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第4話
あぁ、終わった。終わってしまった。きっと今日が人生最後の演技だった。一言しか、言えなかった。
奥歯を噛み締めても、視界は滲みはじめた。喉の奥が熱い。
この行き場のない感情をどうしていいか分からない。
朔の中には確かに「天音」の感情があった。
天音の中に渦巻く複雑な感情は、確かに感じていた。けれど、口が、手が動かなかった。
また溢れてしまった。
審査員、他の候補生、スタッフ……。いろんな人の感情の洪水から自分を守る、防衛本能。発信のための全てがシャットダウンする。
でも今日はいつもと少し違った。今回は何も口には出せなかったけれど、感情の渦に飲み込まれて思考が乗っ取られることはなかった。
いつもなら自我ごと完全に真っ黒なヘドロに沈んで気絶してしまうのに、今日はなぜか、脳の奥底だけが奇妙にクリアだった。まるで、見えない薄い膜が一枚だけ、俺の自我を守ってくれたような……。
ただ、必死に瞳で訴えたけれど伝わったのかはわからない。
どうやって演技を終えたのか、部屋を出たのか、全ての記憶が曖昧だった。しかし、最悪の幕切れだったことは確かだ。
1度大きく深呼吸をする。
感情でごった返している脳内は、酷く居心地が悪い。
絶望や後悔という朔自身の感情に加え、不安や達成感などその場にいる候補生達の感情が絶え間なく今も流れ込んでいる。
そして、悲しみ。これは、「天音」の感情だ。朔の物じゃない、役自身の感情が残り香の
ように朔にこびり付いている。
あの一瞬の演技でも、わずかに残留した。
感情の残留。
呪われた体質がもたらす、もう一つの地獄だ。
これが、これがあるから駄目なんだ。
感情を出すために演技しているのに、結局感情が残ってしまう。
せっかく大嫌いで憎みかけたこの能力をやっと好きになれそうだったのに。演技は唯一の救いだったはずなのに。
今ではもう、感情があふれかえってしまってフリーズして何も言えないか、役が終わっても感情が残留してしまうか、はたまた今回のような両方か。どっちの道も――地獄だ。
「合格の方のみ、二、三日の間にメールを送信します。合格された方は三次でオーディション合宿をします。」
最後の案内は、やけに他人事に聞こえた。
******
あの最悪の日から、もう三日が過ぎた。
携帯は、あれから鳴らない。やっぱり、不合格だったか。まあ当たり前だ、演技できなかったんだから。
期待してなかったからダメージも少ない、だって分かっていたんだからと自分に言い聞かせる。
その時、ヴーヴーと携帯が震えた。ドキリと心臓が跳ねる。期待するな、いやでももしかしたら。
ドキドキしてスマホを手に取り、開く……。
「他社からの乗り換えで最大三万円キャッシュバック!今だけ!」
「……はは、馬鹿みたいだ」
携帯会社からのセールスメールだった。
期待してない、してなかったけど。なんだか自分がすごく哀れに思えてきた。
――母さんに、落ちたって連絡しなきゃ。
掌の中で携帯が震えた。知らない番号。またセールスだろうか。
「はい、もしもし」
「七川朔さんのお電話でお間違いないですか」
低く穏やかな声。
「はい、そうです。」
「僕は、君が先日受けてくれたオーディションのメインプロデューサーを務める篠川誠 と言います。」
審査員席に座っていた人だ。
審査結果はメールで伝えると言っていたはず。いったい何の用だというのだろう。
「オーディションの結果をお伝えしたくて、お電話しました。端的に言うと、君は二次審査を通過しました。」
心臓の音が、耳の奥で鳴り始める。
今のは聞き間違いだろうか?だって、ほとんど演技ができなかったのだから。
「君は三次審査免除で、そのまま最終審査に進んでもらう。」
「あの、本当に僕で合ってますか?僕、一言しか演技できませんでした。」
「合ってるよ。君の瞳の演技、素晴らしかったよ。さて、詳しい最終審査の詳細は――。」
最終審査の概要と、台本が送られてくる旨を手短に説明された後、電話は切れてしまった。
まだ信じられなかった。まるで夢の中の出来事のようだ。
確か最終審査は十人と言っていた。その一人に選ばれた。
視界がぼやける。
……ああ、今までやってきて良かった。無駄じゃなかった。
何かが、伝わった。言葉にはならなかった表現が、これまでの努力が伝わったのだ。
まだ終わらなかった、もう一度だけ演技ができるんだ。
嬉しくて、嬉しくて涙が止まらない。
奇跡が起きた喜びにあふれていたが、しばらく時間がたつと混乱と恐怖が襲い掛かってきた。なぜ受かったのかがさっぱりわからなかったからだ。
もし朔がプロデューサーだったら、言葉にして演技ができない俳優を最終審査まで通すわけがない。
何が求められているのか。朔に、演技ができるのだろうか。
通過できるのは十人。その一枠に自分が座った。オーディションに落ちて、悔しい思いをした人が何人もいる。
恐ろしいし、分からない。ただ、分からないが、逃げてはいけないことだけはわかった。
それからしばらくして、家に台本が届けられた。
「Phare(ファーレ)」
ファーレ。この作品のタイトル。フランス語で、灯台。
最終審査はこれまでと違って事前に台本を渡される形式だった。瞬発力だけの誤魔化しはきかない。役をどこまで深く解釈できるかが試されている。
脚本は、とても面白かった。たとえ数ページであっても天達先生という名作家の脚本を、テレビよりも先に脚本が見られるのは嬉しい。
それから三日間。台本とひたすら向き合う日々が始まった。台本に込められた裏側の感情を深く読み取る。どうしてここでこのセリフを言ったのか。天音は響也をどう思っているのか。なぜ、天音はここで涙を流しているのか。
審査前には、天音の魂を深く理解しているという自負があった。
******
最終審査当日。これまでにないくらい緊張していた。
今日が最後の演技になるかもしれない。そう思うと、足が、手が震えはじめるのだ。
まだ、全力を出して落選するならあきらめがつく。けれど、もし何も言えなかったら。天音の魂を誰にも伝えることなく終わってしまったら。それが恐ろしくて仕方がなかった。
「七川朔です。」
名前を言うと、待機室に案内された。ドアを開けた瞬間、中にいた人たちの視線が一斉に集まる。
朔が隅っこに座るまで、いや座ってからも視線は注がれ続けていた。
……めちゃくちゃ見られている。
当然か、みんなは三次のオーディション合宿で一緒だったはずだ。
得体の知れないものを見る、鋭い視線とともに針のような感情が心を刺した。
「なんであいつがいるの?」
「あいつ合宿にいなかったよな?」
こそこそと聞こえる声と、渦巻く感情に飲み込まれそうだ。
じっと俯いて絶えていると、騒がしかった待機室に静寂が訪れる。
……なんで急に静かになったんだろう。
不思議に思って顔をあげると目の前には綺麗な顔立ちの男がいた。
「なんで、お前がいるんだよ」
見覚えがある。確か最後のグループが一緒だったような。
名前は橋口くんだ、たぶん。
今面と向かって顔を合わせて初めて分かったが、この間のドラマに出ていた気がする。
「合宿にいなかったよな。なんでここにいるんだよ。」
叩きつけられた明らかな殺意。煮えたぎる泥の混じった熱となって心の隙間へと入り込んでくる。目眩がした。
「俺も、よくわからないんです。ただ、二次審査は通過、最終審査へ進むと言われただけで」
「はあ?なんでお前だけ特別扱いなわけ?コネ?」
ぐい、と襟をつかまれる。
「ち、違います。」
慌てて否定すると、さらに橋口くんの眉間の皺は深まった。
「じゃあなんでだって聞いてんだよ。」
そんなことこっちが聞きたい。朔だって、どうして通過したのかよくわかっていないのだから。
そのとき、コンコンというノックが響いた。橋口くんは慌ててつかんでいた襟を話した。咳ばらいをして呼吸を整えながら、もう一度席に座りなおす。
「全員集まったので、審査順をくじ引きで決めます。」
今までは完全ランダムに振り分けられるスタイルだったが、今回からは自分でくじを引くらしい。中にはどうやら番号の振られた名札が入っているようだった。
差し出された箱の中から、一枚選び出す。
とはいえ、もう二枚しか残っていなかったわけだけど。
「十」と書かれていた。最後の順番だった。
最初よりは、マシか。
隣にいた橋口くんは、どうやら九番だったらしい。
「うわ、俺の後ろじゃん。霞んじゃうね、ドンマイ。まあ順番なんて関係なく落ちるか。」
コソコソと小声でまくしたててくる。
そう、その通りだ。こんなことを言われても、何も言い返せないのが情けない。
「それでは、一番の方から審査を始めますのでこちらへどうぞ。」
最終審査が、始まった。待機室の中は静かだった。
自分の順番に備えて、精神統一する者。不安げに台本をめくる者。
あるいは――自信に溢れていて隣にすごい勢いで話しかける者。
順番が進むにつれて、待機室からどんどん人が減っていった。
てっきり、審査が終わったらこの部屋に戻ってくるものだと思っていたけれど、誰も帰ってこない。
審査内容を漏らさせないように、部屋を分けているのだろうか。
だから、最後の方には、もう部屋には二人しか居なかった。
「まぐれで受かったんだろ。コネだけどコネって言えないだけか。」
まだつっかかってくる。
「俺もわからない。どうして受かったのか。」
「絶対に俺が叩き落としてやる」
顔がいいから、こういうドラマみたいなセリフも絵になる。
ばたん、と乱暴にドアが閉まる音。
こうして、待機部屋に残された。
独りぼっちの、無機質な部屋でぼうっとしながら、これまでのことを思い出していた。
気づけばあった、人の感情を共有してしまう能力。演技に昇華できると喜んだのもつかの間、感情の氾濫そして残留に苦しみ挫折。諦めきれずにチャレンジするものの人前で演技できない日々が続いていた。
馬鹿みたいだろうか?演技をせず引きこもっていればいいと、そう思われるかもしれない。
けれど忘れられないのだ、演技をして自分の中にある全てを外に出すあの感覚を。
実は、高校まではもっと能力はマシだった。残留の症状が始まったのは高3あたりから。そのころまでは、どうにか演技すら出来れば一時的だけれど空っぽになれた。
今は、演技をして堆積している感情を出しても、役の感情が残留する。
演技など辞めてしまえば楽になれるのかもしれない。
それでも空っぽになれる可能性を諦めたくなかったし、演技が好きだった。
この能力で、何者かに、なりたかった。
そうして今に至る。長い道のりだった。まあ本当は二次までいったら大健闘、そこで終わりと思っていたわけだから、想定よりもはるかに長い間審査に残ることが出来た。
「演技が、ちゃんと出来ますように」
祈るようにつぶやいた。
その時、コンコン、小さなノックが響いた。
「順番です、出てください」
最後だ。最後の審査。あぁ、どうか、声が出ますように。ゆっくりと立ち上がった。
ドアを開ける。
まず目に飛び込んできたのは、思っていたよりもたくさんの、人。
二次審査の時の、監督、脚本家、プロデューサーに加えて、カメラマン、以前にはいなかったスタッフも大勢並んでいる。
何よりも驚いたのが、部屋の横側にそのほかの候補者たちが全員並んでいたことだ。
誰も帰ってこないと思っていたら、この部屋に残っていく形式だったとは。
すなわち、朔の演技を九人が見ることになる。
渦巻く感情にめまいがした。
目をつむり、気持ちを落ち着かせる。
長い時間をかけて息を吸い、深呼吸をしたところでなんだか部屋の空気が変わった。
まるで、姿勢を正すような粛々とした雰囲気に。それと同時に、背後のドアが音を立てて閉まった。
なぜか、後ろを向かなければいけないような気がした。
ゆっくりと、後ろを振り向く。
目に入るのは栗色の艶やかな髪。
琥珀色の瞳と、かち合う。
その瞳に吸い込まれそうな、強烈な引力を感じていた。
……及川保志だ。端正な顔立ちに長身。そして彼がまとう圧倒的なオーラ。
伏せられた長いまつ毛が、柔らかく持ち上げられる。整いすぎた造形が、氷の彫刻のように凍てついていた。
何故か、目が離せなかった。吸い込まれるように、その琥珀色の瞳を見つめていた。
世界に二人だけのような、異様な静けさが二人の間には横たわっている。
「自己紹介をお願いします。」
その声ではっと我に返る。そうだ、オーディション中だった。そんなことを考えている場合ではなかった。
「七川朔、二十二歳です。よろしくお願いします。」
「それでは演技審査を始めます。渡した台本は覚えてきたかな」
「はい」
「今日は、相性を見るためにも響也役の及川保志くんと演技をしてもらうよ。」
……耳を疑った。驚きのあまり、絶句する。
監督たちの誰かと仲が良くて見に来ているだけだと思っていた。彼が相手役で、今日いきなり演技することになるとは。
朔の混乱をよそに、淡々と進行は進んでいく。
脇でこちらを見つめる参加者たちの視線を感じる。
品定めをされている、そんな感覚。
「それでは、始めるよ。アクション」
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