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第5話
「僕は、君のように自由になりたい。」
響也の台詞から場面は始まった。
その場に響いた声は、これまでテレビで聞いたどれとも違った。
ぽつりとつぶやかれた響也の本音。
まるで襟元を引っ張られるような錯覚に陥る。
彼が紡ぐ世界観に、なかば強制的に引きずり込まれる。
ぐ、と寄せられた眉間も、今にも泣きだしそうな弱弱しい雰囲気も。すべてが完璧だ。
その完璧な演技に引っ張られて、天音の中に身を預けた。
「どうして?僕には何もない。自分のバイオリンだって、古いのひとつだけだ」
なぜかわからない。けれど声が、出た。台詞を言うことができた。
そしてすぐに、いつもと何かが違うのがわかった。
ノイズが、ないのだ。
いつも流れ込んでくる観客たちのノイズがない。何も聞こえない、静寂に包まれている。
体の中が、透明で澄んだ美しい空気で満ちていく。
息ができる。まるで翼が生えたように、自由だ。
この世界のどこにでも行けるような、全能感が心地よく全身を包んでいた。
台詞が止まることなく次々出てくる。天音が、生き生きと朔の中で動いている。
目の前にいる及川保志からは、不思議なことに何の感情も流れ込んでこない。これほど近くで演技をしているというのに。
人生で一番、静かだった。まるで、この世界に二人きりみたいな。
この静けさを――知っている。この凪を。鼻孔にとどくミモザの香りを。
「それでもいい。僕は、苦しくて、たまらないんだ。評価されているのは、僕の実力じゃない、親の実力だから」
「……僕は君が羨ましいよ。」
息を吐くようにつぶやく。
「小さいころから、音楽に触れられた君が、羨ましい。」
まっすぐに響也の瞳を見つめる。劣等感、尊敬、嫉妬。天音の感情を声に乗せて紡ぐ。
「……ねぇ、どうしたらあんな音が出せるの。」
瞳から一筋こぼれる涙。響也に掴みかかる。襟をつかみ、ぐっと距離が近づく。
その端正な顔が、驚いたようにこちらを見るのを見届けて、力を抜いた。
「君みたいな、気高くて美しい音は僕には出せない。……実力がないなんて言うなよ。僕は君の音が、綺麗で――嫌いだ。」
響也に頭を預けながら呟く。
君が、あまりにも遠い。
涙があふれ出てくる。天音の不器用な感情。こんなことを言いたかったわけじゃないのに。止まらない、涙が止まらない。
その時、頬が大きな手で包み込まれた。
強制的に前を向かされる形になる。響也と至近距離で視線が絡まる。
これは台本にはなかったはず。アドリブだ。
ひどく冷たい。氷のような掌が、天音の頬を包み、長い指先が涙を拭う。
「僕たち、ないものねだりだね。同じものを見たくて、見ようとしてきたのに。ここまでまったく違う道を歩んできた。」
ささやくような声。近づく顔。
「でも、ここで出会ったのは運命以外の何物でもないだろう?」
瞳の奥を覗き込まれているような。心臓が鼓動を早める。
これは天音の感情?あるいは……。
唇が触れる寸前。
「カット」と声がかかった。
その言葉でようやく我に返る。
本当に、キスするところだった。
演技だったことを忘れていたほど、天音の感情にのめり込んでいた。
長い睫毛がすぐ側にあることに気づいて、慌てて後ずさった。
「あ、ありがとうございました。」
及川保志と、審査員席に慌てて一礼する。
「ご苦労様。みんな退出していいよ。今日はこれで終わり。結果はまた連絡する。」
監督がにっこりと笑い、全員に退出を促した。
でも、誰も出ていかない。みんな席に座って俯いたままだ。
ひとまず、一歩踏み出す。ぐらり、と視界が傾きそうになった。すんでのところでぐっと持ちこたえる。
――まずいかもしれない。残留の症状だ。演技が終わると、徐々に朔の体を蝕む登場人物の感情。
演技ができたという喜びを抱えながら、人気のないところへ急いだ。
秋が深まり、冬に近づき始めた季節の外のベンチは、思った通りやっぱり誰もいなかった。
舞い散る落ち葉をかき分け、ゆっくりと腰を下ろす。
ズキズキと痛み始めた頭を両手で抱えながら、うつむき、小さくため息をついた。
重たいシーンをやると必ずと言っていいほど現れるこの症状は、いつも朔を苦しめる。どうしていいか分からなくて、どうすることも出来ない。ただ時間が過ぎるのをじっと耐え抜くだけ。
ただ一つ確かなことは、演技が終わって一時間後にピークが来ることだけだ。
あと、少し。それが酷く恐ろしい。ただ蹲って、それを待ち受けるしかない。
******
――そろそろ、毒が全身に回ったようだ。
苦しい。苦しい。天音に飲み込まれてしまいそう。
視界は真っ暗、何にも見えない。耳鳴りがする。
このまま、消えてなくなってしまうかもしれない。天音に乗っ取られ、朔という存在が。
全身が震えだすのが分かった。
「――大丈夫ですか。」
両肩に触れる、誰かの体温。
暗闇だった世界から、現実へと引き戻される。
舞い散る落ち葉をバックに、こちらを見据える美しい顔。
まるで絵画みたいだ。綺麗だなあ、と素直に思った。
目の前には及川保志がいた。
見られたくないのに。自分の状態が情けなくて、恥ずかしかった。
「深呼吸。俺の目を見てください。」
穏やかで冷静な心地よい声につられるように、視線を合わせる。何重にもなっていた輪郭が、及川保志の瞳一つへと収束していく。
彼の瞳の奥を見て、彼の温度を肩で感じていると、天音の感情が抜け落ちていくのがわかった。
及川保志は一言も話さなかった。
ただ、朔の顔色を見届け、静かに去っていった。
今、何が起きたのか。
これまで、時間の経過をじっと耐え抜くことでしか対処できなかった感情の残留が、抜けた。
何を試しても駄目だった。それが、一瞬で。
それに、演技の最中もそうだ。
もしかして、ノイズが一切なかったのは、相手が及川保志だったから?
氾濫も、残留も―――― 彼がいれば治まる?
「……あ、お礼。言い損ねた」
……楽しかった。ちゃんと、ちゃんと最後まで演技ができた。
たまりにたまっていたコップは空になった。すがすがしい気持ちでいっぱいだ。
もう、結果がどうなっても後悔はない。今日は、本当に間違いなく全力を尽くすことができた。
及川保志のおかげなのか、そうじゃないのかよくわからないけれど。すべてを出し切った。満足だ。
やけに静かな廊下。今日のことをきっと一生思い出すだろう。無機質な廊下、遠ざかる及川保志の背中を――ミモザの香りとともに。
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