9 / 10

第9話 三人だった場所

凪生は、杜灯恋愛相談室へ向かう道で、何度もスマホを確認した。 片平からの連絡はない。 それでいい。 今日は普通に仕事の日だ。 そう思っているのに、胸の奥が落ち着かない。 好きだ。 お前が欲しい。 片平の声が、まだ身体のどこかに残っている。 あのあと、何度も思い出した。 腹が立つくらい、何度も。 好きだと言われた。 欲しいと言われた。 恋人にしたい、とも言われた。 なのに、最後までは進まなかった。 片平は、待ってくれと言った。 凪生は納得したわけではない。 でも、片平が拒んだわけではないことは分かっていた。 だから余計に、身体の奥だけがずっと熱い。 「……ほんと、性格悪い」 小さく呟いてから、凪生はビルの入口へ入った。 カードキーをかざし、扉を開ける。 「お疲れ」 「お疲れ」 片平はデスクにいた。 黒いシャツ。 開いたタブレット。 香炉に火は入っていない。 景窓には、夕方の街灯が淡く映っていた。 凪生は靴を脱ぎながら、片平の顔をまともに捉えられなかった。 好きだと言われた相手と、何もなかったみたいに仕事をする。 思ったより難しい。 片平は、それに気づいているはずだった。 けれど、声はいつも通りだった。 「新しい依頼が来ている」 「おう」 「映像はない。相談文と、短い音声だけだ」 「珍しいな」 「対面希望なし。回答は文面で欲しいそうだ」 凪生はソファへ座った。 今日は身体を使う検証はない。 そう思った瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。 同時に、ほんの少し物足りなさを覚えた自分に気づいて、凪生は眉を寄せる。 (いや、何期待してんだ俺) 片平がタブレットを操作する。 画面に相談文が表示された。 「依頼者は大学生。恋人同士。交際して日が浅い」 「よくあるやつ?」 「そうとも言える」 片平は、そこで一度凪生へ視線を向けた。 「読むぞ」 「読めよ」 片平は画面に目を落とした。 「同じ大学の友人同士。長く三人で一緒に過ごしていた。そのうち二人が恋人になった」 凪生の指先が、小さく動いた。 同じ大学。 三人。 そのうち二人が恋人。 胸の奥に、冷たいものが落ちる。 「恋人になった二人は、残った友人を傷つけたのではないかと感じている。二人きりの時も、その友人の顔が浮かび、恋人として求め合うことにブレーキがかかる」 凪生は、息を浅く吸った。 片平の声は続く。 「触れたい。もっと近づきたい。だが、そのたびに、三人でいた頃のことを思い出す。自分たちだけが先へ進むようで、強く欲しがれない」 凪生は、タブレットから目を離せなかった。 まさか。 そんな偶然があるか。 そう思っても、相談文の細部が胸に引っかかる。 杜都学院大学。 フットサルサークル。 親友に交際を伝えたあとから、恋人同士の距離がぎこちなくなった。 片平は、そこで読み上げを止めた。 室内が静かになる。 景窓の向こうで、車のライトが流れていく。 凪生は、ようやく声を出した。 「……たぶん、航太と千尋だ」 片平は驚かなかった。 「心当たりがあるか」 「ありすぎる」 凪生は低く答えた。 「俺がここに来るきっかけになった二人」 片平はタブレットを伏せた。 その動きが、少しだけ慎重だった。 「匿名案件でも、スタッフが当事者を特定した時点で、原則として担当から外れる」 「は?」 「友人として知っている事実を、依頼内容と混ぜる危険がある。依頼者も、お前がここにいると知って送ったわけではない」 片平の声は静かだった。 「この先は俺が担当する。お前は依頼文も音声も閉じていい」 「嫌だ」 凪生は即答した。 片平の目がわずかに細くなる。 「俺にできないってこと?」 「そうではない。利益相反の問題だ」 「なら、俺が最終判断しなきゃいいだろ」 片平は黙った。 凪生はタブレットへ手を伸ばした。 「俺にも答えを出させろ」 「凪生」 「送るかどうかは、お前が決めればいい。俺は、友達として知ってることは使わない。ここに書いてあることと、音声だけで考える」 片平は凪生を捉えた。 「お前の事情に都合のいい回答になっていないか、俺が確認する」 「それでいい」 「文面の最終決定と送信も俺がする」 「分かった」 片平はすぐにはタブレットを渡さなかった。 凪生はまっすぐ片平を見る。 「俺が一番痛かった」 口にすると、胸が少し疼いた。 でも、声は崩れなかった。 「だからって、俺の答えが正しいとは限らない。それは分かってる。でも、痛かった側だから見えることもある」 片平の指がタブレットの縁に触れたまま止まる。 「俺の答えを聞いて、お前が違うと思ったら送るな。それでいい」 少しの沈黙のあと、片平がタブレットを差し出した。 「依頼内容から外れるな」 「ああ」 凪生は画面を受け取った。 相談文を最初から読み直す。 音声も再生する。 声は加工されていた。 それでも、息の置き方や、言葉の選び方には、どうしても覚えがあった。 『触れたいと思うんです。でも、そこで止まります』 航太だ。 加工されていても、凪生には分かった。 胸がきゅっと痛む。 続いて、別の声。 『大事な友人がいます。その人を傷つけてまで、僕たちだけで幸せになっていいのか、分からなくなるんです』 千尋だ。 凪生は膝の上で手を握った。 『好きなんです。だから、もっと近づきたい。でも、近づきたいと思うほど、あいつに悪い気がして』 『恋人として求められるのは嬉しいです。でも、嬉しいと思う自分が、あの人を置いていくみたいで』 凪生は目を閉じた。 あいつらしい。 二人とも、本当にそういうところがある。 自分たちだけで苦しんで、自分たちだけで熱を抑えて、それで誰かを大事にしているつもりになる。 腹が立った。 でも、それだけではなかった。 二人が自分を邪魔だと思っていたわけではない。 二人きりになりたいから、凪生を切り離したわけでもない。 むしろ逆だった。 自分を大事に思っているから、止まっている。 それが分かって、胸がまた痛んだ。 凪生は目を開けた。 「違う」 片平が音声を止める。 「何が違う」 凪生はタブレットを捉えたまま言った。 「俺に悪いから止まるってところ」 声は、思ったより静かだった。 「俺に悪いから止まるのは、俺を大事にしてるんじゃない。俺を、二人の恋が止まる理由にしてるだけだ」 言った瞬間、胸の奥が熱くなった。 これは二人に言っている。 でも、自分にも言っている。 「友達を大事にすることと、恋人を欲しがることは別だ」 片平は口を挟まない。 凪生が言葉を選ぶのを待っている。 「二人きりの時は、二人だけで相手を見ればいい。触れたいなら触れればいい。欲しいなら欲しがればいい」 凪生の指が、タブレットの端を握る。 「そこで俺の顔を思い出して止まられても、俺は嬉しくない」 胸は痛む。 昔と同じ三人ではいられない。 二人が恋人になった以上、何も変わらないわけではない。 それを認めるのは、少し怖かった。 でも、言える。 「俺を大事にしたいなら、三人でいる時に大事にすればいい。連絡するとか、飯食うとか、普通に話すとか。そういうのでいい」 凪生は息を整えた。 「二人きりの時間に、俺を罪悪感として連れていくな」 静かな部屋に、自分の声が落ちる。 「航太と千尋が恋人として互いを欲しがることと、俺を友達として大事に思うことは、両立する」 片平の目が、静かに凪生を捉えた。 「俺は、そう思う」 凪生の胸が鳴った。 正解だと採点されたのではない。 片平が、自分と同じ場所に立った。 それが、少し嬉しかった。 凪生はタブレットへ目を戻した。 「あいつら、本当に俺を大事に思ってたんだな」 「ああ」 「大事だから、止まってた」 「そう見える」 「でも、互いのことは、俺とは違う意味でどうしようもなく好きだった」 凪生は小さく息を吐いた。 「なら、止まる必要ないじゃん」 片平は短く頷いた。 答えは出た。 頭では、もう分かっている。 それなのに、胸の奥にはまだ、細い棘が残っていた。 昔と同じ三人には戻れない。 その事実だけは、答えが出ても消えない。 片平が凪生の手元へ視線を落とした。 「答えは出たようだな」 「ああ」 「だが、まだ苦しそうだ」 「分かってる」 片平は少し黙った。 それから、香炉へ視線を向ける。 「検証するか?」 凪生は顔を上げた。 今日は、身体を使う検証はないと思っていた。 少し安心して、少し物足りないと思った。 その全部を、片平はたぶん分かっている。 凪生はタブレットをローテーブルへ置いた。 「もちろん、検証する」 片平の目がわずかに深くなる。 「今から確かめるのは、お前の答えだ」 「分かってる」 「あの二人が互いを欲しがることと、お前を大事に思うことが、本当に両立しているか」 片平の声は静かだった。 「それから、お前が誰かを欲しがることと、あの二人を友人として大事に思うことが、両立するか」 凪生の胸が跳ねた。 「誰かって」 「分かっているだろ」 「言えよ」 「俺だ」 低い声が、まっすぐ落ちる。 凪生は顔が熱くなるのを感じた。 「検証の説明でそういうこと言うな」 「必要だ」 「くそ真面目」 **** 片平が杜香に火を入れる。 甘い香りが、ゆっくり部屋へ広がった。 今日の香りは柔らかい。 懐かしい場所へ戻るような温かさがある。 その奥に、少しだけ寂しさが混ざっていた。 凪生はベッドの端へ座った。 片平が近づいてくる。 昨日、互いに好きだと告げた男。 自分を欲しいと言った男。 それでも、仕事の続きみたいに抱きたくないと止まった男。 その片平と、また検証をする。 普通でいられるわけがない。 「目を閉じろ」 「分かってる」 「三人でいた頃を思い出せ」 「……おう」 凪生は目を閉じた。 航太。 千尋。 大学の中庭。 フットサルのコート。 三人で食べた昼飯。 航太の雑な笑い声。 千尋の呆れた顔。 帰り道。 くだらない話。 三人でいることが、ずっと続くと思っていた。 その記憶は温かい。 好きだった。 二人とも、大事だった。 今も大事だ。 けれど、そこへ別の熱が入り込む。 航太が千尋を見つめる目。 千尋が航太の手を受け入れる仕草。 二人にしか向かない熱。 胸が少し痛む。 自分の知らない場所へ二人が進む。 三人が同じ距離で並んでいた時間が、形を変える。 寂しい。 でも、憎くない。 二人の熱を消してほしいとも思わない。 「凪生」 片平の声が聞こえた。 目を開ける。 片平が目の前にいた。 黒いシャツ。 涼しい目。 凪生の名前を呼ぶ低い声。 航太でもない。 千尋でもない。 凪生が触れたい男だった。 片平の指が、凪生の頬へ触れる。 「今、誰を見ている」 「お前」 「誰に触れたい」 「お前だよ」 片平の指が頬から耳の下へ滑る。 首筋へ触れる。 それだけで、凪生の身体が震えた。 航太や千尋に触れられても、こんな反応はしない。 大事だと思うことと、欲しいと思うことは違う。 片平の顔が近づく。 唇が触れる寸前で止まる。 「二人を思い出しているか」 「少し」 「俺に触れられることが、あの二人を捨てることに感じるか」 凪生は片平のシャツを掴んだ。 「感じない」 言葉が、はっきり出た。 「俺が今、お前を欲しいことと、あいつらが大事なことは別だ」 片平の目が熱を帯びる。 「なら、欲しがれ」 唇が重なった。 深い。 凪生は息を詰め、すぐに片平の首へ腕を回した。 昨日は途中で止まった。 その熱が身体に残っている。 片平の唇。 舌。 呼吸。 全部が欲しかった。 キスが深くなる。 片平の手が、凪生の背をたどる。 腰を引き寄せる。 凪生は自分から身体を寄せた。 片平の熱が近い。 それだけで、腹の奥が甘く疼く。 「征路」 名前を呼ぶ。 片平の腕に力がこもる。 「凪生」 返される。 胸が熱くなる。 三人でいた記憶は消えていない。 航太と千尋は、今も大事だ。 それでも今、凪生の身体が求めているのは片平だった。 片平の唇が首筋へ下りる。 「っ、そこ」 「知っている」 「言うな」 「お前のことだからな」 「それも言うな」 言うなと言いながら、凪生は片平の髪へ指を入れた。 もっと触れてほしい。 片平に、自分を欲しがってほしい。 片平の手が服の裾から入り、肌へ触れる。 温かい。 指先が胸をたどる。 敏感な場所を撫でられ、凪生の息が崩れた。 「っ、征路」 「何だ」 「もっと」 片平の目が深くなる。 「今、誰を欲しがっている」 凪生は片平を睨んだ。 そんなこと、もう分かっているくせに。 分かっていて言わせようとしている。 腹が立つ。 でも、言いたかった。 「お前」 凪生は片平のシャツを強く掴んだ。 「俺が欲しいのは、お前だよ」 片平の呼吸が、わずかに乱れた。 それを感じた瞬間、凪生の身体がさらに熱くなる。 片平も、自分を欲しがっている。 検証の感情だけではない。 昨日、本人の言葉で聞いた。 好きだ。 欲しい。 その言葉を思い出すだけで、身体の奥まで甘く震える。 片平の手が、凪生の身体をひらいていく。 急がない。 けれど、遠慮もしない。 指が敏感な場所を確かめる。 凪生の身体は、もう片平を受け入れる準備を始めていた。 呼吸が乱れる。 膝が開く。 自分から片平の手を追うように、腰が動く。 「凪生」 「何」 「俺を欲しがることで、あの二人への気持ちは消えたか」 「消えるわけないだろ……っ」 片平の指が深く触れる。 凪生の声が甘く崩れた。 「航太も千尋も大事だよ」 息の合間に言う。 「でも、こうなりたいのは、お前だけだ」 片平の目が揺れる。 「それでいい」 低い声が落ちる。 片平の指が、凪生の奥をゆっくり探る。 凪生は片平の肩へしがみついた。 熱い。 もう少しで、仕事も検証も全部忘れる。 片平に抱かれたい。 昨日止められたところから先へ進みたい。 片平の身体を、自分の奥まで受け入れたい。 「征路」 「何だ」 「もう分かった」 片平の指が止まる。 凪生は乱れた息を整えようとした。 「想定どおりだったか」 片平が聞く。 「ああ」 凪生は片平の目を見る。 「あいつら、俺を捨てたわけじゃない」 胸の奥に残っていた言葉が、ようやく出た。 「二人が互いを欲しがっても、俺を大事に思ってたことは消えない」 片平は黙って聞いている。 「俺も同じだ。あいつらを大事に思ってても、お前が欲しい」 凪生は片平の手首へ触れた。 止めるためではない。 まだ触れていてほしくて。 「ここから先は、あいつらの感情じゃない」 声が少し震えた。 「俺がお前を欲しいだけになる」 片平の目が、深く熱を帯びる。 少しの沈黙。 それから、片平は静かに言った。 「なら、ここまでだ」 片平の指がゆっくり離れる。 凪生の身体が、その喪失に甘く震えた。 「……本当に止めるのかよ」 「お前が、答えは出たと言った」 「言ったけど」 「この先は検証ではない」 凪生は唇を噛んだ。 分かっている。 ここから先へ進めば、航太と千尋の案件ではない。 片平を欲しがる凪生と、凪生を欲しがる片平の時間になる。 片平は、それを仕事場の続きにはしないと決めている。 「腹立つ」 「そうだな」 片平は凪生の身体を抱き寄せた。 触れていた手は離れたが、腕は離れない。 凪生は片平の胸へ額を押しつける。 身体は熱い。 かなり熱い。 今すぐ続けてほしい。 それでも、胸の奥にあった棘は、前より小さくなっていた。 「あいつら、本当に俺を大事に思ってた」 凪生は片平の胸へ顔を寄せたまま言った。 「ああ」 「でも、互いのことは、俺とは違う意味でどうしようもなく好きだった」 「ああ」 「なら、止まる必要ないじゃん」 片平の腕が、少しだけ強くなる。 「そうだな」 凪生は目を閉じた。 「昔と同じ三人には戻れない」 言葉にすると、少しだけ痛かった。 片平は否定しなかった。 その代わり、背をゆっくり撫でた。 「でも、三人でいられなくなるわけでもない」 凪生は自分で続けた。 片平が短く頷く。 それでよかった。 前と同じではない。 でも、なくなるわけでもない。 三人だった場所を手放すのではない。 同じ形のまま止めようとすることを、やめるだけだ。 **** 少し休んでから、凪生は服を整えた。 身体には、片平の指の感覚がまだ残っている。 それを意識すると、また熱が戻りそうになる。 「見るな」 「何を」 「分かってんだろ」 「分からない」 「性格悪い」 片平は何も言わず、タブレットを凪生へ渡した。 「回答文を書くか」 「書く」 凪生はタブレットを受け取る。 「ただし、お前が友人として知っている事情は書くな」 「分かってる」 「依頼文と音声から読み取れる範囲にする」 「ああ」 「送信前に俺が確認する」 「何回言うんだよ」 「大事だからだ」 「くそ真面目」 凪生は画面へ向き直った。 最初の一文に少し迷った。 でも、手は止まらなかった。 あなたたちが恋人として互いを強く求めることと、その友人を大切に思うことは、両立します。 あなたたちが止まってしまうのは、その友人を大切に思っているからでしょう。 けれど、その友人を本当に大切に思っているなら、恋人の時間に罪悪感として連れていかないでください。 恋人の時間には、恋人だけを見てください。 二人きりの時は、二人だけで相手を欲しがってください。 それは、友人を捨てることではありません。 三人の時間には、三人で笑ってください。 その友人を大切にしたい気持ちは、その時間に、言葉と態度で伝えてください。 恋人としての欲を抑えることで、その友人を守ったことにはなりません。 その友人を、あなたたちの恋が止まる理由にしないでください。 凪生は少しだけ手を止めた。 最後に、一文を足す。 ちゃんと幸せになってください。 打ち終えると、指先が熱かった。 片平へタブレットを渡す。 片平は時間をかけて文章を確認した。 凪生は、その横顔を黙って捉えていた。 さっきまで自分へ触れていた男が、今は仕事の目で文章を確認している。 それが少し腹立たしくて、少し格好よかった。 「どう」 「依頼内容から外れていない」 「俺の事情、混ざってる?」 「お前の経験は混ざっている。だが、友人だから知っている情報には頼っていない」 片平はタブレットへ視線を戻した。 「回答として送れる」 「そうか」 胸の奥が、じわっと熱くなる。 「送るぞ」 「ああ」 片平が送信する。 画面から相談文が閉じられた。 それだけで、凪生は大きく息を吐いた。 終わった。 航太と千尋に直接言ったわけではない。 二人も、凪生が答えたとは知らない。 それでいい。 友達として介入したのではない。 依頼文と音声から答えを出し、最終判断は片平がした。 杜灯恋愛相談室からの回答として、二人へ返した。 「疲れた」 凪生はソファの背に沈んだ。 「そうだろうな」 「でも、嫌じゃなかった」 「そうか」 「うん」 片平は凪生の隣へ座った。 触れてはこない。 さっき抱かれていた身体には、それが少し物足りない。 凪生は自分から、片平の肩へ少しだけ寄った。 片平は動かなかった。 逃げない。 押し返さない。 ただ、凪生が寄った分だけ受け止める。 「征路」 「何だ」 「今日は待てって言うなよ」 「言わない」 凪生の胸が跳ねた。 顔を上げると、片平は前を見たままだった。 「今日は、もう止まっただろ」 「ああ」 「次の話をしてる」 「分かっている」 凪生はそれ以上聞けなかった。 でも、片平の声には迷いがなかった。 **** 翌日、大学の中庭で、凪生は航太と千尋を遠くから目に留めた。 二人はベンチの近くにいた。 航太が何かを言い、千尋が少し笑う。 距離が、前より自然だった。 肩が触れるか触れないかの近さで、千尋が航太の袖を軽く摘まむ。 航太はそれに気づいて、照れたように笑った。 凪生は立ち止まった。 胸は、少しだけ痛んだ。 昔と同じ三人には戻れない。 二人だけの視線がある。 二人だけの触れ方がある。 その場所に、凪生は入らない。 寂しい。 その寂しさは、消えたふりをしなくていい。 それでも、二人の距離を壊してほしいとは思わなかった。 航太がふと顔を上げた。 凪生と目が合う。 航太の表情が一瞬固まり、それから、少し遠慮がちに手を上げた。 千尋も凪生へ気づく。 その顔に、心配と期待が混ざる。 凪生は少しだけ迷った。 それから、手を上げ返した。 航太の肩から力が抜ける。 千尋が笑った。 二人の隣へ行くことはしなかった。 今は、それでいい。 凪生は心の中で言った。 うまくやれよ。 二人きりの時は、ちゃんと二人だけでいろ。 三人でいる時は、また三人で笑えばいい。 凪生は踵を返した。 スマホを出す。 片平へ送る文面を開いた。 『二人を見た』 少し考えて、続ける。 『少し寂しかったけど、うまくやれよって思った』 送信する。 すぐに既読がついた。 片平からの返信は短かった。 『そうか』 それだけだった。 成長したとも、正しいとも言わない。 片平は、凪生が自分で選んだ気持ちを、そのまま受け取った。 凪生はスマホを下ろした。 風が、中庭の木を揺らす。 航太と千尋の笑い声が、遠くで小さく響いた。 胸は少しだけ痛い。 でも、その痛みごと二人の幸せを願える。 三人だった場所は、なくなったわけではない。 形を変えて、まだここにある。 そして凪生には、別の場所もできようとしている。 片平の隣。 仕事だけではない場所。 恋人として、改めて誘われる場所。 凪生は軽く息を吐いて歩き出した。 胸の奥には、寂しさと甘さが、どちらも残っていた。 それでよかった。

ともだちにシェアしよう!