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第10話 恋人として、隣へ
凪生は、片平からのメッセージを三度読み返した。
『今夜、飯に行かないか』
それだけだった。
短い。
いつも通り短い。
なのに、胸の奥が変に騒ぐ。
凪生は大学の中庭の端でスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
航太と千尋は、少し離れたベンチの近くで話している。
航太が何かを言い、千尋が笑う。
前より自然な距離だった。
肩が触れるくらい近いのに、二人とも無理に周りを気にしていない。
凪生は、それを少しだけ目に留めた。
胸は、もう鋭く痛まなかった。
うまくやれよ。
前にそう思った時の感覚が、まだ胸に残っている。
二人には二人の場所がある。
三人の場所も、消えていない。
それでいい。
凪生はスマホへ目を戻す。
『今夜、飯に行かないか』
飯。
片平が、飯。
それだけのはずなのに、凪生はもう察していた。
あの男が、わざわざ相談室ではなく外へ誘う。
しかも夜。
ただ食事をするだけで終わるはずがない。
終わったら怒る。
凪生は素早く返信した。
『飯だけ?』
すぐに既読がつく。
少し間があって、返事。
『不満か』
凪生は口元が緩みそうになり、慌てて顔を引き締めた。
『俺はいつだっていいぜ』
送ってから、さすがに攻めすぎたかと思った。
でも、消さない。
片平からの返事は、さらに短かった。
『まあ付き合えよ』
凪生の胸が、どくんと鳴った。
余裕ぶりやがって。
そう思うのに、身体の奥が熱くなる。
凪生はスマホをポケットに押し込み、駅へ向かった。
****
約束の店は、定禅寺裏から少し離れた通りにあった。
派手ではない。
けれど、窓の明かりが柔らかくて、入口の木の扉に古い真鍮の取っ手がついている。
凪生が店の前に着くと、片平はすでに待っていた。
黒いコート。
黒いシャツ。
いつも通りの色なのに、相談室で向き合う時とは違って感じる。
デスクもタブレットもない。
片平征路が、ただ凪生を待っている。
それだけで、胸が少しうるさくなった。
「凪生」
名前を呼ばれる。
「お疲れ、じゃないんだな」
凪生はわざと軽く言った。
片平は口元を少し緩めた。
「今日は飯に誘ったからな」
「飯だけかよ」
「まだ言うか」
「言うだろ」
「まず食え」
片平は扉を開けた。
その仕草が自然すぎて、凪生は少しだけ悔しくなる。
エスコートみたいにされるのは照れる。
でも、嫌ではない。
店内は落ち着いていた。
カウンターと小さなテーブル席がいくつか。
片平は奥の席へ凪生を案内した。
予約してあったのだと分かる。
向かい合って座ると、凪生は落ち着かずに水のグラスへ手を伸ばした。
「こういう店、慣れてる感じ出すなよ」
「慣れている」
「腹立つ」
「嫌か」
「嫌じゃないから腹立つ」
片平が低く笑う。
その笑い方に、凪生は弱い。
店員が料理の説明をする間、片平はいつものように静かだった。
けれど、仕事の静けさではない。
凪生の苦手なものを避け、好きそうなものを自然に選ぶ。
そういうところまで、腹立たしいくらい片平だった。
前菜が来る。
温かいスープが来る。
凪生は一口飲んで、少し目を丸くした。
「うま」
「よかった」
「俺の好み、知りすぎじゃねぇ?」
「観察しているからな」
「それ、普通に言うな」
「悪いことか」
「悪くないけど、ずるい」
片平はグラスを置いた。
凪生のくだらない照れ隠しを、全部分かった上で受け止めている顔だった。
「凪生」
片平の声が少し低くなる。
凪生はスプーンを止めた。
「何」
「この前の依頼、お前はよく答えた」
凪生は少し眉を寄せる。
「あれ、もう褒められた」
「何度でも言う」
「やめろ。調子狂う」
片平は、凪生の反応に笑わなかった。
穏やかなまま、言葉を続ける。
「あの時、俺はお前を、もう導かれるだけの相手だとは思えなくなった」
凪生の指が止まる。
「は?」
「俺はずっと、お前に男同士の恋を教えているつもりでいた。依頼者の感情を分析させ、検証させ、答えに届かせる立場にいた」
片平は、凪生から目を逸らさない。
「だが、お前は自分の痛みを使って、他人の恋に答えを出した。俺が教えたからじゃない。お前の言葉でだ」
凪生の胸が、じわっと熱くなる。
「それで、分かった」
「何が」
「お前は、俺の隣に立てる男だ」
凪生は、息を止めた。
その言葉は、思っていたより深く刺さった。
可愛い。
欲しい。
好きだ。
そう言われた時とは違う場所が熱くなる。
認められた。
男として。
片平の隣に立つ相手として。
「……食事中にそういうこと言うなよ」
やっと出た声は、少し掠れていた。
片平は、わずかに目を細める。
「どこで言えばよかった」
「どこでも刺さるんだよ」
言ってから、凪生は顔が熱くなる。
片平は低く笑った。
「なら、ここで言う」
「言うなって流れだろ」
「好きだ、凪生」
凪生の胸が跳ねた。
もう聞いた言葉だ。
それでも、場所が違う。
声が違う。
まっすぐ選び直すみたいに言われて、心臓がうるさくなる。
「前に言ったことは変わっていない」
片平は静かに続けた。
「俺と付き合ってくれ」
凪生の喉が熱くなる。
「……とっくにそのつもりだ」
片平の目がわずかに深くなる。
「ただ、今日は待てとは言わない」
凪生はスプーンを置いた。
「……それ、どういう意味」
「食事が終わったら、俺と来るか」
分かっていた。
分かっていたのに、言われた瞬間、身体の奥が熱くなった。
凪生はグラスの水を一口飲む。
喉が乾いていた。
「まどろっこしいな」
「そうか」
「俺、最初から分かってたけど」
「そうだろうな」
「じゃあ、何で飯からなんだよ」
片平は少しだけ考えるように間を置いた。
「お前を、ただ抱きに連れていく男になりたくなかった」
凪生は言葉を失った。
片平の声は低い。
でも、気取っていない。
「飯を食って、話して、俺がお前をどう思っているか伝えたかった。その上で誘いたかった」
「……そういうとこ」
「嫌か」
「嫌じゃないから腹立つ」
凪生は顔を背ける。
耳が熱い。
片平はずるい。
こんなの、断れるわけがない。
断る気もない。
凪生は視線を戻し、片平を睨んだ。
「行く」
片平の目が、深くなる。
「いいんだな」
確認はそれだけだった。
低く、静かで、逃げ腰ではない。
凪生ははっきり頷いた。
「行く。俺も、お前が欲しい」
片平の喉が動く。
凪生は少しだけ勝った気分になった。
「待たせた分、ちゃんとしろよ」
「する」
「軽く言うな」
「軽く言っていない」
食事の後半、凪生は何を食べても味が少し遠かった。
うまい。
それは分かる。
けれど、向かいに座る片平の視線がずっと気になって、料理どころではない。
片平は変わらず落ち着いている。
けれど、ふとした時に、目の奥の熱が隠れていない。
凪生はそれに気づくたび、胸が高鳴った。
****
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
片平は隣を歩く。
手は繋がない。
でも、肩が近い。
ホテル街へ向かう道を、二人は黙って歩いた。
前のホテルの時とは違う。
凪生が片平を引っ張ったわけではない。
片平が先に誘った。
その違いが、足取りを妙に熱くする。
ホテルの前で、片平が足を止めた。
「凪生」
「何」
「嫌なら言え。俺は聞く」
それだけだった。
凪生は片平のコートの袖を掴む。
「言う。だから、遠慮すんな」
片平の目が熱を帯びる。
「なら、遠慮しない」
凪生の身体が震えた。
片平は低く笑い、凪生の手を取った。
今度は、ちゃんと繋いだ。
部屋に入ると、扉が閉まる音がやけに大きく響いた。
凪生は靴を脱ぐ前に、片平に引き寄せられた。
背中が壁に触れる。
目の前に片平がいる。
近い。
息がかかる。
今度は、片平はすぐに唇を外さなかった。
まっすぐ、凪生の唇へ来た。
深く重なる。
凪生は片平のシャツを握った。
ずっと欲しかった。
あの時、ここまでだと言われて止まった熱が、ようやくほどける。
片平の腕が腰に回る。
強い。
離す気のない力。
凪生は息の合間に笑った。
「やっと来た」
「待たせた」
「ほんとだよ」
「悪かった」
「謝るな。今はキスしろ」
片平の目が少し揺れる。
それから、また唇が重なった。
さっきより深い。
凪生の背中が震える。
片平の手が髪に入り、角度を変えられる。
息が奪われる。
でも、苦しくない。
もっと欲しい。
そう思う前に、片平がそれを捉える。
「凪生」
「何」
「今日は遠慮しない」
凪生の身体の奥が、甘く熱を持った。
「しなくていい」
「声も聞く」
「言い方」
「名前も呼ばせる」
「お前、ほんと」
「好きだからな」
そんな言葉で押されると、何も返せなくなる。
片平の唇が首筋へ下りる。
凪生の身体が跳ねた。
「っ、そこ」
「弱いな」
「知ってるだろ」
「ああ」
「じゃあ言うな」
「言いたい」
「性格悪い」
「お前には、そうなるらしい」
凪生は片平の髪に指を差し込んだ。
仕事の声ではない。
検証の声でもない。
全部、自分へ向いている。
その事実だけで、頭の奥が甘く痺れる。
片平の手が服の裾へ触れる。
一度だけ、凪生を捉える。
凪生は自分から言った。
「いい」
片平の指が止まる。
「俺がいいって言ってる」
片平の目が深くなる。
「分かった」
服が少しずつ乱れていく。
肌に空気が触れる。
そこへ片平の手が重なる。
凪生は息を詰めた。
前にも触れられた。
検証で。
前のホテルで。
でも、今日は違う。
何かを確かめるためではない。
誰かの感情をたどるためでもない。
片平が、凪生を欲しがっている。
凪生も、片平を欲しがっている。
それだけ。
それだけなのに、今までで一番深く身体へ響いた。
「征路」
名前を呼ぶと、片平の手が一瞬だけ強くなる。
「もう一度」
「征路」
「もっと」
凪生の顔が熱くなる。
「お前、聞きたがりすぎ」
「聞きたい」
「征路」
片平の唇が胸元へ落ちる。
凪生の声が崩れた。
「あ、っ」
「凪生」
低い声で名前を返される。
それだけで、全身が甘く震える。
「名前だけでそんな反応をするのか」
「してねぇ」
「している」
「うるさい」
「可愛い」
凪生は片平の肩を叩いた。
「言うな」
「言う」
「言うなって」
「今日は言う」
片平の目が、どうしようもないほど甘く熱い。
「好きだ。可愛い。欲しい」
凪生は息を失った。
そんな言葉をまとめて向けられたら、耐えられるわけがない。
「……ばか」
「知っている」
「知らなくていい」
「お前の前では、少し馬鹿になる」
凪生は、片平の頬に触れた。
「なっていい」
片平の喉が動く。
凪生は小さく笑った。
「俺の前では、格好つけすぎんな」
「難しいことを言う」
「簡単だろ」
「お前には、格好よくありたい」
凪生の胸が、どうしようもなく甘くなる。
「もう十分だよ」
言ってから、照れた。
「だから、早く来い」
片平は少しだけ笑った。
「分かった」
ベッドへ移る。
シーツが柔らかく沈む。
凪生は仰向けになり、片平へ目を向けた。
大人の男の顔だった。
仕事の静けさではない。
欲を隠さない顔。
それが自分に向いている。
凪生の身体は、もうそれだけで熱に包まれる。
片平は急がなかった。
けれど、待たせもしなかった。
凪生の反応を確かめながら、逃さず、甘やかしすぎず、少しずつ深く触れてくる。
「声、我慢するな」
「してねぇ」
「している」
「うるさい」
「聞かせろ」
凪生は唇を噛んだ。
片平の指が、その唇をほどく。
「噛むな」
「命令すんな」
「お願いだ」
「……ずるい」
「凪生」
名前を呼ばれる。
低く。
近く。
耳元で。
凪生は息を震わせた。
「聞かせてくれ」
もう、無理だった。
凪生は片平の背に腕を回した。
声が漏れる。
小さく。
甘く。
自分でも知らなかった声。
片平の動きがわずかに変わる。
それに気づいて、凪生の身体がさらに熱くなる。
「今ので喜ぶな」
「無理だ」
「無理って言うな」
「お前の声だ」
「だから何」
「俺だけに聞かせろ」
凪生の息が止まる。
独占されている。
片平に。
望んでいた形で。
「……お前も」
凪生は息の合間に言った。
「俺だけにしろよ」
片平の目が深くなる。
「している」
「もっと」
「凪生」
「もっと、俺だけって言え」
片平が凪生の手を取る。
指を絡める。
逃がさないためではなく、離れないために。
「お前だけだ」
凪生の胸が跳ねる。
「俺が欲しいのは、凪生だけだ」
その言葉で、凪生の中の何かがほどけた。
ずっと欲しかった。
片平の熱を、自分だけに向けさせたかった。
自分も、片平の熱を受け止めたかった。
今、その全部がここにある。
「征路」
「何だ」
「俺も、お前だけがいい」
片平の表情が崩れた。
ほんの少し。
でも、凪生には分かった。
「今の顔、いい」
「言うな」
「言う。お前ばっかり言うから」
片平が低く笑う。
それから、凪生の額へキスをした。
「好きだ」
「知ってる」
「何度でも言う」
「……言えよ」
「好きだ」
凪生は目を閉じた。
好きだと言われながら、触れられる。
欲しいと言われながら、抱かれる。
それは、検証で知ったどの熱とも違った。
もっと深い。
もっと怖い。
もっと甘い。
片平の呼吸が乱れるたびに、凪生の胸が満たされていく。
片平が自分を欲しがっている。
片平の余裕が、自分の声で崩れていく。
それが嬉しくて、たまらなかった。
「征路」
「凪生」
「気持ちいい」
片平の腕に力がこもる。
「もっと言え」
「気持ちいい。お前がいい。もっと」
片平が深く息を吐いた。
「煽るな」
「煽ってる」
「悪い男だな」
「お前がしたんだろ」
「ああ」
片平の唇が凪生の耳元へ寄る。
「俺がそうした」
その声で、凪生は甘く崩れた。
夜は長かった。
片平は、言った通り遠慮しなかった。
でも、強引さだけで押すわけではなかった。
凪生の声を聞き、息を確かめ、言葉を求め、返事を待つ。
待つのに、焦らす。
優しいのに、逃さない。
そのたびに、凪生は片平のシャツを掴み、シーツを握り、名前を呼んだ。
何度も。
片平も、凪生の名前を呼んだ。
仕事の声ではなく。
恋人の声で。
最後に、凪生は片平の腕の中で息を整えていた。
身体は甘くだるい。
胸は、満ちていた。
片平の指が、凪生の髪をゆっくり撫でる。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃない」
片平の手が止まる。
凪生は少しだけ笑った。
「でも、嫌じゃない」
片平が息を吐く。
「そうか」
「お前、心配しすぎ」
「する」
「するな」
「無理だ」
「それ言うな」
片平が凪生の額へ唇を落とす。
凪生は目を閉じた。
「ちゃんとしたな」
「何を」
「待たせた分」
片平の腕が、凪生を抱き直す。
「足りたか」
凪生は答えようとして、少し迷った。
それから、片平の胸に額を押しつける。
「今日は」
「今日は?」
「足りた」
片平が低く笑った。
「明日は」
「調子乗んな」
凪生は片平の胸を軽く叩いた。
いつものやり取りが戻ってくる。
でも、もう違う。
凪生は片平の腕の中にいる。
恋人として。
その事実が、身体の奥までゆっくり染み込んでいく。
「征路」
「何だ」
「俺たち、仕事どうすんの」
片平は少し黙った。
その沈黙は重くなかった。
ちゃんと考えている沈黙だった。
「仕事は続ける」
「うん」
「ただし、恋人として触れたい時は、仕事の流れに混ぜない」
凪生は頷いた。
「俺も、検証のせいにしない」
「ああ」
「嫌な時は言う」
「ああ」
「欲しい時も言う」
片平の手が、凪生の背で止まる。
「それは、よく聞く」
「そこだけ食いつくな」
「大事だ」
「はいはい」
凪生は少し笑った。
片平も、かすかに笑う。
「お前は、仕事中はちゃんと仕事しろよ」
「それは俺の台詞だ」
「俺の方がちゃんとしてる」
「そうか?」
「そうだろ」
「今日、俺からの連絡にすぐ返した男が?」
凪生は固まった。
「……時間まで言うなよ」
「言っていない」
「絶対覚えてる顔だろ」
片平が低く笑う。
凪生は片平の胸を軽く叩いた。
「ほんと腹立つ」
「嫌か」
「嫌じゃない」
言ってから、凪生は自分で少し笑った。
もう、そこはごまかさなくていい気がした。
****
翌朝、カーテンの隙間から淡い光が入っていた。
凪生は片平の腕の中で目を覚ました。
片平はすでに起きていた。
凪生の髪に、静かに指を通している。
「起きてたのかよ」
「ああ」
「いつから」
「少し前」
「ずっと触ってた?」
「ああ」
「許可は」
「いるか」
「いる」
片平の手が止まる。
「触れていいか」
凪生は、少しだけ口元を緩めた。
「いい」
片平の指がまた髪に触れる。
その丁寧さがくすぐったくて、凪生は目を細めた。
「恋人っぽい」
片平が言った。
凪生は顔を熱くする。
「お前が言うな」
「駄目か」
「駄目じゃないけど」
「凪生」
「何」
「好きだ」
朝から言うな。
そう返すつもりだった。
けれど、声が出なかった。
凪生は代わりに、片平の胸へ額を押しつけた。
「俺も」
小さく返す。
片平の腕が、凪生を包む。
しばらく、そのまま黙っていた。
仕事は続く。
杜灯恋愛相談室も続く。
依頼者の悩みも、きっとまた来る。
凪生は、まだ知らない恋をまた学ぶのだろう。
けれど、もう外から眺めるだけではない。
凪生には、片平がいる。
片平の隣で、自分の恋を知った。
身体で。
言葉で。
ちゃんと。
****
昼前、二人はホテルを出た。
駅前の空気は、いつもと変わらない。
人が歩き、車が流れ、街が動いている。
凪生は隣の片平へ目を向けた。
「今日、相談室行くの?」
「午後から一件ある」
「仕事かよ」
「仕事だ」
「恋人初日の余韻とかないわけ?」
片平は涼しい顔で答えた。
「ある」
「あるんかい」
「かなりある」
凪生は耳まで熱くなる。
「じゃあ休めよ」
「依頼者を待たせるわけにはいかない」
「真面目か」
「真面目だ」
「知ってる」
片平が少し笑う。
その笑い方が、朝の光の中でやけに優しい。
凪生は顔を逸らした。
「じゃあ、俺も行く」
「大学は」
「午後ない」
「身体は」
「聞くな」
「聞く」
「大丈夫だって」
片平の視線が、静かに凪生へ向く。
「無理はするな」
凪生は一瞬だけ黙った。
それから、少し笑う。
「無理なら言う」
片平の表情が和らいだ。
「そうしろ」
「欲しい時も言う」
片平の足が止まりかける。
凪生は勝った気分になった。
「何だよ。自分で言えって言っただろ」
「言った」
「じゃあ慣れろ」
「努力する」
「努力かよ」
二人は駅へ向かって歩き出す。
手は繋いでいない。
でも、肩が近い。
それだけで、凪生は少し笑いそうになった。
恋人になっても、片平は真面目で。
凪生はたぶん、これからも文句を言う。
でも、その隣にいる。
それが、今はひどく嬉しかった。
杜灯恋愛相談室のビルの前で、片平が足を止める。
「凪生」
「何」
「仕事中は、切り替える」
「分かってる。確認しすぎると格好悪いぞ」
片平が一瞬、言葉を止めた。
凪生は、にやりと笑う。
「片平さん」
片平の目がわずかに動く。
凪生は勝ち誇ったように続けた。
「これでいいんだろ、仕事中は」
「……そうだな」
「何その顔」
「いや」
「変な顔すんな」
片平は小さく息を吐いた。
「青葉」
今度は、凪生の胸が跳ねた。
名字で呼ばれただけなのに、妙にくすぐったい。
凪生は顔をしかめた。
「仕事中っぽい」
「仕事中だからな」
凪生は少し考えた。
それから、笑った。
「まあ、悪くない」
片平の口元がわずかに緩む。
二人はビルへ入る。
カードキーをかざし、相談室の扉を開ける。
いつもの部屋。
デスク。
ソファ。
景窓。
香炉。
昨日までと同じ場所なのに、少し違って感じる。
凪生は靴を脱ぎ、部屋の中へ入った。
片平はすぐ仕事の顔になる。
凪生も、鞄を置いてタブレットを受け取った。
恋人としての夜は、ちゃんと二人のものになった。
仕事の時間は、仕事として始まる。
その両方を持てる。
それが、今の二人の答えだった。
凪生は画面を覗き込み、片平へ言った。
「で、今日の依頼は?」
片平は、いつもの低い声で答える。
「男同士の恋の相談だ」
凪生は笑った。
「知ってる」
そう言って、片平の隣に立った。
** 男同士専門恋愛コンサルは、俺をいちばん甘く暴く 〜くそ真面目な上司に、恋も欲も見抜かれました〜 (完)
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