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第1話

 あの文化祭から四年。  まだ夢を追っている――そう聞けば聞こえはいいかもしれない。  だが、現実はもっと容赦がない。  大学を卒業してもなお演技を諦めきれない朔に、現実逃避というレッテルを貼られていることくらい薄々気づいている。  それでもまだ演技を続けていた。  いや、続けていると言っていいのかわからない。ほとんどまともに演技できていないから。  演技の方はほぼ収入にならないし、当たり前にそれだけでは食っていけない。  「じゃあ漬物分けてくれる?」  トンカツ屋でのアルバイト。もうベテランの域に入り始めてしまった。  今は、ちょうどランチタイムが終わった昼下がりで、お客さんは誰もいない。店内は静かだ。  漬物を分けるための小皿と箸を準備する。 その隣で、一緒にシフトに入っている先輩は濡れた箸を机に置いた。  「ずっと前から、好きだったんだ。」  店長が店の奥でトンカツを揚げる音をかき分けて、このフレーズが耳に飛び込んでくる。  漬物を分けようとしていた手を止めて、思わず顔を上げた。  店に設置してあるやけに色彩の豊かなテレビを眺める。  テレビに大きく映った端正な顔がゆがみ、涙が一筋零れ落ちた。  色素の薄い、柔らかい金に近い茶色。  くっきりとした二重に、すっと通った鼻筋。  そして、薄い唇。  少女漫画から飛び出してきたような美形、それも彫刻を実写にしたような立体感。  おそらく今最も人気な俳優、及川保志だった。  「はぁ〜綺麗……」  隣で箸を拭いていた先輩がうっとりとため息をつく。  「この顔嫌いな女子いないでしょ、かっこよすぎる」  先輩の熱っぽい、吐息。  次の瞬間、視界の端がピンク色ににじんだ。  飴細工を溶かしたような、甘ったるい「好意」。  物理的な質量を持って、脳内に侵入してくる。 「うっ……」  思わずこめかみを抑えた。  頭蓋骨の隙間を縫って入り込んだ他人の感情が、無遠慮に脳に絡みつく感覚。  奥歯を強く噛みしめる。感情が流れ込んでくるのは、演技の時だけじゃない。  これは、「空気が読める」だとか「過敏」だとかそういった次元のものじゃない。  他人の感情が「視覚」や「触覚」となって強制的に流れ込んでくる、呪いのような力だった。  先輩にばれないよう、小さくため息をつく。  こうして、誰のものか分からない感情が、少しずつたまっていく。  雨漏りのように少しずつ、でも確かに。 「……あれ、七川くんも好きなの?及川保志。」  先輩は夜に使う漬物を小皿に分ける手を止め、及川保志を見つめていた朔に気づいたのか、そう問いかけた。 「いや、好きじゃないですよ」  慌てて否定すると、先輩は不思議そうに眉を上げる。 「ふーん、見てたから好きなのかと思った。かっこいいし、演技上手いよね」  もう一度テレビに視線を戻す。  確かに、演技が抜群に上手いことは見ていれば痛いほどわかる。  二十歳というまだ抜群に若い彼が、たった三、四年でこれほど売れている理由が顔だけじゃないことは明らかだ。  朔だって、及川保志と同じ俳優を目指す一人なのだから。   「及川くんを見つけたのは、彼の高校の文化祭でしたね」  さっきのワンシーンは特番の一部だったようだ。  無心で漬物を盛り付けながら、流れてくる音声に耳を傾ける。  及川保志本人ではなく、彼を最初に見出した人にインタビューをしているらしい。 「及川くんは、劇の主演を務めていました。高校生とは思えない仕上がりで驚いたのをよく覚えています。」  その劇は、たまたま誰かが撮影していて、それを動画サイトにアップ。  瞬く間に広がり、及川保志伝説の初公演として、人々の記憶に鮮明なデビューを刻み込んだ。 「演技、ビジュアル、性格、すべてが完璧でした。」  どれも持っていない自分に、嫌気がさす。  チャンネルを変えてしまいたいような衝動に駆られたが、先輩はうっとりとテレビを眺めている。  尊敬や親愛の感情がまた胸の中へ入り込んできた。もううんざりだ。 「……実は彼、本来裏方をやる予定だったそうです。でも、主役だった子がインフルエンザに罹患してしまったみたいで。及川くんが急遽セリフを覚えて、数日で仕上げ、代役を務めきったのがあの劇なんですよ」  漬物を皿に入れたつもりが、手元が狂ってこぼれてしまった。  ……スターは売れ方までスターだ。 「彼は、出会ったときから芸能人みたいでした。」 「へえ。見つかるべくして見つかったんだねえ。」  隣でそうつぶやく先輩は、もうとっくに箸なんか拭き終わって、頬杖をつきながらテレビを眺めていた。  本当に一生手を伸ばしても届かないくらい、夜空に浮かぶ星のようにまぶしく、そして遠い存在だった。 「役者」の頂点に輝く一等星。  漬物を盛り付けていた菜箸を置く。鼻にツンとくる酸っぱい刺激。 「……遠いなぁ」  尊敬、敬愛、そして場違いな嫉妬心とともに、画面の中の及川保志を見つめた。 ****** 「朔くん、これ四卓に。」 「兄ちゃん、注文いい?」 「ねぇ、まだ?結構頼んでから時間経ってるんだけど。」  客の苛立ち、店長の焦り、同僚の疲れ。 周囲の感情がノイズとして絶え間なく流れ込んでくる。 それに加えて、キッチンからの喧噪や、客同士の会話、製氷機が氷を作る音、テレビの話し声。 音と感情でごった返した脳内に、気が狂いそうだった。 ノイズを防ごうとしても、わずかな隙間から心の中に侵入してくる。 そのたびに、ヘドロがたまるように心が重たくなる感覚。 息が苦しい。早く吐き出さないと、中身ごと腐ってしまいそうだ。 生きることに、向いていないこの能力。荒治療のために始めた飲食店でのアルバイト。意地で続けているけれど、体は限界が近いようだった。 唯一このノイズを押し出せるのは、演技だけ。演技だけだったのに。 ****** 「ただいま――」 誰もいない暗い部屋に向かって声をかけた。 もちろん、おかえりは帰ってこない。 「疲れたー……」 限界で、そのままベッドに倒れこんだ。何か食べる気にもならなかった。 なんとなくスマホを取り出して、いつも通りSNSを眺めた。この世の終わりみたいなタイムライン。みんな誰かの愚痴ばかり。 ……その文面を見ていると、負の感情が流れ込んできそうになって、あわててアプリを閉じた。 日常をシェアする画像投稿アプリに変える。 お気に入りのかわいい犬を投稿しているアカウントをひたすら眺めていると、ふと広告が目に入った。 「新人発掘オーディション?」 リンクをタップすると自動で画面が切り替わる。   大きく『Phare』の文字。 大人気監督とヒットメイカーの脚本家がタッグを組む、話題のボーイズラブ映画だ。   指先で画面をスクロールし、募集要項の文字を目で追う。 「舞台は、国際的なバイオリンのコンクール。天才たちの恋物語。」  募集役:水野天音(みずの あまね)  国際コンクールに現れた異端児。十歳で母親に捨てられ一人になり、森で暮らすようになる。孤独な心を癒すために、バイオリンを森でも弾き続けていた。正規の教育を受けていないことに強いコンプレックスを抱いている。  思わず、指を止めた。  文字の列が、目に焼き付く。  心を守るためのバイオリン。生きていくための手段。「本物」に対するコンプレックス。  これは、朔だ。ふと喉の奥が熱くなる。  もう、限界だった。  日常でため込んだノイズ。もう頭のてっぺんまで浸水している。  このまま腐って死ぬのか。演技もできず、誰にも認められず、過敏な定職にもつかない異常者として。 誰のものとも知らない感情に、体を乗っ取られて終わるのか?  ……嫌だ。どうせ終わるなら、一度でいいから。 「氾濫」という邪魔が入らない場所で、すべてを懸けて演技したい。  一次は動画審査と書いてある、このオーディションなら。 ここなら、氾濫に邪魔されず、すべてを吐き出せるはずだ。 ******  役作りなんて高尚なものはいらない。  作るのではなく、入ってくるから。  台本を開いて、文字列を追う。  脚本に込められた感情が、するすると心に入ってくる。  役の痛みも、苦しみもすべてが。  深夜のワンルーム。自室の白い壁を背景に、スマートフォンを立てかけた。  録画ボタンを押そうと手を伸ばしたところで、手が震えているのに気付いた。  脳裏によみがえる、苦々しい記憶。  劇団の稽古場で、心を全開にして演じようとした瞬間、数百人の感情が逆流してきた。  脳が焼き切れるような痛み、そして気絶。  「演技」がないと生きていけない。でも、「演技」をすると朔の心が死ぬかもしれない。  感情の氾濫がなければ、ノイズだけ排出できるのでは?と試した一人芝居は何の意味もなかった。 誰も見ていない壁に向かって叫んだところで、行き場のないヘドロは排出できない。  とはいえ、この場所では朔一人だ。  たまった感情を排出できないとしても、観客による感情の「氾濫」は起きない。  きっと、すべてが出せるはずだ。 「……ここなら、やれる」 震える指で録画ボタンを押した。   台本を通して感情が朔の心に入り込む。 文字が、感情となって侵食してくる。     レンズというブラックホールへ。すべてのノイズと、天音の想いをのせて。 命ごと、放て。

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