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第6話 元検証相手
今日は、扉を開けた瞬間から空気が違った。
凪生はカードキーで杜灯恋愛相談室に入り、いつものように声をかけようとして、足を止めた。
ソファに、知らない男が座っていた。
長い脚を組み、片肘を背もたれに預けている。
年は片平と同じくらいか、少し下。
明るい茶色の髪をゆるく流し、白いシャツの襟元を崩している。
きれいな顔をしているのに、どこか軽い。
甘い空気をわざとまとっているような男だった。
その男が、凪生へ視線を向けた。
「へぇ」
たったそれだけで、凪生はむっとした。
「お疲れ」
奥のデスクから片平征路の声がした。
いつも通りの声。
けれど、いつも通りなのが逆に腹立たしい。
「……お疲れ」
凪生は靴を脱ぎ、ソファの方へ進んだ。
知らない男は、凪生の髪、首元、肩の力を順に確かめるように目を細めた。
「君が今の子?」
今の子。
その言い方で、凪生のこめかみが跳ねた。
「誰」
凪生が低く言うと、男は楽しそうに肩を揺らした。
「国見佳月。前にここで、片平の検証相手をしてた」
凪生の胸が、嫌な音を立てた。
前にここで。
片平の検証相手。
つまり、この男は知っている。
杜香の匂いも、景窓の光も、ベッドの熱も。
片平の手も、声も、検証中にどれだけ身体を崩されるかも。
凪生は片平へ視線を向けた。
片平はデスクから立ち上がり、淡々と言った。
「国見は元スタッフだ。今日は依頼者側として来ている」
「依頼者?」
「そう。今の恋人とね」
国見佳月は、凪生の反応を楽しむように目を細めた。
「そんな顔しなくても、片平を取りに来たわけじゃないよ」
「そんな顔してねぇ」
「してる。かわいいね」
「は?」
片平が短く言った。
「国見」
その一言で、国見は両手を上げた。
「はいはい。仕事の顔、怖いんだから」
凪生は、そのやり取りだけで胸がざらついた。
距離が近い。
昔から知っている感じがする。
片平の短い制止も、国見の軽い返しも、二人の間に過去の時間があることを嫌でも感じさせる。
昨日まで、凪生は片平との距離でいっぱいいっぱいだった。
片平にされる側でいたい。
片平を崩したい。
片平に可愛いと思われたい。
そんな感情を認めたばかりだった。
なのに、いきなり前の相手が来た。
最悪だ。
「凪生」
片平の声が落ちる。
「今日は同席するか、外すか選べる」
「やる」
即答だった。
片平の目が少し細くなる。
「いいのか」
「いい」
国見の前で引くのは嫌だった。
何に対して張り合っているのか、自分でも分からない。
でも、この男の前で「やめる」とは言いたくなかった。
国見はまた楽しそうに笑う。
「若いなぁ」
「うるせぇ」
「うん、片平が好きそう」
凪生の息が止まった。
片平が、今度ははっきり国見を制した。
「それ以上はやめろ」
その声は低かった。
国見は笑みを薄くした。
「悪い。癖で」
癖。
元検証相手として、相手の反応を煽る癖なのだろうか。
それとも、片平との間でそういう言葉を交わしてきたのか。
考えたくないのに、考えてしまう。
片平は景窓を切り替えた。
映ったのは、少し暗い寝室だった。
ベッドの端に座る国見と、隣で肩を落としている男。
国見の現在の恋人らしい。
落ち着いた雰囲気で、優しそうな男だった。
映像の中の恋人は、国見の手を握っていた。
『ごめん。俺、どう触れたらいいのか、まだ分からない』
国見が笑う。
『謝らないで。俺は好きだよ』
『でも、お前、時々どこか遠い』
その言葉に、映像の国見が少しだけ黙る。
現実の国見は、ソファで指を組んでいた。
さっきまでの軽さが薄くなっている。
「相談内容は」
凪生が言うと、片平が答えた。
「恋人は、国見を大事にしようとしている」
「それは分かる」
「だが、映像の国見は何かを待っている」
「何を」
「そこを確かめる」
片平はそこで止めた。
答えを先に置かない。
凪生は少しだけ苛立った。
けれど、その苛立ちの奥に、知りたいという気持ちもあった。
国見は膝の上で手を組んだまま、静かに言った。
「俺、今の恋人が好きなんだよ。片平の検証相手だった頃に戻りたいわけじゃない」
その言葉に、凪生の身体がびくりと反応した。
戻りたいわけじゃない。
戻るという言葉が出るほど、片平との時間が身体に残っているのか。
いや、違う。
国見は元スタッフだ。
片平の元恋人ではない。
そう分かっているのに、胸が勝手に熱くなる。
「でも、身体だけ時々思い出す。ここの検証の時に覚えた熱とか、追い込まれる感じとか。あれを今の恋人に求めていいのか分からない。あいつも、俺をそうしたいのか分からない」
国見の声は、初めて真面目だった。
さっきまで腹立たしかった男が、急に依頼者になった。
恋人を大事にしている男の顔になった。
片平は、最初からその顔を待っていたのかもしれない。
「凪生」
片平が言う。
「どう考える」
凪生は映像へ視線を戻した。
恋人は国見を丁寧に抱きしめている。
国見もそれを受け入れている。
でも、国見の身体はどこか待っている。
もっと強く引き寄せられることを。
途中でやめずに求められることを。
優しいだけではない熱で、自分を奥から満たされることを。
「……片平が、もう一回やればいいんじゃねぇの」
言った瞬間、空気が止まった。
凪生は自分でも馬鹿なことを言ったと思った。
でも、口から出ていた。
「ここの検証で覚えたものが必要なんだろ。なら、知ってるやつがやればいい。片平なら分かるんだろ」
国見が目を丸くして、それから笑いそうになった。
けれど、笑わなかった。
片平は凪生をまっすぐ捉えた。
「違う」
短い声だった。
「国見が欲しいのは、俺じゃない」
凪生の胸が鳴る。
片平は続けた。
「そこだけは外すな」
凪生は何も言えなかった。
分かっている。
分かっているのに、片平の口から「俺じゃない」と言われて、少しだけ息が楽になった。
それがまた悔しい。
「検証する」
片平が言った。
「国見は」
「俺は外で待つよ」
国見は立ち上がった。
「自分のことなのに?」
凪生が言うと、国見は少し笑った。
「だからだよ。俺がいたら、君の感情がそっちへ寄るでしょ」
「は?」
「顔に出るタイプだね」
「出てねぇ」
「出てる」
片平が国見へ視線を向ける。
国見はまた両手を上げた。
「分かった。黙る」
そして、ドアへ向かう直前、国見は凪生へ軽く言った。
「安心しなよ。片平は、君にかなり甘い」
凪生が言い返す前に、国見は外へ出た。
部屋に沈黙が残る。
凪生は片平をにらんだ。
「甘いのかよ」
「さあな」
「そこは否定しろよ」
「否定する理由がない」
凪生の顔が熱くなる。
「……始めろよ」
「いいのか」
「いいって言ってんだろ」
片平は香炉に杜香を入れた。
今日の香りは、少し苦い。
甘さの奥に、焦げた砂糖みたいな熱がある。
吸い込むと、胸の中の嫉妬まで炙られる気がした。
凪生はベッドの端に座る。
片平が近づく。
今日の片平は、いつもより静かだった。
国見の依頼だからか。
凪生が変なことを言ったからか。
分からない。
分からないのに、近づかれるだけで身体は熱くなる。
目を閉じる。
杜香が深く沈む。
好きな人がいる。
優しい。
大事にしてくれる。
丁寧に触れてくれる。
それが嬉しい。
それなのに、身体の奥に、もっと強い熱を待つ場所がある。
ちゃんと捕まえてほしい。
遠慮しないでほしい。
優しさの奥にある欲を、自分へ向けてほしい。
それを望む自分を、嫌わないでほしい。
目を開けると、片平がいた。
「怖がらないで」
凪生の口が言った。
依頼者の声だった。
国見の声ではない。
けれど、国見の感情をなぞっている。
「俺、壊れないから」
片平の目が熱を帯びる。
「本当に?」
片平の声は、恋人側のものだった。
優しくて、迷っている。
強く求めたいのに、相手を傷つけるのが怖い声。
凪生の胸が痛くなる。
国見の恋人は、国見を大事にしている。
大事だから、強くできない。
「本当に」
凪生の口が答える。
「でも、優しくされるだけだと、足りなくなる」
片平の手が、凪生の腕に触れる。
いつもより遅い。
ためらいがある。
そのためらいが、凪生を焦らす。
「どうしてほしい」
片平が聞く。
「捕まえて」
凪生の声が甘く震えた。
「途中でやめないで。俺が欲しいって、分からせて」
片平の指が、凪生の手首を包む。
強くはない。
まだ、迷っている。
凪生の身体が熱を持つ。
もっと。
そう思ってしまう。
片平が自分に触れている。
片平が迷っている。
その迷いを壊したい。
依頼者の感情のはずなのに、凪生自身の欲がそこへ混ざる。
片平に遠慮されたくない。
慎重にされたいわけじゃない。
欲しいなら、欲しいと分かる強さで触れてほしい。
「ちゃんと、捕まえて」
言葉が熱を持って流れていく。
片平の手に力がこもった。
凪生の手首がシーツへ縫い留められる。
息が詰まる。
怖くはない。
むしろ、身体の奥が一気に熱くなった。
「こう?」
片平が低く聞く。
凪生の口が答える。
「もっと」
片平の呼吸が少しだけ乱れた。
凪生はそれに気づいて、胸が跳ねる。
国見の恋人の感情をなぞっているはずなのに、片平自身の熱も混ざっている気がした。
「お前は、強い方がいいのか」
その声は恋人側のものだった。
でも、凪生の耳には、片平自身の問いに聞こえた。
凪生の喉が震える。
「強い方がいいんじゃない」
凪生の口が勝手に答える。
「好きな人が、俺を欲しがってるって分かる方がいい」
片平の目が深くなる。
その目に捉えられると、身体が甘く震えた。
片平が凪生の腰を引き寄せる。
今度は遠慮がない。
凪生の身体がシーツの上で跳ねる。
熱い。
奥まで揺れる。
優しいだけでは届かなかった場所へ、片平の強さが入り込んでくる。
「っ、そう……それ」
依頼者の声が漏れる。
でも、凪生自身も思った。
それ。
欲しかったのは、それだ。
大事にされることと、強く求められることは矛盾しない。
丁寧な手と、迷わない力は同時にあっていい。
「嫌じゃない?」
片平の声が揺れる。
恋人側の不安だ。
凪生はすぐに首を振った。
「嫌じゃない」
声が甘くなる。
「だから、止めないで」
片平の動きが深くなる。
凪生は声を抑えきれなかった。
手首を押さえられたまま、片平の熱を受け止める。
強い。
けれど、怖くない。
片平は凪生の反応を確かめながら、引くところは引き、進むところは迷わない。
それが、たまらなかった。
強いだけじゃない。
片平は分かっている。
どこまでなら熱になるか。
どこから先が違うか。
それを、言葉ではなく手で示してくる。
「もっと、欲しがって」
凪生の口が言う。
「俺のこと、好きなら」
片平の目が揺れた。
その言葉が、国見の感情から出たものだと分かっているのに。
凪生の胸にも刺さった。
好きなら、欲しがって。
好きなら、遠慮しないで。
好きなら、自分を傷つけるかもしれないと怖がるだけじゃなく、自分が求めている熱を信じてほしい。
片平の手が、凪生の頬へ触れた。
強く押さえていた手とは違う、ひどく丁寧な触れ方だった。
「好きだ」
片平の声が落ちる。
恋人側の言葉。
そう分かっているのに、凪生の心臓が止まりそうになった。
「好きだから、欲しい」
片平の低い声が、身体の奥まで届いた。
まずい。
これは国見の恋人の言葉だ。
分かっている。
なのに、片平の声で言われると、どうしようもない。
凪生の目に熱が滲む。
「……っ、じゃあ、ちゃんと」
声が震える。
「ちゃんと、最後まで欲しがって」
片平が凪生を抱きしめる。
その腕は強かった。
でも、怖くなかった。
凪生は片平の肩にしがみついた。
押さえられていた手が解かれても、自分から離れなかった。
むしろ、片平の背中へ腕を回した。
欲しがられる。
求められる。
捕まえられる。
それが、こんなにも身体を熱くする。
片平の呼吸が耳元で乱れる。
凪生は、その乱れにまた煽られた。
自分だけじゃない。
片平も熱くなっている。
片平も、今この瞬間だけは余裕を失っている。
「征路」
名前が漏れた。
依頼者の口ではない。
凪生の声だった。
言ってしまった。
そう思ったのに、検証は止まらなかった。
片平も止めなかった。
ただ、腕の力が少しだけ強くなった。
それだけで十分だった。
片平は聞いた。
聞いて、それでも今は流した。
凪生の身体が白く熱に呑まれる。
強く求められて、丁寧に受け止められて、その両方で奥からほどけていく。
杜香の匂いがゆっくり薄くなる。
景窓の光が、現実のものに戻っていく。
凪生はしばらく、片平の腕の中で息をしていた。
起き上がれない。
身体が重い。
それ以上に、胸の奥が重い。
国見に嫉妬していた。
国見が片平を知っていることに腹が立った。
国見が片平を取りに来たわけじゃないと言った時、少し安心した。
片平が「国見が欲しいのは俺じゃない」と言った時、もっと安心した。
そして今。
自分は、片平を誰にも触らせたくないのだと分かってしまった。
「分かったか」
片平の声がした。
凪生は薄く目を開ける。
片平はすぐ隣にいた。
髪が少し乱れている。
襟元も少し崩れている。
でも、目は静かだった。
凪生はその静けさに少し救われた。
「……分かった気がする」
「言ってみろ」
「今の恋人に、強く欲しがられたいんだ。優しいのが嫌なんじゃない。優しさだけだと、自分の強い欲が置きっぱなしになる」
片平が頷く。
「続けろ」
「恋人の方も、国見を傷つけたいわけじゃない。でも、強く求めることを悪いことみたいに思ってる。そこを変えればいい。国見は乱暴にされたいんじゃなくて、好きな人に、本気で欲しがられたいだけだ」
「正解だ」
短い言葉だった。
それだけで、凪生の胸が少し落ち着いた。
片平はタオルを渡す。
凪生は受け取り、顔を隠すように身体を拭いた。
「……なぁ」
「何だ」
「国見とは、そういうの、何回もやったのか」
聞いてしまった。
聞くな。
そう思ったのに、止まらなかった。
片平は少しだけ間を置いた。
「検証相手としては、何度も」
凪生の胸がざらつく。
「それ以上は」
「ない」
即答だった。
凪生はタオルを握った。
「……聞いてねぇし」
「聞いただろ」
「うるせぇ」
片平はそれ以上言わなかった。
それが逆に、答えとして強かった。
ない。
片平と国見の間に、恋はない。
分かっていた。
分かっていたのに、片平の口から聞きたかった。
最悪だ。
嫉妬している。
完全に。
「凪生」
片平が呼ぶ。
「国見は、今の恋人を選んでいる」
「分かってる」
「俺も、国見を選んではいない」
凪生は息を止めた。
片平の声は低く、静かだった。
「じゃあ、誰を」
言いかけて、凪生は口を閉じた。
そこまで聞く勇気はない。
片平も答えなかった。
でも、視線が近かった。
近すぎた。
扉が軽くノックされた。
国見だった。
「終わった?」
凪生は慌てて身体を起こした。
片平が扉へ向かう。
国見は部屋へ入り、二人の空気を一瞬で察したように笑った。
「いい顔してるね」
「うるせぇ」
「凪生くん、分かった?」
凪生は国見をにらんだ。
さっきまでより、少しだけ普通に呼吸できる。
「今の恋人に、強く欲しがられたいんだろ。優しいのが嫌なんじゃなくて、優しさの奥にある欲を出してほしいだけ」
国見の顔から、軽さが消えた。
「……すごいね。ちゃんと分かるんだ」
「検証したからな」
「それ、妬けるなぁ」
凪生は眉をひそめた。
「何が」
「片平が、君に本気で教えてる感じ」
「教えてるって何だよ」
片平が口を挟む。
「国見、からかうな」
「はいはい」
国見は笑ったが、その目は少しだけ柔らかかった。
「ありがとう。俺、ちゃんとあいつに言う。優しくしないで、じゃなくて、好きなら強く欲しがってって」
片平が頷く。
「それでいい」
国見は片平を確かめるように向き直った。
「片平」
「何だ」
「検証相手だった頃に覚えた身体の癖を、ちゃんと終わらせるところまで見てくれてありがと」
凪生の胸がまたざらつく。
でも、今度は少し違った。
国見の声に、未練はなかった。
あるのは感謝だった。
片平も短く答える。
「お前が終わらせた」
「相変わらずだね」
国見は笑い、凪生へ顔を向けた。
「大事にしてもらいなよ」
「は?」
「片平、かなり面倒な男だけど、ちゃんと待つから」
凪生は言い返そうとして、何も出てこなかった。
ちゃんと待つ。
それは、分かっている。
片平は待つ。
言葉を。
意思を。
凪生が自分で欲しいと言う瞬間を。
そこが、どうしようもなく好きだ。
国見は手を振って帰っていった。
部屋に、また静けさが戻る。
凪生はソファに座り直し、ぐったりとクッションへ沈んだ。
「疲れた」
「だろうな」
「お前の元検証相手、性格悪い」
「悪くはない」
「悪いだろ」
「少し軽いだけだ」
「甘いな」
言ってから、凪生は自分で胸が痛くなった。
片平が国見に甘いと思った。
それが嫌だった。
でも、片平は少し考えてから言った。
「昔の相手には、責任が残る」
「責任」
「一緒に検証をしていた。身体の反応も、感情の癖も、ある程度は知っている。だから、切り捨てるような扱いはしない」
凪生は黙った。
それは、嫌な甘さではなかった。
片平の誠実さだ。
凪生が好きになった部分に近い。
「……俺にも?」
「何が」
「そういう責任、あんの」
片平の視線が凪生に落ちる。
「ある」
即答だった。
凪生の胸が鳴る。
「仕事として?」
「それだけじゃない」
凪生は息を止めた。
片平は、それ以上言わなかった。
言わないのに、十分だった。
十分すぎた。
「……また次」
凪生は立ち上がった。
今言葉を続けたら、きっとまずい。
「凪生」
「何」
「今日は、よくできた」
「急に褒めんな」
「事実だ」
「だから、それがずるいんだよ」
片平は少しだけ笑った。
凪生はその笑顔を正面から受けられず、扉へ向かった。
****
外へ出ると、定禅寺裏の夜は冷えていた。
駅へ向かいながら、凪生は自分の手首を確かめた。
さっき、片平に押さえられた場所。
強かった。
けれど、怖くなかった。
欲しがられること。
強く求められること。
それは、優しさと反対ではない。
国見の案件は、そういう話だった。
そして、凪生にとっては別の話でもあった。
片平を他の誰にも触らせたくない。
片平に、自分を選んでほしい。
片平の手も、声も、熱も、自分だけのものだと思いたい。
「……重」
自分で呟いて、顔をしかめた。
でも、否定できない。
嫉妬だ。
完全に嫉妬だった。
駅のホームで電車を待つ間、スマホが震えた。
片平からだった。
『無理をするな』
短い。
いつも通り短い。
凪生は画面をにらんだ。
心配しているのか。
仕事なのか。
どっちだ。
いや、どっちでもいい。
凪生は返信欄を開いた。
『してねぇ』
送ってから、少し考える。
もう一通、打った。
『国見には触んなよ』
送る直前で、指が止まった。
重い。
さすがに重い。
消そうとした。
でも、消せなかった。
結局、そのまま送った。
すぐに既読がついた。
片平からの返信は、少し間が空いた。
『触れない』
それだけだった。
凪生の顔が一気に熱くなる。
「……そういうとこだぞ」
電車がホームに入ってくる。
凪生はスマホを胸の前で握ったまま、深く息を吐いた。
好きだ。
嫉妬するくらい。
他の誰にも触らせたくないくらい。
もう、かなりまずいところまで来ている。
けれど、胸の奥は妙に甘かった。
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