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プロローグ

 煌びやかなライトが、肌を突き刺す。  光を見つめると、黒い残像が瞳の中央にぼわりと浮かんだ。  光はいい。目を閉じれば見えなくなるから。  本当に恐ろしいのは、光などではない。客席の闇の底で蠢いている、数百の感情だ。    この瞬間のために、舞台の上に立つ演者も裏方も全員が長い時間を費やした。  いくら高校生の作品とは言え、それぞれがかける思いは並大抵ではなかった。  その重圧が今。主演である朔(さく)の肩の上にのしかかっている。    数多の瞳が突き刺さる。  肌にまとわりつくような湿った熱。手が痺れるような電流。鼓膜をつんざく不協和音。目には見えない凶器として、こちらへ襲いかかってくる。      この瞬間も、誰もが次の言葉を待っている。  このままでは壊れてしまう。  舞台も、朔も、ここまで頑張ってきた他のみんなの想いも。  そんな気持ちとは裏腹に、もう限界だと、脳が警鐘を鳴らした。  どうにか倒れないよう、必死に歯を食い縛る。  奥歯が噛み砕けてしまいそうなほど強く。  でも、それが精一杯で口を開けそうにない。  台詞が言えない。  チカチカと点滅する視界。瞼を閉じれば、すぐにノイズの海に溺れてしまいそうな予感がした。  嫌だ、まだ終わりたくない。終われない。ここで倒れたら、全てが水の泡だ。  唇を強く噛む。鈍い鉄の味がする。  何も言うことができないまま、意識を手放そうとしていた。    その時だった。  体育館の熱気に、するりと「何か」は入り込んできた。  冷たく、針のように鋭い気配。  客席の闇の中、どこにいるのかはわからない。  けれど、その「何か」と目が合う感覚があった。  その瞬間、朔を満たしていた騒がしい世界から、全ての音が消えた。  全てのノイズが、死滅した。  首を絞めていたいくつもの感情が、あっという間に霧散した。  正確にはそこにはまだあるのだから消えてはいないはずだが、突如現れた「何か」が全てをかき消したのだ。  そこに在るのは絶対的な静寂だけ。  ノイズの海に、巨大で強力な錨のようなものが打ち込まれた。  呼吸ができる。手足の感覚が戻ってきた。泥のように濁っていた思考も、澄み渡る。  ――これは、何だ?  そこに、何が、誰がいる?  見えない。逆光で、何も。  けれど、その静寂の主が、暗闇から朔の瞳を射抜いていることだけが確かだった。  恐ろしいほどの静寂をもたらしたその瞳が、言っている気がした。 「演れ。」と。 喉が、意志を持って震えた。 「僕が」  会場の温度が下がり、ぐっと観客の輪郭が濃く見える。 「僕だけが、神に選ばれたんだ」 拳を天に突き上げる。 目から涙が溢れた。それは役としての涙でもあり、朔の魂が震えている証でもあった。  翼が生えたように全身が軽い。 この静寂があれば、どこまででも飛んでいける。そんな気がしたのだ。   ****** 「ありがとうございました!」 大歓声に包まれる。 何とかやり切った。 あの後も、静かな錨のような瞳がずっと客席にいてくれたおかげだ。 舞台の幕が下りるのを視界の端で見届けたその瞬間。 舞台袖ではなく客席へ駆けだした。 「おい、七川(ななかわ)!?」  呼び止める友人の制止を振り切って、全速力で走り抜ける。  行かないで。まだ行かないで。  ノイズを消してくれる人がいるなんて、考えたこともなかった。  静謐な静けさが遠ざかっていく。耳障りなノイズがすぐ背後に迫っている。  嫌だ、戻りたくない。  あの人の、そばにいたい。そうでないと、息ができないのだ。    道をかき分けて走る。舞台衣装のまま、血糊や泥でぐちゃぐちゃの顔で。  ただ、気配のする方へ。 全力疾走で体育館を出て、たどり着いたのは校門だった。 夕暮れが辺りを照らす。 その時、朔のものと同じではない高校の制服を着た男の後ろ姿が見えた。 根拠はわからない、ただあの人だと、直感がそう告げていた。 あと数メートルの距離。 伸ばした手は虚しく空を切った。 男が車に乗り込み、重厚なドアを閉ざしてしまったからだ。 その風圧が、ふわりと朔の頬を撫でた。 鼻腔をくすぐる甘い香り。 ミモザ。春を告げる、優しく上品な花の香り。 ――ああ、この人だ。 そう確信した瞬間、糸が切れたように全身から力が抜けた。  膝から崩れ落ちる。  すぐ目の前に迫り来るコンクリート。  あ、と思った頃にはもう遅く、固く鈍い音が頭蓋骨に響いた。  最後に見えたのは、遠ざかるテールランプ。  柔らかいミモザの残り香に包まれながら意識を手放した。   ****** ツンとくすぐる消毒液の、清潔なにおい。 固いけれど清潔なベッド。保健室に連れてこられたようだった。 「よかった、目が覚めた?あなた、校門の前で倒れていたらしいの。頭を強く打ったみたい。吐き気はない?」 「……大丈夫です。」 「本当にびっくりしたのよ。あなた、演技後のせいで顔とかもう泥メイクと血糊でめちゃくちゃだったから。それで、なんで校門にいたの?体育館で劇やっていたんでしょ?まあまあ距離あるじゃない。」 あれ――――? なんで校門にいたんだっけ。 目をつむってみても、うまく思い出せない。  舞台に立っていた記憶はある。苦しくて、どうしようもなかった感覚も。  でもそこから先の記憶が、インクをこぼしたみたいに抜け落ちているのだ。  どうやって舞台を終えて、なぜ走って、何のために校門まで来たのか。 「……全然、思い出せないです」 「……ちょっと待って、あなた思ったよりも頭を強く打ったのかも。脳震盪の記憶障害の症状かもしれないわ。名前はわかる――?」  次々繰り出される質問に答えながら、朔は脳内に浮かんだ記憶を必死に手繰り寄せようとしていた。  その時、断片的な記憶が脳を一瞬横切った。  振り向かない背中、走り去っていく黒いポルシェと、上品なミモザの香り。 前後の脈絡なんて何もない。  それが何なのか、何を意味するのかも分からない。  けれど、その二つを思い出した瞬間、朔の心臓が早鐘を打った。  ドクリ、と体が熱くなる。  ……なんだ、これ。  分からない。分からないけれど、これだけは覚えておかなきゃいけない気がする。  朔は、お守りのようにその三つの情報だけを脳裏に刻み込んだ。  背中、ポルシェ、ミモザ。  意味も分からないまま、胸の中に確かな喪失感を抱え、また眠りについた。

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