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第8話 元恋人
凪生は、自分が分かりやすい人間になった気がしていた。
片平からの返信が少し遅いだけで、スマホを確認する。
杜灯恋愛相談室へ向かう日は、服を選ぶ時間が増える。
片平が短く褒めた色のシャツを、無意識に手に取っている。
ひどい。
かなりひどい。
これで片平に伝わっていないと思うほど、凪生も鈍くない。
むしろ、伝わっていると思う。
片平は、ああいう男だ。
気づかないはずがない。
それでも片平は、いつも最後のところだけ越えてこない。
検証では近い。
声も低い。
触れ方も熱い。
けれど、終わると必ず一歩引く。
凪生は、それが腹立たしかった。
(好きなら来いよ)
心の中で何度もそう思った。
でも、言えない。
言えば負ける気がする。
もうとっくに負けているのに。
その日、凪生がカードキーで部屋に入ると、片平はデスクではなくソファにいた。
景窓には、夜の街の灯りが静かに滲んでいる。
香炉に火は入っていない。
タブレットも開かれていない。
「お疲れ」
「お疲れ。今日、案件は?」
「ない」
凪生は靴を脱ぐ手を止めた。
「ないのに呼んだのかよ」
「話したかった」
片平の声は、いつもより低かった。
凪生は、胸の奥を軽く掴まれたような気がした。
「何を」
「俺のことを」
その言い方で、凪生は黙った。
片平が、自分から自分の話をする。
それだけで、何か大きなものが始まる気がした。
凪生はソファの向かいに座る。
距離は近くない。
でも、部屋の空気は妙に熱かった。
「昔、恋人がいた」
片平はそう言った。
凪生の喉が小さく詰まる。
「男?」
「ああ」
「……聞きたくない」
「なら、やめる」
「でも、聞かないのも嫌だ」
凪生は眉を寄せた。
自分で言っていて面倒くさい。
でも本音だった。
片平は少しだけ息を吐く。
「愛宕透という男だ」
名前が出た瞬間、凪生の胸がきしんだ。
片平が好きだった相手。
片平を知っていた相手。
凪生の知らない片平を、先に持っている相手。
それだけで、喉の奥が苦くなる。
「透とは、気持ちはあった」
片平の声は静かだった。
「だが、身体が合わなかった」
凪生は顔を上げた。
片平は誤魔化さなかった。
「互いに好きだった。大事にしたかった。けれど、欲の強さや、受け止められる熱が噛み合わなかった。俺が求めるほど、透には負担になった。抑えれば、俺も透も満たされなかった」
凪生は、指先を握った。
聞きたくない。
でも、聞くべきだと思った。
片平が今もその男を好きだと言いたいわけではない。
むしろ、違う。
片平は、何かを伝えようとしている。
「それで別れたのか」
「それだけではない。だが、大きかった」
「……ふうん」
凪生は、なるべく平気な声を出した。
全然、平気ではなかった。
片平が誰かを大事にしていた。
その誰かと、身体が合わなかった。
そこまで聞いて、凪生の中に、嫌な感情だけではないものが湧いた。
片平が、自分にこの話をしている意味。
そこへ、意識が向く。
「それを、俺に話す理由は?」
片平は、少し長く黙った。
それから、凪生へまっすぐ視線を向けた。
「お前を好きになった理由を、身体の相性だけにしたくない」
凪生の胸が鳴った。
「お前は、自分で考える。分からなければ食い下がる。俺が決めつければ怒るし、引けば追ってくる。最後には、誰かに与えられた答えではなく、自分で選んだ言葉を出す」
片平の声は静かだった。
「そういうお前を見ているうちに、仕事だけでは済まなくなった」
凪生は何も言えなかった。
胸の奥が熱くなり、握っていた指先まで震える。
片平は視線を逸らさず、続けた。
「その上で、お前とは、合う」
凪生の胸が、どくんと鳴った。
「……は?」
「検証のたびに思った。お前は、俺の熱を受け止める。受け止めるだけじゃない。返してくる。依頼者の感情に引かれている時でも、その奥にお前自身の欲がある」
片平の声が低くなる。
「あのホテルの時もそうだ」
凪生の顔が熱くなった。
あのホテル。
遠隔検証具の確認。
片平の操作。
高まった身体。
責任を取れと迫った自分。
でも本当は、ずっと分かっていた。
自分が片平に触れられたかっただけだ。
「お前は、自分で俺を求めた」
片平は言った。
「俺も、お前を求めた」
凪生の息が止まった。
片平は視線を逸らさない。
「凪生」
名前を呼ばれただけで、身体が熱を持つ。
片平の声は静かなのに、どこまでも深かった。
「好きだ」
凪生は、何も言えなかった。
欲しかった言葉だった。
ずっと欲しかった。
なのに、実際に言われると、胸が詰まって、すぐには返せない。
「仕事だけでは、もうお前を扱えない。検証相手としてだけでもない。お前に触れたい。お前が欲しい」
凪生の手が震えた。
胸の奥が熱くなりすぎて、痛い。
「……遅ぇよ」
やっと出た声は、掠れていた。
片平の目がわずかに揺れる。
凪生は立ち上がった。
ソファの前まで行き、片平を睨む。
「遅すぎる」
「凪生」
「俺、けっこう分かりやすかっただろ」
「ああ」
「知ってたのかよ」
「知っていた」
「最悪」
凪生は片平のシャツを掴んだ。
「じゃあ、何でずっと来ないんだよ」
片平はすぐには答えなかった。
凪生は、その沈黙が嫌で、さらに距離を詰める。
「俺も好きだよ」
言った瞬間、腹の奥が熱くなった。
言ってしまった。
でも、もう止まらなかった。
「好きだ。お前がいい。検証じゃなくても、案件じゃなくても、あのホテルの時からずっと、お前がいい」
片平の手が上がる。
凪生の頬へ触れる。
指先が少し熱い。
それだけで、凪生の胸が甘く崩れた。
「なら、いいだろ」
凪生は言った。
「今でいいだろ」
片平の指が、凪生の頬を包む。
「よくない」
「何で」
「俺の問題だ」
片平の声は低かった。
「お前の気持ちを疑っているわけじゃない」
「じゃあ何だよ」
「俺は、お前に仕事で触れてきた」
凪生は息を止めた。
「案件を理解させるために、検証させた。香を使い、依頼者の感情に入らせ、身体の反応まで扱った。俺はその立場にいた」
片平の手が、凪生の頬から離れかける。
凪生はその手首を掴んだ。
離すな。
言葉にしなくても、手がそう言っていた。
片平は、離さなかった。
「その俺が、好きだと告げたその場で、深く進めるのは違う」
「違わねぇよ」
「違う」
片平の声に、強さが戻った。
「俺が、お前をこの仕事の中で導いてきた事実は消えない。ここで欲のままに進めば、俺は自分の立場に甘える」
「俺は嫌じゃない」
「分かっている」
「分かってて止めるのかよ」
「ああ」
凪生は歯を食いしばった。
腹が立つ。
でも、片平が何を言っているのか、分かってしまう。
片平は、凪生を拒んでいるわけではない。
むしろ、好きだから止まっている。
それが、余計に腹立たしかった。
「俺、我慢できない」
凪生は低く言った。
片平の視線が熱を帯びる。
「分かっている」
「分かってんなら、少しはどうにかしろよ」
片平は短く息を吐いた。
それから、凪生の腰を引いた。
一気に近づく。
凪生の身体が片平の膝の間へ入る。
腕が背に回る。
強い。
優しいだけじゃない。
離す気のない力だった。
凪生の息が乱れた。
「っ、そういうの」
「嫌か」
「嫌じゃない」
「なら、続ける」
片平の唇が、凪生の額に落ちた。
頬へ。
目元へ。
唇の端へ。
いつものように、真ん中だけを外す。
凪生は焦れて、片平の襟を掴んだ。
「そこじゃない」
「分かっている」
「分かってるなら」
凪生は自分から唇を重ねた。
片平は止めなかった。
むしろ、受け止めた。
唇が深くなる。
凪生の背中が震えた。
片平の手が、服越しに背をたどる。
温度が移る。
呼吸が混ざる。
凪生は、片平のシャツを握りしめる。
「征路」
呼んだ瞬間、片平の腕に力がこもった。
「もう一度」
低い声だった。
凪生は耳まで熱くなる。
「征路」
片平の唇が首筋へ下りる。
凪生の身体が跳ねた。
「っ、そこ、弱い」
「知っている」
「知ってるとか言うな」
「何度も確かめた」
「仕事でだろ」
片平の動きが止まった。
凪生は、自分で言ってしまった言葉に気づく。
部屋の空気が、一瞬だけ変わった。
片平は凪生を抱いたまま、低く言った。
「だからだ」
凪生の胸が詰まる。
片平は、凪生の首筋から唇を離した。
けれど腕はほどかない。
「ここまでだ」
「……嫌だ」
「分かってくれ」
「嫌だ」
「凪生」
「好きって言っただろ。欲しいって言っただろ」
「ああ」
「じゃあ、何で」
「好きだからだ」
凪生は何も言えなくなった。
片平の声が、いつもより苦い。
「お前を、仕事の続きみたいに抱きたくない」
片平の手が、凪生の背をゆっくり撫でる。
「俺はお前を好きだ。欲しい。だからこそ、俺からちゃんと誘いたい。検証の流れでも、部屋の熱でも、お前の我慢できなさに乗る形でもなく」
「俺が誘ってんだろ」
「それでもだ」
「頑固すぎる」
「そうだな」
「ムカつく」
「分かっている」
片平は、凪生を強く抱きしめた。
凪生はその胸に額を押しつける。
身体はまだ熱い。
唇も首筋も、片平の触れた場所が全部、片平を求めている。
止まるなんて無理だ。
そう思う。
でも、片平の腕の強さが、告げていた。
拒絶ではない。
これは待てという腕だ。
本気で欲しいから、今は待てという腕だ。
「……いつまで」
凪生は小さく聞いた。
片平の手が止まる。
「俺が、自分の立場を理由にせず、お前を恋人として改めて誘える時までだ」
凪生は顔を上げた。
「恋人」
片平は、凪生をまっすぐ捉えた。
「そうだ」
凪生の胸が鳴る。
恋人。
その言葉が、遅れて身体に染みた。
「じゃあ、俺たち、もうそういうこと?」
「気持ちは同じだ。だが、始めるのは、俺が改めて誘ってからにしたい」
「……ずるい」
「何が」
「ちゃんと好きって言って、欲しいって言って、恋人にしたいって言って、それで待てって言うとこ」
片平の口元が少しだけ緩む。
「待てるか」
「待てない」
「そうか」
「でも」
凪生は片平のシャツを掴んだまま、悔しそうに言った。
「好きで、欲しくて、恋人にしたい。そこまで分かった」
「ああ」
「だったら、今日はそれで許してやる」
片平の目が、ほんの少し甘くなる。
「許してくれるのか」
「調子乗んな」
片平が低く笑った。
その笑い方に、凪生の胸がまた熱くなる。
腹立つ。
好きだ。
どうしようもなく。
凪生は片平の胸に額を押しつけたまま、少しだけ黙った。
身体は不完全燃焼だった。
でも、胸の奥は満たされていた。
片平の気持ちを知った。
好きだと言われた。
欲しいと言われた。
恋人として改めて誘いたいと言われた。
それだけで、今日は帰れる気がした。
たぶん。
かなり危ないけど。
「この先、変な止め方したら怒る」
「怒っていい」
「だから、そういうのやめろ」
「何がだ」
「俺が何言っても受け止めるとこ」
「好きだからな」
凪生は顔を上げた。
「今、それ言うな」
「悪い」
「悪くない」
片平は凪生の頬にもう一度触れた。
今度は短く、優しく。
「凪生」
「何」
「待ってくれ」
凪生は、唇を噛んだ。
本当は嫌だ。
今すぐ欲しい。
片平に全部奪われたい。
けれど、片平が「待ってくれ」と言った。
命令ではない。
お願いだった。
だから、凪生は乱れた息を整えた。
「……少しだけな」
片平の目が和らぐ。
「ありがとう」
「礼言うな。余計にムカつく」
少しだけ空気が緩んだ。
凪生は片平から身体を離す。
離れた瞬間、寒い。
さっきまで片平の腕の中にいたせいだ。
凪生は乱れた服を直しながら、片平を睨んだ。
「今日は帰る」
「ああ」
「送んなくていい」
「ああ」
「……引き止めろよ、ちょっとは」
片平が立ち上がった。
凪生の前まで来る。
そして、凪生の髪に指を通す。
「帰したくない」
凪生の身体が固まる。
「だが、帰す」
「ほんと、最悪」
「そうだな」
「好きだけど」
言ってしまってから、凪生は顔を背けた。
片平は何も言わなかった。
ただ、凪生の髪に触れていた指が、少しだけ熱を持った。
扉の前で、凪生は振り返る。
片平はまだそこにいた。
「またな」
「ああ」
凪生はドアを開けかけて、止まった。
「征路」
片平の視線が向く。
凪生は息を吸った。
「俺も、恋人にしたい」
片平の目が揺れた。
「だから、早く誘え」
言い終わる前に、顔が熱くなる。
凪生は返事を待たず、部屋を出た。
外の空気は冷たかった。
身体の奥には、まだ熱が残っている。
唇にも、首筋にも。
でも、それ以上に、胸の奥が熱かった。
好きだ。
お前が欲しい。
恋人として改めて誘いたい。
片平の言葉が、何度も繰り返される。
凪生はエレベーターの壁に背を預けた。
「……不完全燃焼すぎるだろ」
小さく呟く。
それでも、口元が緩みそうになる。
最悪だ。
片平のせいだ。
でも、今日は許してやる。
片平の気持ちを知れたから。
そして今度、誘うのは片平だ。
仕事でも、検証でもなく。
恋人として。
その約束だけで、凪生はもう少しだけ待てる気がした。
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