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第7話 独占欲の処方箋
凪生は、スマホの画面を何度も開いていた。
片平からの最後の返信は、短かった。
『触れない』
国見には触れない。
たったそれだけの言葉を、昨日から何度も確かめている。
馬鹿みたいだ。
自分でも分かっている。
でも、画面を開くたびに胸の奥が甘く鳴る。
国見に嫉妬して、自分でも引くくらいの文章を送った。
消すつもりだったのに、消せなかった。
送った。
送ってしまった。
それに対して、片平は余計な言葉をつけなかった。
ただ、触れない、と返した。
それがずるい。
凪生は大学のベンチでスマホを伏せ、額を押さえた。
「何してんだよ、俺」
航太と千尋への胸の痛みとは、まるで違う。
航太と千尋の時は、自分だけ置いていかれたようで痛かった。
三人の場所が変わってしまったようで、息が苦しかった。
でも、片平に関しては違う。
誰にも渡したくない。
国見が過去に片平の検証相手だったと聞いただけで、胸の奥が焦げた。
片平の手を知っている。
声を知っている。
杜香の中で崩される熱を知っている。
それが嫌だった。
嫌で、たまらなかった。
「重い」
声に出して、凪生は顔をしかめた。
それでも、今日はバイトの日だった。
定禅寺裏のビルに着くころには、空が薄く沈み始めていた。
凪生はカードキーで杜灯恋愛相談室の扉を開ける。
「お疲れ」
「お疲れ」
片平征路はソファにいた。
黒いシャツに、膝の上のタブレット。
昨日、国見に触れないと返した男が、何事もなかったように仕事場で待っている。
凪生はそれだけで顔が熱くなった。
「何だ」
「何でもねぇ」
「昨日の返信を気にしているのか」
「いきなり何でそこなんだよ」
「頬に出ている」
「頬って言うな」
片平は少しだけ目を細めた。
「国見の件は、必要ならもう一度言う」
「言わなくていい」
「そうか」
「言わなくていいけど」
凪生はソファに腰を下ろし、クッションを抱えた。
言わなくていい。
でも、もう一度聞きたい。
そう思っている自分が、本当に面倒くさい。
片平はそれ以上追わなかった。
タブレットを操作し、景窓を切り替える。
「今日の案件だ」
「何」
「独占欲が強い受け側と、熱量の強い攻め側」
凪生は顔を上げた。
「……今の俺にそれやらせる?」
「だからいい」
「性格悪い」
「必要な案件だ」
片平は平然としている。
けれど、凪生は分かってしまった。
片平は、凪生が昨日から嫉妬を引きずっていることに気づいている。
だからこの案件をあてた。
偶然ではない。
腹が立つ。
でも、少しだけありがたい。
そう思ってしまうのが、また腹立たしい。
映像が始まった。
画面の中にいたのは、年上の男と、少し若い男だった。
個人名は伏せられている。
年上側は、隙のないスーツ姿が似合う。
声も落ち着いている。
仕事場では人を従える側なのだと、姿勢だけで分かる。
若い恋人は、素直そうな顔をしていた。
けれど、視線に熱がある。
年上側へ向ける目が、まっすぐで重い。
好きだと全身で言っているような熱だった。
二人は恋人同士だった。
問題は、年上側の独占欲だった。
映像の中で、年上側は言う。
『お前が誰と飲みに行くか、全部知りたい』
若い恋人は少し笑った。
『知りたいなら言います』
『誰に触れられたかも』
『触れられていません』
『誰に笑ったかも』
『あなた』
若い恋人が、少しだけ眉を下げる。
『俺、あなたのことが好きです』
年上側は、そこで視線を伏せる。
『分かっている』
分かっている。
そう言いながら、分かっていない顔をしていた。
凪生は息を止めた。
分かる。
分かっているのに、不安になる。
相手が自分を好きだと分かっていても、他の誰かに向ける笑顔や、触れる手や、過去に知っている誰かが気になる。
好きだから、全部欲しくなる。
映像は寝室へ移った。
若い恋人は、年上側へまっすぐ近づく。
その目は熱い。
隠す気もない。
年上側は受け止めようとした。
けれど、すぐに肩へ手を置いた。
『待て』
『またですか』
『少し落ち着け』
『落ち着いています』
『その顔で言うな』
若い恋人は黙った。
それでも、視線だけは年上側から外れない。
『俺は、あなたに触れたいだけです』
年上側の指が、相手の肩に置かれたまま止まる。
『分かっている』
『じゃあ、どうすればいいんですか』
年上側は答えられなかった。
二人の間で、熱だけが行き場を失っていた。
映像が止まった。
凪生はしばらく黙っていた。
「どう考える」
片平が聞く。
凪生は腕を組んだ。
「攻め側の熱が強すぎるなら、外で処理すればいいんじゃねぇの」
片平は黙っている。
凪生は少しだけ言いづらくなったが、続けた。
「店でも、自分でも。受け側に全部向けるから、受け止めきれなくなるんだろ。先に抜いてから来れば、ちょうどいいんじゃねぇの」
片平はすぐに首を振った。
「違う」
「早い」
「それをしたら、受け側はさらに不安になる」
「でも、受け止めきれないんだろ」
「あの受け側が欲しいのは、相手の熱を減らすことじゃない」
凪生は口を閉じた。
胸の奥に、嫌なほど刺さる。
自分もそうだった。
片平の熱を、他の誰かや他の場所で処理されたいわけではない。
減らしてほしいわけでもない。
自分へ向けてほしい。
自分だけで、苦しくなってほしい。
「じゃあ、何が欲しいんだよ」
片平はタブレットを伏せた。
「鍵だ」
「鍵?」
片平は小さな黒いケースを取り出した。
凪生は嫌な予感で、眉を寄せる。
「検証具だ」
「またろくでもないやつだろ」
「今日は分かりやすい」
「分かりやすい方向が最悪なんだよ」
片平はケースを開けた。
中に入っていたのは、滑らかな金属の管理具だった。
直接的な形ではない。
けれど、どういう目的で使うのかは分かる。
小さな鍵が光っていた。
凪生は耳まで熱くなった。
「……管理するやつ?」
「そうだ」
「堂々と言うな」
「独占欲を形にするには、これが早い」
「何か、急に本気じゃん」
「今日の案件には合う」
片平は落ち着いていた。
その落ち着きが余計に危ない。
「攻め側の熱を外へ向けさせない。受け側が鍵を持つ。合図まで待たせる。最後に、受け側が解く」
「……それ、攻め側きつくねぇの」
「きつい」
「言い切った」
「だから、攻め側は願う。受け側に許されたいと」
凪生の喉が鳴った。
願う。
片平の声で言われると、その言葉がやけに熱い。
「検証する」
「だよな」
「嫌なら」
「やる」
即答だった。
片平が一瞬だけ黙る。
「今日は早いな」
「分かりやすいんだろ。だったらやる」
「分かった」
片平は杜香に火を入れた。
今日の香りは、苦くて甘い。
焦げた果実みたいな匂いが、胸の奥へ落ちてくる。
凪生はベッドへ移動し、片平を待った。
片平が近づく。
凪生の身体は、もう反応していた。
嫉妬が残っている。
国見に触れないと言われて、安心したのに、それだけでは足りない。
もっと欲しい。
片平の口から、誰にも触れないと言われたい。
自分だけだと、言わせたい。
でも同時に、片平に言われたいとも思う。
お前だけだ。
そう言われたい。
その言葉で、自分も縛られたい。
杜香が深くなる。
目の前の片平が、映像の攻め側の熱をまとっていく。
若く、まっすぐで、欲を隠せない男の感情。
けれど、凪生の中に入ってくるのは、受け側の独占欲だった。
相手の熱が、どこにも行かないようにしたい。
自分だけを思って苦しくなってほしい。
自分の合図まで待ってほしい。
それでいて、最後には自分をめちゃくちゃに欲しがってほしい。
欲張りだ。
ひどく欲張りだ。
でも、その欲が分かってしまう。
片平の手が、検証具を取る。
金属の管理具が、片平の昂りを覆うように固定される。
鍵が掛かれば、自分で外すことも、昂りを逃がすこともできない。
解けるのは、鍵を持つ凪生だけだった。
攻め側の役である片平が、凪生の前でわずかに息を止める。
杜香の中では、彼もまた依頼者の熱に引かれている。
欲しい。
触れたい。
早く許されたい。
その感情が、片平の低い呼吸に滲む。
凪生の手の中に、鍵が渡された。
小さい。
こんな小さなものが、相手の熱を止めている。
相手の限界を、自分の手に預けさせている。
凪生の指先が震えた。
「まだだ」
凪生の口が言った。
声が低く、命じるように響いた。
片平の動きが止まる。
凪生の胸が跳ねた。
片平が止まった。
自分の声で。
いや、これは依頼者の言葉だ。
年上側の感情だ。
そう分かっているのに、片平が凪生の声で止まったことが、身体の奥を甘く震わせた。
「お願いします」
片平が言った。
攻め側の声だ。
待たされて、焦れて、それでも相手の許しを求めている声。
凪生は息を吸った。
「誰に許されたい」
「あなたに」
片平の声が熱い。
依頼者の言葉だ。
そう分かっているのに、片平の口から出るとたまらない。
凪生は鍵を握った。
金属の冷たさが手のひらに食い込む。
「言え」
「あなたに許されたい」
「誰のことだけ考えている」
「あなたのことだけです」
胸が熱で痛くなる。
欲しかった言葉だった。
依頼者の言葉でもいい。
杜香の中でもいい。
片平の声で聞きたかった。
「なら、まだ待て」
片平の呼吸が乱れる。
凪生の背中にぞくりと熱が走った。
片平が、自分の合図を待っている。
片平の熱が、どこにも行けず、自分へ向いている。
それが、こんなにも甘い。
「もう限界です」
片平の声が低く震えた。
凪生は内側から崩れそうになった。
攻め側が願っている。
受け側に許されたがっている。
その熱を、凪生が握っている。
本当は、これは依頼者の感情だ。
でも、凪生の胸には片平の名前が浮かんでいる。
征路。
言葉にはしなかった。
声にしたら、もう戻れない気がした。
「俺だけを考えろ」
凪生の口が言った。
年上側の言葉だった。
けれど、内側で凪生自身も震えた。
片平が、自分だけを考えている。
そう思うだけで、頭が白くなりそうだった。
「はい」
片平が答える。
「あなたのことだけを考えています」
凪生は鍵を持つ手に力を込めた。
もう駄目だった。
焦らしているのは自分なのに、自分の方が限界に近い。
片平が願うたびに、片平の呼吸が乱れるたびに、自分の身体まで奥から熱くなる。
「お願いします」
片平がもう一度言った。
「許してください」
凪生の唇が震えた。
この言葉を、片平に言わせたかった。
この姿を、片平にさせたかった。
片平の熱を、自分だけが止めて、自分だけが解ける。
その事実が甘すぎて、凪生の身体はもう保たなかった。
「いい。今だ」
声が出た。
「許す。全部、俺に向けろ」
凪生が鍵を回す。
管理具が外れる。
その瞬間、片平の熱が一気に凪生へ向かってきた。
待たされていたものが、全部凪生へ注がれる。
片平の手が腰を引き寄せる。
唇が首筋へ落ちる。
腕が強くなる。
「っ、急に」
凪生の声が跳ねた。
攻め側の熱が解かれた瞬間、受け側もまた大きく崩れる。
自分で許したのに、自分が受け止めきれない。
けれど、嫌じゃない。
むしろ、それが欲しかった。
片平の呼吸が耳元で乱れる。
「全部、あなたに」
その声で、凪生の背中が大きく震えた。
凪生はシーツを掴んだ。
身体の奥が熱で満ちていく。
待たせて、焦らして、最後に自分へ向けさせる。
その答えが、言葉ではなく身体へ流れ込んでくる。
外へ処理させるのではない。
薄めるのでもない。
相手の熱を、自分だけのところまで高める。
そして、自分の合図で受ける。
こんなの、ずるい。
そう思った。
片平の熱が、凪生へ向かってくる。
杜香の感情に乗せられているのに、凪生には片平自身が自分を欲しがっているように感じられた。
もう思考が追いつかない。
「もっと」
凪生の声が漏れる。
「もっと、俺だけに」
片平の腕が強くなる。
「あなたにだけ」
依頼者の言葉だ。
そう分かっているのに。
片平の声で言われると、胸の奥まで支配される。
凪生は頭の中が真っ白になった。
身体が熱に弾ける。
相手の熱を解いたはずなのに、自分の方が深く崩れていく。
あまりの気持ちよさに、身体が浮くような感覚がした。
息が途切れる。
声が甘く壊れる。
片平の腕の中で、凪生は何も考えられなくなった。
昇天する。
そんな言葉が、ぼんやり浮かんだ。
そのくらい、強かった。
杜香の匂いが薄れていく。
凪生は、片平の腕の中でしばらく動けなかった。
身体の奥に、まだ熱が残っている。
片平はすぐに離れなかった。
そのまま、凪生の背中を支えていた。
「分かったか」
片平の声がした。
低く、少しだけ掠れている。
凪生は目を閉じたまま答えた。
「分かった」
「なら、お前はどう見る」
凪生は息を整えた。
「あの受け側は、攻めの熱を減らしたいんじゃない」
「ああ」
「外で処理されたら、むしろ嫌なんだ。自分以外で楽になられたら、不安になる」
片平は黙って聞いている。
「本当は、自分だけに欲情して、自分の合図まで待って、自分に全部向けてほしい。だから鍵を持つ。相手の熱を消すんじゃなくて、自分へ向けたまま高めるために」
「その先は」
「攻め側も、ただ苦しいだけじゃない。待たされるほど、相手しか考えられなくなる。最後に許された時、全部その相手へ向かう」
片平の目が静かに凪生を捉える。
「俺も、そう見る」
短い声だった。
凪生はようやく目を開けた。
片平はすぐ隣にいる。
近い。
近すぎる。
「管理って、そういうことか」
「そうだ」
「相手を縛りたいだけじゃない。相手の熱を、ずっと自分に向けさせたいんだ」
「そして、最後に解く」
「……言い方」
片平は少しだけ笑った。
その笑い方に、凪生の胸が跳ねる。
「お前、途中で少し本人に戻っただろ」
凪生は言った。
片平の目が静かになる。
「お前もだ」
「俺は」
言い返そうとして、止まる。
もっと、俺だけに。
そう言った。
あれは、依頼者の言葉だけではなかった。
凪生の本音も混ざっていた。
「……検証だろ」
「それだけではない」
片平の声は低かった。
凪生は喉の奥が熱くなる。
「お前さ」
「何だ」
「俺をどうしたいんだよ」
言ってから、後悔した。
でも、もう遅い。
片平はすぐに答えなかった。
その沈黙が、かえって本気に聞こえた。
「大事にしたい」
凪生の息が止まった。
「ただ、それだけでは足りないらしい」
片平の視線が、凪生の手元へ落ちる。
シーツを握っていた指先。
まだ少し震えている。
「俺は、お前を待たせるつもりはなかった」
「待たせてんじゃん」
「そうだな」
片平は短く認めた。
「俺の問題だ」
「それ、また言う」
「事実だ」
「俺も入れろよ」
言ってから、凪生は自分で驚いた。
片平も、少しだけ目を細めた。
「お前だけで考えんな。俺も、ちゃんと欲しいんだよ。嫉妬するし、昨日みたいなこと送るし、今日だって……」
今日だって。
片平に独占されたいと思った。
あなたにだけ、と言われて、胸が熱くなった。
片平の熱を自分だけが握っている感覚に、身体の奥から喜んだ。
「俺は、これが欲しい」
片平は凪生を静かに捉えた。
「そうか」
「何だよ」
「お前が自分で決めたなら、それでいい」
凪生は口を閉じた。
片平はいつも、最後のところは凪生に委ねる。
言わせる。
選ばせる。
それが腹立たしくて、好きだった。
「……そう言ったら、どうすんだよ」
「お前が望むなら、応える」
凪生の胸が鳴った。
「何でも?」
「何でもではない」
「そこは乗れよ」
「お前を大事にできる範囲でなら」
凪生は顔を背けた。
ずるい。
本当にずるい。
そんな言い方をされたら、もっと欲しくなる。
片平に大事にされたい。
でも、大事にされるだけじゃ足りない。
片平の熱も欲しい。
片平が余裕を失うところも、自分だけに向けてほしい。
「……今日は帰る」
凪生は立ち上がった。
これ以上ここにいたら、また何か言う。
片平は止めなかった。
「ああ」
凪生は服を整え、荷物を取った。
扉の前で振り返る。
「また次」
「ああ」
短い返事。
それだけでいいはずだった。
でも、今日は足が少し止まった。
凪生は唇を噛み、それから言った。
「さっきの」
「何だ」
「あなたにだけ、ってやつ」
片平の視線が静かに向く。
「……検証の言葉でも、悪くなかった」
言った瞬間、顔が熱くなった。
何を言っているんだ。
もう少しまともに言えなかったのか。
片平は少しだけ黙った。
それから、低く言った。
「なら、覚えておけ」
凪生の胸が跳ねる。
「何を」
「俺は、言葉を軽く使わない」
それだけ言って、片平は視線を逸らした。
凪生は何も返せなかった。
****
何も言えないまま、扉を開けた。
外の空気は冷えていた。
定禅寺裏の夜を歩きながら、凪生は胸を押さえた。
独占欲。
自分だけに向けてほしい熱。
自分の合図まで待ってほしい気持ち。
自分の合図で、その熱を受け止めたい欲。
全部、分かってしまった。
そして、それを片平相手に望んでいる自分も。
駅のホームでスマホを確認する。
片平からの連絡はない。
凪生は少し迷って、自分から送った。
『今日の案件、分かった』
送ってから、すぐに既読がつく。
片平から返ってきた。
『よくできた』
短い。
たったそれだけ。
でも、凪生はホームで顔を伏せた。
褒められたい。
認められたい。
片平だけに、そうされたい。
「重いって」
自分で言って、ため息をついた。
でも、もう否定できなかった。
片平の熱を、自分だけに向けさせたい。
そして、片平の言葉で、自分だけだと言われたい。
電車が入ってくる。
風が吹く。
凪生はスマホを胸元に押し当てた。
本当に、かなりまずいところまで来ている。
それなのに、胸の奥はどうしようもなく甘かった。
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