカウンター内は、裏のパントリーからドリンク、レジへと横一列で、ざっと一五メートルほど伸びている。俺も店長の肩越しに、レジにいる秦野の姿を捉えた。 「大丈夫そう?」 「秦野がどうかしました?」 「あれ? 秦野くんが前に」店長は顎に手を当てながら考え込んでいる。「――ああいや。君たちが大丈夫ならいいんだ」 「どうしたんですか?」  勝手にひとりで納得した店長の顔を覗き込もうとしたら、 「いらっしゃいませー」  という声が、レジから聞こえてきた。はっとして、俺と店長はそろって自動ドアを見る。仕事帰りのような男女二人組が入ってきて、カウンターの奥にあるメニューボードを見上げていた。 「じゃあ黒川君はドリンクカウンターをお願い。僕はこっちで明日の仕込みをするから」  行って行ってと、店長が俺の背中を押す。店長の言葉に釈然としないまま、ドリンクカウンターへ向かった。レジで注文をしている客二人に向かって「いらっしゃいませ」と声をかけ、ドリンクカウンター内のポジションを確認した。  店長が使っていた、ピッチャー、ココアパウダー、各種シロップの位置を、俺が使いやすいように並べ替える。 「ツー・ショートアイスラテ、お願いします」  秦野がちらりとこちらを見て、オーダーを通した。 「ツー・ショートアイスラテ、かしこまりました」  復唱しながら、ポルタフィルターをエスプレッソグラインダーにセットして豆を挽く。挽いた粉をタンピングし、エスプレッソマシンにセットした。  細かく挽いた粉の層を、圧のかかった湯が押し通る。エスプレッソが抽出されるまで、およそ二〇から三〇秒。それまでにグラスに氷を入れ、ミルクを注いでおく。ナッツ色のきめ細かなクレマが浮いたエスプレッソを、グラスへ注ぐ。白いミルクに琥珀色が溶けて、やわらかなグラデーションができた。 「お待たせいたしました」  大理石調のカウンターへグラスを置くと、二人から軽くお礼を言われた。  ダスターでコールドテーブルを拭いて、レジを見る。秦野と目が合うなり、じとりとした視線が刺さった。後ろめたいことなんてないはずなのに、責められたような気分が肌にまとわりついた。 「お、おはようございます?」  右手を小さくあげ、小首を傾げてみたら、 「おはうございます」  と、唇をとがらせるようにしながら返された。 「なに? なんか不満?」 「いや」 「ヘルプのヘルプだよ俺。今日入るはずだった人、風邪で休みなんでしょ?」 「そうみたい」  秦野はそう言うと、しゃがんでレジロールのストックに手を伸ばした。  なにを考えているのか、さっぱりわからない。屋上で話したときは笑っていたし、手紙だって続いている。教室で無愛想なのはまだいいとして。ここでも、そっけなくされる理由が俺にはわからなかった。 「……初めて見た。黒川のサロン姿」  レジロールを交換しながら、ぽつりと秦野が言った。 「へ? ああ、一緒に働くの初めてだし」 「うん」 「俺は前に見たけどな、秦野の」  ただ、あらためてよく見ると、秦野は思っていたよりずっと線が細かった。学校の制服では気づかなかったが、骨格はちゃんと男なのに、横から見れば頼りないほど薄い。腰に巻いたネイビーのサロンが、その細さを余計に目立たせる。 「なに?」  声をかけられて、ぼんやりした焦点が秦野の瞳と繋がった。 「あ、いや」視線をフロアへ逃がす。客の頭を撫でるようにざっと見ながら言葉を探した。「そういえば、さっき店長が変なこと言ってたんだけど、秦野なんか知ってる?」 「変、って?」 「秦野がいるけど大丈夫? って言われた」  ペーパーナプキンを補充する秦野の手がぴたりと止まる。 「いや……知らない」  ナプキンをきつく掴んだまま、視線は手元へと落ちていく。 「ふうん?」  俺はコールドテーブルに手をついて身を乗り出し、俯いた秦野の顔を覗き込む。けれど、その動きに気づいた秦野は、ふいと顔を背けた。表情までは見えなかった。 「し、仕事に集中して!」  追い払うように左手を振られ、俺はあおられるまま一歩引いた。  有線から流れる静かなジャズが耳の奥をくすぐる。道路に面した大きなガラス窓の向こうでは、街全体が青みがかった薄闇に包まれていく。店内でも、暖色の照明がじわりと存在感を増し、夜の気配が近づいてきた。 「ごちそうさまでした」  下げ台に届いた声で、はっと我に返る。 「あ、ありがとうございました!」 「ありがとうございました」  俺のあとに秦野も続いた。  すぐに三人組の男性客が入ってきた。賑やかな声に、有線のジャズはたちまちかき消される。 「いらっしゃいませ。店内でお過ごしですか?」  秦野のその一言を皮切りに、土曜夜のピークタイムが始まった。 「ツー・ショートカプチーノ、お願いします」 「ツー・ショートカプチーノ、かしこまりました」 「ショートホットラテ、ショートアイスココア、トールアイスラテ、お願いします」 「かしこまりました〜」 「ホットサンド、あたためお願いします」 「あたため、かしこまりましたァ」 「スリーアイスラテ、お願いします」 「サイズは?」 「あ、えと……ショート。三つとも」 「オッケー」 「お……お願いします」 「ショット追加、ショートアイスラテ、お願いします」 「へいへーい」 「おい黒川!」 「ごめんごめん。はい、かしこまりました!」 「俺、グラス洗浄入るから、しばらくレジとドリンク両方やっといてー」 「うん、わかった」 「並んだら呼んで」  食洗機を回し終え、ドリンクカウンターへ目をやる。秦野はエスプレッソマシンのスチームノズルにミルク用のダスターを当て、短く空吹かしをしていた。オーダー票には「S・ラテ」。ショートサイズのホットラテだ。  一杯分のミルクを注いだステンレスピッチャーに、スチームノズルが差し込まれる。コォー、と蒸気の音が鳴った次の瞬間、チチチ、という小気味いい音が弾ける。ミルクの表面にノズルの先を当て、空気を含ませている音だ。  しばらくして、秦野はノズルをもう少し深く沈めた。今度はミルクの中で渦を作るように、フォームを撹拌していく。右手でピッチャーを包み込むように持ち、そのまま手のひらで温度を測っている。ミルクフォームは、五五度から六〇度くらいがちょうどいい。音と、手のひらに伝わる熱。それだけを頼りに、秦野は淡々とミルクフォームを仕上げていく。  適温になったところでスチームを止め、ピッチャーを外す。ノズルについたミルクをダスターで拭い、もう一度、空吹かし。ピッチャーの底を軽くカウンターに打ちつけ、くるりと回す。そうして大きな泡を潰し、きめの細かいフォームに整えていく。  ここまでの動きに、無駄はひとつもなかった。  左手でエスプレッソショットの入ったマグカップを支え、右手にピッチャーを持つ。俺は息をひそめ、気づかれないよう背後からそっと覗き込んだ。どんなラテアートを描くのだろう。胸の奥が、わずかに浮き立つ。  傾けたマグカップへ、高い位置から細くミルクを落とす。琥珀色のエスプレッソに白が溶け、表面にマーブル模様が広がった。そこで秦野は、すっとピッチャーを近づける。白い丸が、ふわりと浮かぶ。最後に細く線を切るように奥へ流す。 「おお……」と、思わず声が洩れた。  秦野の肩がぴくりと跳ねる。マグカップのなかには、小ぶりのハートの模様ができあがった。 「お待たせいたしました」  ドリンクが出るのを待っていた女性は、スマホから顔を上げてマグカップを手にした。なかを覗き込むとわあっと小さく声をあげ、口許をほころばせたまま客席へ向かっていった。 「なんで見てるの」 「だめ?」  振り返りながら上目を向けた秦野は、わざとらしくため息を吐いた。 「うまいじゃん、ハート描くの」 「ハートなんて誰でも出来るでしょ」 「まぁ確かに」  ハートはラテアートの基本だ。そうだけど。せっかく褒めたのに、かすりもしなかった言葉は、行き場をなくして宙に浮く。 「ところで終わったの?」  秦野は、ドリンクカウンターとパントリーの間にある食洗機に向かって顎をしゃくる。 「おかげさまで終わりました!」 「そ。じゃ、僕はレジに戻るから」  秦野は首を鳴らしながら、レジカウンターへ戻っていった。ふと、無造作に置かれたピッチャーが目に入った。底にわずかに残ったミルクの白が、なんだか愛らしく見えた。   「今日激混みじゃなかった? めっちゃ疲れたんですけどぉ」  街灯が照らす長い影を追うように、タイル張りの商店街を秦野と二人並んで歩く。少し湿った香りが鼻腔にぺたりと張り付く。肌寒さはあるけれど、その奥にはわずかな温もりもあった。四月にも関わらず、いたるところで夏が見え隠れしている。  居酒屋の窓からにじむ橙色の明かりが頬をかすめ、洩れ聞こえる笑い声を背に、ふくらはぎに残る鈍い疲労をやりすごした。 「いつもの土曜日よりお客さんが多かったかも」 「そうなの?」 「うん」  あれから、とにかく動きっぱなしだった。ドリンクを作って、フードを運んで。洗浄が追いつかないまま、次の注文を捌く。その繰り返しだった。 「疲れたね」  信号機が赤に変わり、どちらからともなく歩みを止める。秦野は指を組んだ手のひらを夜空に向け、「ん〜」と喉の奥で声を転がしながら大きく伸びをした。そんな無防備な姿は初めて見た。よほど疲れているのだろう。 「店長に『また土曜日出て欲しい』って、言われたんだよね」  また出ちゃおっかな〜、と秦野に向かって言うと、ゆるみきった顔に緊張が走り、ぱっと手をほどいて俯いた。 「……さっきの話なんだけど」 「さっき?」 「仕事中に聞いてきたでしょ? 店長のこと」 「あー、うん」  喉の奥で相槌をうつと、秦野とのあいだに生まれたわずかな緊張から逃げるように、そっと目を閉じた。 「面接のとき、黒川と同じシフトにしないでって店長に言ったんだ」 「は? え?」  驚いて目を開けると、前を横切っていく車のテールランプだけが、やけにくっきり見えた。突拍子もない言葉が、耳を通り過ぎたまま、頭のなかでうまく繋がらない。 「待って。つうか、秦野って……いつからウチで働いてんの?」 「去年の十月」  ああ、そういえば。その頃、遅番が一人辞めて店長が焦っていたのに、すぐ新しい子が入ったと言っていた。俺のシフトが月水金に固定されたのも、その頃だ。  店長が言いかけていたのは、このことだったのか。そこまでして、俺を避けたかったのか。最初から。秦野は俯いたまま、それ以上なにも言わない。少しは仲良くなれたと思ったのに、とんだ俺の思い過ごしだったなんて。 「でもね」ちらりと上目に向けられた瞳が、どこか後ろめたそうに揺れる。「いまは違うよ」 「え?」 「一緒に働いてみて、楽しかったから……」  言葉の終わりが夜気に溶け、うまく聞き取れなかった。秦野は下唇を噛み、逃げるように横断歩道の向こうへ目をやった。 「青に変わった」  俺を置いて、秦野が先に歩き出す。その背中に向かって、声を投げる。「もしかして、俺のこと、見直した?」 「見直したっていうか……思ってたより嫌じゃない、かも」 「なんだよそれ。褒めてんのか、けなしてんのかどっちだよ」 「……褒めてる」 「へえ」 「うるさいなぁ。そういうとこ、ほんと嫌」  秦野は空気を切るような鋭い視線をよこした。照れくさそうな気配を押しのけて、いつもの調子に戻っている。 「じゃあ、僕はここで」  ちょうど、横断歩道を渡りきったところだった。 「秦野って電車じゃないの?」 「うん。僕の家すぐそこだから」そう言って、斜め左を指さす。 「え、すぐそこって」 「じゃあ、また学校で」 「あ、ちょ!」  秦野は俺の声なんか聞こえないみたいに、あっという間に商店街の裏路地へ消えていった。  この辺りの地価は高いはずだ。そんな場所に住んでいるということは、秦野って……もしかして、お金持ちのとこのお坊ちゃんか?  暗がりの奥を見つめたまま、そんなことを考える。  でも。昼はいつもコンビニで買ったおにぎりだし、残ったおにぎりは梅だから夜に食べる、なんて意味の分からないことも言っていた。  目立つのが嫌で、ラテにハートを描けて、進路は白紙で、特待生で、昼食はコンビニのおにぎりで、南文京地区に住んでいる。  指を折りながら、俺が知った秦野をひとつひとつ並べていく。  「見直したっていうか……思ってたより嫌じゃない、かも」  最初は、目立つから俺のことが嫌だ、なんて言っていたくせに。  得体の知れないむず痒さが、皮膚の下を駆け巡る。そこに爪を立ててかきむしる。 「やっぱ俺、秦野のこと全然知らないわー」  吐き捨てるように言って、俺は駅へ向かった。

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